ピュアなカエルの恋物語

せりもも

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1章 ハーレム・ハーレム

15 蒼い満月の夜

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 岸に上がった将軍は、草の上に置いてあった浴布で、頭をごしごし拭き始めた。当番兵が、水で洗って陽の光に晒しただけの、ごわごわした布地だ。

 ひとしきり髪を拭き終わると、リネンのシャツを身に着けた。下は、ゆるい普段着のズボン。どちらも、相当に年季が入った、ボロ着である。

 まあ、いつものことだけど。


 大きな岩の上に、足を組んで座る。

 ……あれ。
 ……なんだか。

 どうしてだろう。ひどく寂し気に見える。
 あのお気楽エロ将軍が。

 声を掛けようとして、しかし、掛けられなかった。
 見てはいけない将軍の姿を、見てしまったような気がしたからだ。

 まあ、声を掛けても、言葉は通じないわけですけど。


 自分も岸に上がり、楓の葉っぱの下に隠れて窺っていると、ため息が聞こえた。

 ため息?
 ノーテンキな将軍が?
 聞き違えか?


 両足を組んだまま、将軍は岩の上にあおむけに寝転んだ。
 頭上では、珍しい蒼い月が、彼を見下ろしている。

「……」
将軍が何か言った。

 「私の将軍」と、聞こえた。
 何だ、そりゃ。



 蒼い月の光が、仰向けの顔を、真上から照らす。
 彼が、意外と端正な顔をしていることに、初めて気がついた。

 ……あれ?

 右頬の傷が、化膿しかけている。落馬した時にできた傷だ。おおかた、かすり傷だと、放置していたのだろう。

 ……軍医も連れずに、遊びに行くから。

 俺は忌々しく思った。

 ……連れていくなら、軍医だろう。ルイーゼじゃなくて。


 ケンタウロスには、傷を治すことなんかできやしない。

 化膿した傷をそのままにしておいたら、ただでさえ傷だらけの将軍の顔が、余計、ひどいことになりそうだ。クジャクじゃないんだ。傷や痣で飾られ、これ以上、カラフルになる必要もないだろう。







 ぴたっ。

 仰向けになって月を眺めているロンウィの顔に、何かが張り付いた。

「うっ!」

 百戦錬磨の将軍が、飛び上がる。
 それほど不気味な感触だった。

 ぬるぬる。
 べちゃべちゃ。

 頬に張り付いたそいつは、動いている!


「なななな、」

 ひっつかんで、引き離そうとしたが、剥がれない。

 ぬるう。
 べちゃあ。

 ロンウィの指を、一本一本、ぬめっていく感触。
 赤い、細い……。
 舌?


「うわあっ!」

5歳の時に、姉に背負い投げされて以来、25年ぶりで、ロンウィは、悲鳴を上げた。


「ゲロゲーロ」

咎めるような、カエルの声。

「あれ?」
「ゲロゲーロ!」
「グルノイユか?」
「ゲロ」
「悪い。気がつかなかった」


 カエルなんて、全部同じに見えそうなものだが、ロンウィには、バーバリアンの小公子は、他のカエルと違って見えた。

 つややかな黄緑で。
 可憐な、つぶらな眼。それから、ちょっと扁平に横に広がった顔。

 小さな手足には、ちゃんと水かきがついていて、それが凄くカワイイ。

 声だって、最初は衝撃のあまりわからなかったが、これは確かに、グルノイユの鳴き声だ。
 ハスキーで、でも高音域はなめらかで、保護欲を誘うというか……。

 姿かたちも声も、まるで違う。
 グルノイユは、他のカエルたちとは、全然違う。

 ロンウィが、懸命に目線を下げると、自分の頬に張り付いているのは、間違いなく、バーバリアンの小公子だった。


「そこで何をしてるんだ、グルノイユ」
「ゲロ」

 青い月の光を浴びた小さなカエルは、とてもキュートで可憐だった。

「そんなところにいないで、降りて来いよ。お前もハーレムの一員なんだから……」

 眼球目掛けて飛んできた水かきのある足を、危ういところで将軍は、瞼で受け止めた。

「うわっ! 危ないじゃないか。目に刺さるところだった。あのな。別に変なことをしようってんじゃないよ? そっちは、間に合ってる。ただ、お前とゆっくり話したことって、ないだろ? そこにいたんじゃ、話しにくいから」

「ゲゲゲゲ」

バーバリアンの小公子は、ひどく立腹しているようだ。そのくせ、一向に、ロンウィの頬から剥がれようとしない。

「居心地いいか、そこ」

 諦めて尋ねた。
 水かきのついた小さな足で、頬を踏みつけられた気がした。

「まあいいや。居心地がいいなら、しばらくそうしてるといいさ」


 再び、ロンウィは、岩の上にあおむけになった。
 相変わらず月は、蒼い光を放ち、完璧な円形をしている。



「普段はなあ。月がうまそうだな、って思うんだ。なんというか、冷たい砂糖菓子みたいで」

頬の上で、カエルが笑った気がした。

「でも、今夜の月は違う。いや、きれいだよ。とてもきれいだ。でも、食べたらいけない気がする。なあ、グルノイユ。本当に好きなものは、食べてはいけないんだな」

 ……何言ってんだか。

 ぬめぬめした皮膚を通して、カエルの心の声が聞こえた気がした。



「グルノイユ。俺は栄光が欲しい」

 ……栄光?


 ぬめぬめのべちょべちょが、僅かに動いた。というか、横に流れた。頬からはみ出し、耳たぶにぬめぬめが触る。
 グルノイユとわかってからは、不思議と気持ち悪さはなかった。それどころか、ここ数日、ひどく疼いていた頬の傷が、ひんやりと冷やされ、気持ちがいい。


 カエルを頬に載せ、月を見上げたまま、ロンウィは続けた。

「金が欲しいんじゃない。富もいらない。そんなものは、いつだって手に入れることができる。俺はな。栄光を手に入れたいんだよ。小さいのじゃだめだ。過去に得た小さな栄光を犠牲にしてでも、大きな栄光を手に入れるんだ。俺はいつだって、栄光を更新して生きていく。命を賭けて」

 ぬべ。カエルが動く。
 ねちゃねちゃした感触が、今はとても心地いい。

 ロンウィはうっとりした。気がつくと、心に秘めている思いを口にしていた。


「そうしないと、あの人の傍らに並べないから。いや、並ばなくたっていい。いつもそばにいる許しを得たいんだ。俺は、あの人を守るよ。生涯、守り続ける。だが、今のままではダメなんだ。栄光がないと。それほど素晴らしい人なんだよ、俺の想い人は。いくらだって、自慢したい。だけど、あの人のことは、話しちゃいけないんだ。俺にできることは、素晴らしい栄光を手に入れて、あの人の近くで生きること……」


 どのくらいの時が経ったろう。ぬめぬめべちゃべちゃが剥がれた。ヒトの体温を吸収して、すっかり頬と一体化していたそれは、何の前触れもなく、ほろりと取れた。


 涼しい風が頬を撫で、ロンウィは、目を覚ました。


「あれ、眠っちゃってたか?」


 頬が、すごく寂しい。
 慌てて頬に手をやると、すべすべした感触がした。

 数日来、熱を持ってじくじくと痛んでいた傷が、すっかり完治している。


「グルノイユ?」


 返事はなかった。グルノイユの姿は消えていた。眠ってしまったロンウィを置きざりにして、一足先に帰ってしまったものとみえる。

 かまわず、ロンウィは続ける。


「これ、お前が治してくれたのか」
「……」

「そういえば、バーバリアンの幼生には、腫れ物を治す力があると、聞いたことがある……」
 岩の上に座り直し、将軍は考え込んだ。






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