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第1章
ガーディアン 1
しおりを挟む気がついたら、固いベッドの上にいた。
両脇に手すりのない、簡易ベッドだ。
腕に、点滴のチューブが刺さっている。
「気がついた?」
蒼がいた。
「また遅くまで仕事して。ダメじゃないですか。働きすぎです」
「蒼」
遼の目から涙が溢れた。
「蒼」
「少し休みましょう。僕の家に来ますか?」
ぼろぼろと際限もなく涙をこぼしながら、遼は頷いた。
次に気がついたのは、見覚えのある寝室だった。
見覚えはあるが、自分の部屋ではない。
ベッドに寝かされていた。
今度は柔らかい、いい匂いのするベッド。
どこかで嗅いだ、ひどく懐かしい……。
傍らに見知らぬ男がいて、いろいろなことを聞いてきた。
仕事に不満はあるかとか。
何時から何時まで働いているのかとか。
人間関係はどんなだ、とか。
自分でない、誰かが答えているのが聞こえた。
不満などない。
朝から晩まで。そう、深夜。早朝は、さすがに無理。最後の休日は、さあ、いつだったか。
嫌な人はいない。苦手な人もいない。仕事のミスは、みんな自分のせい。誰も悪くない。
上司の責任? だってこれは、自分の仕事だから……。
誰かがしゃべっているのに、口がどんどんだるくなる。
頭が痛い。
全身が重い。
次第に意識に霞がかかっていった。
寝具から漂ういい匂いが、なだめるように、体をくるんだ。
固い鉱物質の匂いなのに、ひどく優しい。
声が途切れ、ほっと安心した。
再び眠りに落ちた。
熟した実が、枝から落ちるように、自然に目を覚ました。
しばらく、ぼんやりとしていた。
浅瀬で波と戯れるような、幸せな時間。
……仕事!
はっとした。
……今、何時だ?
飛び起きると、驚いたことに、膝に力が入らない。
ベッドから落ちるように、ずるずると座り込んでしまった。
「柳ヶ瀬さん!」
そっとドアが開き、ぎょっとしたような叫び声が聞こえた。
石川が飛び込んできた。
遼の両脇に手を差し入れ、抱き起す。
そのまま、ベッドに戻された。
「会社……仕事が……」
「うんうん、わかった」
石川は言った。
上の空の口調だった。
「気がついたのか?」
別の声が近づいてきた。
夢うつつの中で、いろんなことを聞いてきた声だと、遼は気がついた。
仕事の不満とか。どれだけ働いているのか、とか。
顔をのぞき込んでくる。
知らない顔だった。
「もう大丈夫だろう。点滴もこれで終わりにする。よかったな、柳ヶ瀬さん。発見が早くて」
「幸崎さんが教えてくれたんだ。あなたの様子がおかしいって。彼にオフィスに入れてもらって、倒れているあなたを見つけた。息が止まるかと思った。幸崎さんと二人で、救急病院へ運んだ」
石川が口を出した。
……幸崎と石川は知り合いだったか?
「なにしろ、僕は、あなたのガーディアンだからね」
「ああ、庭師……」
「違う!」
「毎日、会社の前で張ってて、不審者通報されそうになったこともあるんだろ?」
遼の腕から点滴の針を抜きながら、さきほどの男が言った。
「だって、なかなか会えないから。ラインもメールも繋がらないし。ずっと客先勤務だったんだね」
「だからって、会社前で張り込むか?」
「やるさ、それくらい。おかげで、幸崎さんには、顔と名前を覚えてもらえた。柳ヶ瀬さんの知り合いだということも」
「拒絶されているとは、考えなかったのか?」
「なぜそんなことを? ねえ、柳ヶ瀬さん」
いや、その通りなのだが。
だが、ただ頷く、それだけが、ひどくおっくうだった。
自分にはそうするだけの明白な理由があった。
頭に力が入らず、それさえも、今は思い出せない。
「石川。お前のやり方には、賛成できない」
改まった口調で見知らぬ男が言った。
「その執着も、理解できない」
石川は男を無視した。
布団から出ている遼の右手を握り、あやすように話しかけた。
「安心していいよ、柳ヶ瀬さん。この男は、医者だから。僕の、高校時代の友達なんだ」
「腐れ縁のな。さんざんいいように利用されてる気がする。俺の名は小堺。こいつの言うように、医者だ。精神科の」
……精神科?
振り切る前に、石川の手が離れた。
人が立ちあがる気配がする。
「それで、小堺。診断書は書いてくれるんだろうな?」
「書いてほしいなら、きちんと病院へ連れて来い。俺は、勤務医なんだぞ」
「院長は、父親だろ?」
「だからって、」
「お前に迷惑はかけない。もちろん、おやじさんにも。俺は、法的証拠がほしいんだ」
「さっきも言ったが、石川、お前のやり方には、賛成できない。第一、この人には、看護と安静が必要だ」
「看護なら、俺がする。ミスミもいるし」
「美純ちゃんか。まあ、それなら。彼女は看護師だからな」
……ミスミ?
「なにかあったら、連絡するよ」
「そうやって、往診させるようとする。まったくお前は人使いが荒い。だいたい、うちの病院に入院させたくないたあ、どういう了見だ!」
「だって、満床だって言ったじゃないか」
「他ならぬお前の頼みなら、」
「いや、頼んでないから」
寝室のドアが開けられる音がした。
「さっきも言ったが、その執着は、異常だぞ」
低い声が囁いた。
……どういうことだ?
はじけるような石川の高笑いが聞こえてきた。
「誤解だよ。この人は、仕事関係の人だ。俺だって、時には身を張って、依頼人の為に働くこともあるさ」
「社会の巨悪と戦うとかか?」
からかうような声が返した。
「ならいっそう、俺を巻き込むな。俺は、小市民的に生きているんだ」
「まあまあ、そう言わずに。将来お前がやらかした時、真っ先に駆けつけるから」
「弁護士に駆けつけてもらうようなことをやらかすつもりはない!」
言い争う声が、次第に遠ざかっていく。
ばたんと、どこかの部屋のドアが閉まった。
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