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天啓

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 「宰相。あなたの雌鶏が、お目通りを願っています」

 秘書官声を掛けられ、メッテルニヒは、はっと我に返った。
 朝から執務室に籠り、考え事をしていたのだ。

「私の、なんだって?」
「奥様がいらっしゃってま、」

秘書官が言い終えないうちに、小柄な彼を突き飛ばすようにして、メラニー……彼より31歳年下の、3番目の妻……が、執務室に入ってきた。

「あなた! お願いがあるの!」
「なんだい」

 面倒くさいと思いながらも、メッテルニヒは尋ねた。
 この若妻の意に逆らったらひどい目に遭うということを、学習済みだからだ。

「わたくし、モントベール伯爵に頼まれましたの。彼、手元不如意なんですって。それで、私、考えましたの。あなたなら、彼に、何かしてあげられるのではないか、って」
「モントベール?」

「フランスからいらした貴族ですわ」
「ああ……シャルル10世の大臣だった……」

「ええ。お気の毒に、2年前の7月革命で、国を追われてしまって。今あの方、フランスへ入ったら、死刑なんですってよ! 全くあの国の人民は、なってませんわ。わがままし放題です。そんな国は、滅びるにきまってます! そもそも、王や王妃の首を切るなんて……」

 際限もなくしゃべり続ける妻を、メッテルニヒは遮った。

「それで、モントベール伯爵は、私に、どうしてほしいんだい?」
「仕事が欲しいらしいですわ。なんでもいいから、収入が必要だと」
「仕事ねえ。じゃ、どこかの家庭教師でも……」

 革命当時、フランスからの亡命貴族は、ボヘミアやプラハで、家庭教師などをして、口を糊していた。フランス語は、公の文書を書くのに用いられるから、今でも、需要はそれなりにある。

 だが、メラニーは首を横に振った。

「伯爵は、人に教えるのは苦手だとおっしゃいました。彼、ものを書くのがお得意らしいの。そちらの方面で、何かないかしら」
「ものを……書く……」

 その時、天啓のように、その考えが降って湧いた。
 彼……。

 フランス人の手で、フランスで出版されたら、彼も喜ぶのではないか? 父の国、フランスで。彼の生涯が。

「よし。モントベールには、ライヒシュタット公の伝記を書かせよう」

「それは、いいお考えだわ!」
メラニーは、飛び上がって喜んだ。
「ついでに、あなたの弁護もしておもらいなさいよ。あなたが彼を毒殺した、なんて、ひどいことを言う人もいるのよ!」

「まさか」
メッテルニヒは驚いた。

 だって、宮廷医師団に命じて、解剖までさせたではないか。医師たちは、胃や腸がきれいだったの対し、肺は、絶望的な状態だったことを確認した。
 白いペスト……彼、オーストリアのプリンスは、結核で死んだのだ。

「ひどい話よね。あなたは、外国の暗殺者たちから、プリンスを保護してきたのに! おかげで、私たちの新婚時代は、台無しだったわ。あなたはとっても忙しくて、旅行さえ……」

「シャルル10世の大臣か。うん、ナポレオンの敵だった者が彼を褒め称えたら、それは真実だと、フランス人も信じるだろう」

妻の愚痴が本格化する前に、メッテルニヒは口を挟んだ。

「彼に有利なことを、たくさん、書いてもらおう。なんといっても、彼は、皇帝の孫なんだから。発達障害とか、誤った教育によって、能力が刈り込まれてしまったとかいう、不謹慎な流言飛語を、このまま許しておくわけにはいかない」

 その流言庇護を一切否定しなかったのがオーストリア宰相メッテルニヒであり、在フランス・オーストリア大使……メッテルニヒの部下……だったのだが。

「モントベールには、ライヒシュタット公の身の回りの人物を取材させよう。彼の、良い思い出を話してくれる人に。誰がいいかな」

 自分が人選をしたのでは、後から何か言われるかもしれない。プリンスの身近にいたハルトマン将軍にでも選ばせようと、メッテルニヒは思った。

 執務室から妻を追い出し、さっそくメッテルニヒはペンを握った。まずは、ハルトマン自身の、プリンスへの評価を探ろうと思ったのだ。彼は、いくつかの質問事項を、(正式文書用の)フランス語で書き連ねた。



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