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3 出会い

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 初めて彼に会った時(それは、彼女がF・カールと結婚して、オーストリアに嫁いできたときのことだ)、彼は、13歳だった。ゾフィーより、6つ、年下だ。


 「……あの子は?」
バイエルンから嫁いできたゾフィー大公妃は、隣のF・カール大公の肘を掴んだ。

 ゾフィーに肘を掴まれ、F・カールは、危うく、グラスに入ったワインをこぼしそうになった。
 妻の目線の先では、金色の髪の少年が、バイエルンの貴族たちと歓談していた。

「ああ、あれ。ライヒシュタットだよ。フランツ……つまり、皇妃の言うところの、『フランツェン』だ」
「フランツェン?」
「うん。パルマにいる姉貴の、息子」
「マリー・ルイーゼ様の? あっ!?」
「そうだ。彼が、ナポレオンの息子だ」

 それは、バイエルンでも有名な話だった。
 人喰い鬼に嫁いだ皇女と、ウィーンのとばりに、厳重に隠されたその息子の物語は。

 ゾフィーは、喰い入るように、少年を眺めた。
 今宵の客人を相手に、少年は、如才なく会話を続けている。時折、客人達が、楽しげに笑う。
 何を話しているのか、ここまでは聞こえてこない。だが、少年が、客を楽しませているのは、明らかだった。
 時折、少年自身も微笑む。だがその笑みは、一時的で、儀礼的なものだった。
 彼が、少しも楽しんでいないことに、ゾフィーはすぐに気がついた。

 ……私と同じだわ。
 実のところ、F・カールはゾフィーの好みではなかった。
 彼女の夫は、あまりにも地味だった。口が重く、何を尋ねられても、はかばかしい返事を返さない。。
 実際、初めて顔を合わせた時は、軽く失望したものだ。

 一方、ゾフィーは、「バイエルンの薔薇」とも謳われた、評判の美姫である。彼女の肖像画は、異母兄ルートヴィヒ1世の造った「美人画廊」に飾られたほどだ。また、頭の回転も早く、決断力に優れていた。

 ゾフィーの実の両親でさえ、この結婚には気乗りが薄かった。

 実際にウィーンに来てからも、彼女は、あまり楽しめなかった。ウィーンの宮廷は、彼女には、堅苦し過ぎた。バイエルンの、自由な雰囲気が、懐かしかった。

 だがすぐに、彼女は、自分を諌めた。

 「桁外れの成功」
 F・カール大公との結婚を、異母姉……ゾフィーの前にオーストリア皇帝に嫁いだ、皇妃カロリーネ・アウグステ……は、こう評している。

 オーストリアは、長男の即位が原則だった。
 今上帝の長男フェルディナンドは、いつもにこにこ笑っていて、宮廷では愛され、大切にされている。しかし、彼は体が弱く、その政権が、長く続くとは思えなかった。また、結婚も難しいし、子どもをなすことも不可能だろうと、医師団は危惧していた。

 つまり、オーストリアの皇帝の位は、次男のF・カール大公……ゾフィーの夫……に転がり込む可能性があるのだ。そして、その次の皇帝は、確実に、F・カールの子……彼女の産む息子が、即位する。

 そう。
 ゾフィーは、この国オーストリアの皇帝を産む為に、はるばるバイエルンから、嫁いできたのだ。

 年老いた皇帝の妻となり、子をなすことが望めない異母姉あねカロリーネからみたら、異母妹いもうとゾフィーの結婚は、「桁外れの成功」以外の、なにものでもなかろう。


 「おおい、フランツ」
夫が、呑気な声を出した。
「おいで、フランツ。ゾフィーがお前と、話をしたいって」

 ……悪い人じゃないんだけど。
 ゾフィーはため息をついた。

 大公を表す赤いサッシュを、肩から斜めにかけた夫は、人が良さそうに笑っている。そのフェルトが、少し捩れていることに、ゾフィーは気がついた。だが彼女は、夫の肩に手をかけ、直してやろうとはしなかった。

 金髪の少年が、振り返った。
 F・カールの姿を認め、一瞬眉を顰めた。だが、すぐに、微笑み返した。

 一緒に居た人たちに何か囁くと、彼は、足早にこちらへ向かってきた。スマートな体が、猫のようにしなやかに近づいてくる。

 ……白い肌。赤みを帯びた、すべすべした頬。ふっくらとした唇。
 ……広い額に、黄金色の髪。どこまでも澄んだ、青い瞳。

 「フランツはね。僕にとって、弟みたいなもんさ」
得意げなF・カールの声で、ゾフィーは、我に帰った。
 美しい少年に見惚れていた自分に気がつき、はっとした。

 「弟じゃありませんよ、叔父さん」
少しかすれた声が返す。その時ゾフィーは気がつかなかったが、声変わりの途中だったのだ。

「叔父さん? 叔父さんはないだろ? 俺はいつもお前のことを、実の弟と思って、教え導き……、」
「母上は怒ってましたけどね。叔父さんが僕に、変なことばかり教えるって」
「変なこと? 失礼な。俺が今まで教えてきたのは、有意義な人生のありかたそのもので……、」
「ザクセン王妃(皇帝の姉。フランツの大伯母)からパルマの母に、手紙がいったそうですよ。僕を貴方に近づけないほうがいいって」

 ひどく生意気な態度だ。
 だが、ゾフィーに向けられた声は、丁寧で優しかった。
 彼は、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳で彼女を見つめた。

「顔合わせの時にお会いしましたね。ゾフィー大公妃。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
「よろしくね、フランツェン」
ゾフィーが言うと、フランツは、複雑な顔をした。

「挨拶が遅れたのは、しょうがないよ。僕らの回りは、いつも人がいっぱいいたからね」
慈悲深く、F・カールが許しを与えた。







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この前を、2話にまとめました。内容は同じです。
すぐに完結させるつもりでしたが、普通の短編小説くらいにすることにしました。
お付き合い頂けたら幸いです。

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