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17 二つの祖国

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「ゾフィー! それに、ヴァーサ公ではありませんか!」
 嬉しそうな声がした。

 はっと二人は振り返った。
 金色の巻き毛の青年が、そこにいた。
 赤、緑。青。
 色とりどりに彩色した旗を、腕いっぱいに抱えている。

 「ライヒシュタット公!」

 その時、ヴァーサの北欧系の顔に浮かんでいたのは、紛れもない憤怒の色だった。
 欲情を邪魔された、男の顔だ。

 青白い、怒りの横顔を、ゾフィーは、じっと見つめた。

 「貴公こそ、そこで何をしている! いつからそこにいた!」
怒鳴るようにヴァーサが問うた。

「たった今」
 フランツは、両手に抱えた色とりどりの旗に目を落とした。
 柔らかな視線を上げる。

「フランツ・ヨーゼフ大公に、旗をお持ちしました。彼は、ひまわりの花を、大層喜ばれました。ですから、特別、鮮やかな色で染めさせて……」

「ありがとう、フランツル」
ゾフィーの声が、潤んだ。

「どうしたの、ゾフィー!」
フランツがうろたえる。

「ひまわり? 旗? 呆れたな!」
ヴァーサが吐き捨てた。
「訓練にも出ず、子どものお遊びか?」

「訓練は終わりました。僕は今、教練場から引き返してきたところです」

「ご苦労なことだ」
皮肉な調子で、ヴァーサは言った。
「なにしろ、君は、兵士どもに、人気があるからな。君が、白い馬に乗って、教場に姿を現すと、兵士どもが、歓声をあげる。だがそれは、軍規違反だ。将校に対して、歓声を上げるなど!」

「申し訳ありません、ヴァーサ公。ですが、どうぞ、兵士たちを罰することは、なさらないで下さい」

「なぜ? 鞭打ちは、必定だ。軍の規律は、守られねばならない」
いらいらと、ヴァーサは言い放った。

 八つ当たりだ。邪魔が入ったことで、自分を抑えられないのだと、ゾフィーは感じた。
 フランツが、何か言っている。

「兵士たちは、家畜ではありません。人間です。そして、傭兵でもありません。彼らは、オーストリアの、民です。その彼らを、鞭打つようなことは、あってはならぬと、私は、考えます」
「上官に物申すか」
「プロイセン流のスパルタは、決して、いい結果を生みません」
「君は、兵士たちの、人気者アイドルだからな!」
「ヴァーサ公」

 フランツが、ぐっと何かを飲み下した。
 声を和らげ、続ける。

「僕は、夢見ていました。同じ廃太子として、貴方と、強い友情を結ぶことを。貴方の先祖、北方の獅子王アドルフとオクセンシエルナの友情は、僕の憧れでした」
「ふん! 我らから王座を奪ったのは、貴公の父の配下ではないか!」

 現スウェーデン王カール14世は、元は、フランスの将校だった。
 彼、べルナドットは、ナポレオンとともに、フランス革命を継ぐ者として、成り上がってきた男である。
 ナポレオンが第一執政になるに及んで、その下に組み込まれた。

 フランツが、激しく首を横に降った。
「べルナドットは、乞われて王になっただけです。貴方の父君を王座から追放したのは、彼ではありません」

「だが、べルナドットの即位により、わがホルシュタイン=ゴットルプ王朝は滅亡した」

「……」
 フランツの顔色が変わった。

 彼が激しい葛藤をしているのが、ゾフィーには、見て取れた。フランツは、必死で、自分の中の本性……熱く激しい性格……を、抑え込もうとしていた。
 それが、彼が受けてきた、教育しつけだったから。ここ、母の国で、彼は、父から受け継いだ激情を表に出さぬよう、ひたすら躾けられていた。


 突然、彼は、努力を放棄した。
「ええ! 僕も、彼が嫌いです! 父だって、べルナドットを嫌っていました。最初から!」

 フランツの声が裏返った。
 何かに憑かれたような表情に変わっている。

「スウェーデン王太子となったべルナドットは、僕の父ナポレオンを裏切りました。ロシアに与し、1813年の戦いでは、連合国側についた。彼は、あろうことか、かつて自分が所属していたフランス軍の情報を売ったのです」

 べルナドットの齎した情報をもとに、連合国側は、フランスとの正面対決を避けた。そして各軍を、個別撃破する戦術を取った。
 フランス軍の弱点を衝いた攻撃に、ナポレオンは大敗し、べルナドットは、連合各国から、最高勲章を贈られた。


「敗戦は、父上の失策ではない。卑怯なべルナドットのせいだ!」
滔々と述べ立て、最後にフランツは叫んだ。
「……」

 ヴァーサには、口を挟む隙もなかった。年若い将校の情熱に、彼は、あっけにとられていた。その上官ヴァーサを、フランツは、熱い眼差しで見返した。

「ですから、ヴァーサ公。僕は、理が通れば、貴方とともに、戦いたいと思っていました。べルナドットを討ち取ったなら、どんなに気分がいいか! フランスとスウェーデン。両国の廃太子が手を結べば、いったい、どれだけのことができるだろう……」

「私と? 手を結ぶ?」
驚愕の表情が浮かんだ。

「僕は、貴方を尊敬しています」
きっぱりと、年若い青年は言ってのけた。
「貴方は、母国スウェーデンを逃れ、この国オーストリアに忠誠を誓いました。貴方は、必要となったら、母国スウェーデンとも戦うでしょう。僕には、とても、真似できない……僕は、フランスとは、戦えません」

「君がフランスと戦えないのは、父ナポレオンへの尊敬からか?」

「父の遺書を読みました。……出版された、書物で」
 直接、父親の遺書を手渡されることはなかった。ナポレオンの遺言執行人達は、ウィーンに近づくことさえ、許されなかった。フランツは、臣下たちの書いた本を読み、父の偉業を知った。中の一冊に、ナポレオンの遺書が収録されていた。
「父は、フランスに剣を向けてはいけないと言い残しました。僕は、父に従います。父の遺書は、僕の行く道を、指し示しているのです」

「いったい、どちらがいいのだろうな」
ぼそりと、ヴァーサは言った。
「かつてスウェーデン王であった私の父は、国を追われ、情けなくも、没落する一方だった。母と離婚し、各地の警察とトラブルを起こし、果てに、精神に異常を来した。今では、地元の子どもたちにさえ、雪玉を投げつけられる始末だ。私は、そんな父を、憐れんでいる。だが、死して後も、息子を束縛する父よりは、幾分、マシなのかもしれぬな」

「僕は、父を尊敬しています。父だけではありません。母と祖父も。父の国フランスも、母と祖父の国オーストリアも、どちらも、僕の祖国だ」

「君は、幸せなのだな」
 青白く強張っていたヴァーサの顔が緩んだ。瞳の鋼色が、少しぼやけている。
「幸せ?」
 不審そうに、フランツが問い返す。
 ヴァーサは、ため息をついた。
「だが、二つの国にまたがり、不幸でもある」

「僕は、オーストリアの軍人です。だが、僕には、フランスという別の母国がある。あなたもそうだ、ヴァーサ公。あなたも、スウェーデンという別の祖国を持っていらっしゃる。若輩者として僕は、あなたに、もっともっと、教えて頂きたいのです。軍務だけではなく、いろんなことを。僕は、あなたを失いたくない。ですが、」

フランツは、きっと目を上げた。

「ゾフィーに手を掛けてはいけません。オーストリアを傷つけては、ならぬのです」

 はっと、ゾフィーは、息をのんだ。
 ヴァーサは、ゾフィーを見下ろした。
 フランツの陰で、彼女は、震えていた。

「ゾフィー大公妃。私は貴女を、決して、諦めない。私は、貴女を、愛しているのです」
 立ち去る彼の、軍靴ブーツの音が、宮殿の廊下に響き渡った。






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