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16 奈落へ

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 赤ん坊の養育係長の女官、バロネス・ストゥムフィーダーが、立ち止まった。
「あの。ゾフィー大公妃」
 うろたえた声で呼びかけた。
 彼女は、おくるみにくるんだ、フランツ・ヨーゼフをだっこしていた。

「あ。そろそろ交代する?」
先を歩いていたゾフィーが振り返った。

 小さなフランツ・ヨーゼフの日光浴を兼ねて、宮殿の中を歩いていた時のことだ。

「いえ……」
いつも落ち着き払っている彼女が、珍しく、動揺している。
「プリンスの……つまり、その……」

「フランツ・ヨーゼフが、どうかして?」
 ゾフィーは、子どもに手を伸ばした。バロネスの手から、受け取ろうとする。

 バロネスは、渡そうとしなかった。
「大公妃のドレスまで、濡れてしまいます。ちょっと、タイミングが悪かったようで……」
しどろもどろと口を濁す。

 ゾフィーは、はっと気づいた。
「あ。やっちゃった?」
「はい。運悪く、襁褓むつきがズレていたようで……」
「ごめんなさい! 私だわ!」

 育児室を出る前に、おむつを交換したのは、ゾフィーだった。
 むちむちした肌に触れ、小さな男性のシンボルを見るのが楽しくて、ゾフィーは、率先して、我が子のおむつを替えたのだ。

「あなたに頼めばよかったわね。ごめんなさい、バロネス・ストゥムフィーダー」
「いえ、そのようなことは……」

 バロネスの腕の中で、フランツ・ヨーゼフの顔が、急に、真っ赤になった。真面目くさった顔を顰め、もう一度、赤くなる。
 ゾフィーの鼻先に、ぷーんと、覚えのある匂いが漂ってきた。

「まさか……」
 バロネスが、途方に暮れている。
「ええと、ベビードレスから漏れてますね……」
「まあ、大変!」

「あの、大公妃」
 思い切ったように、バロネス・ストゥムフィーダーは、ゾフィーに身を寄せた。
「プリンスをお連れして、私、先にお部屋に戻っても、ようございますか? もし万が一、宮殿の床を汚すようなことがあるといけませんから」

「もちろんよ! お願いするわ、バロネス・ストゥムフィーダー!」
「殿下のお着替えを済ませたら、大公妃のお部屋へ参りますから!」

 言い終えるなり、赤子を抱いたまま、バロネスは、早足で立ち去っていった。


 赤ん坊と離れたのは、随分、久しぶりだ……。
 宮殿の廊下に、たったひとり残され、ゾフィーは気がついた。

 腹の中に、10ヶ月。
 生まれてからは、常に、自分が抱いているか、侍女に抱かれた彼が、そばにいた。いつも、身近に、しっとりとした、赤子の体温を感じていた。

 広い通路には、硝子を通して、さんさんと、太陽の光が差し込んでいた。窓の外、眼下に、緑輝く庭園が、広がっている。
 静かだった。
 急に、ひとりぽっちになった気がした。


 「ゾフィー」
 誰かが名を呼んだ。
 そばに、グスタフ・ヴァーサが、立っていた。

「グスタフ!」
「ゾフィー」
彼は無言でゾフィーに近寄ってくる。

 儀礼上、許される以上の距離にまで踏み込んできた。
 息が苦しい。

「待って!」
「待てない」

 抱きしめられていた。
 狂おしく唇を貪られる。
 ゾフィーの頭の芯が痺れた。
 長い間、忘れていた感覚だ。

 恐ろしい陶酔が、迫ってくるのを、ゾフィーは感じた。この波にさらわれたら、自分は生きてはいられまい……。

 ……ああ。
 ……あの子が汚したのが、私のドレスだったらよかったのに。

 無邪気に笑う子どもの顔が、頭に浮かんだ。
 力いっぱい、彼女は、ヴァーサの体を突き飛ばした。

「だめ! いや!」
短く、叫んだ。

 ヴァーサは、驚いたようだった。
 肩で息をし、二人は、睨み合った。

「なぜ! 私は待った。貴女が待てと言ったから!」
「私は、大公妃です。こういうことは……」
「だから、言葉通り、子どもが生まれるまで、待ったではないか。貴女は言った。男の子が生まれれば、自分は、義務を果たしたことになる、と。そうしたら、私のものになってくれる約束ではなかったか!」

「子どもは、もっと欲しい……」
 その言葉は、つるりと、彼女の口から滑り出た。
「あの頃私は、赤ん坊があんなに可愛いものだと、知らなかったの!」

「なにも、オーストリアの皇子でなくてもよかろう?」
なだめるように、ヴァーサは言った。
「スウェーデンの王子を! いずれ、わが祖国を奪還してくれる子を! 私は、その心づもりでいる」

「いいえ! いいえ!」

 ゾフィーは必死だった。
 どう言ったら、わかってもらえるだろう?
 国とか、王とか、力とか。
 そんなものとは、全く別の感情に、彼女は、揺り動かされていた。

「私は、フランツ・ヨーゼフあの子赤ちゃんが欲しいの!」

「私の子では、ダメなのか?」
傷ついた色が、青白い顔に浮かんだ。
「そんなに、F・カールがいいのか?」

「違う……いえ……」

 ゾフィーには、わからなかった。
 なおも、ヴァーサが詰め寄った。

「オーストリアが、いいのか!」
「違うわ!」
「なら、なぜ!」
「……」
「貴女は、私を、愛してくれたのではなかったか!」
「……愛している」

 再び、ヴァーサが、彼女の体を抱きしめようとした。
 長く伸ばされた腕を、彼女は逃れた。

「だから、違うの。違うんだってば!」
「どこがどう違うのか!」

 答えられるはずがなかった。
 ゾフィー自身にも、わからなかった。
 ただ、無性に、フランツ・ヨーゼフ息子が、赤子の匂いが懐かしかった。

「私は貴女が欲しい。ずっと、待っていた。今すぐ、貴女が欲しいのだ」

 再び、抱きしめようとする。
 逃れられない、と、ゾフィーは感じた。
 こうして人は、女は、奈落に落ちていくのか……。







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