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21 揺り籠と墓場

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 祖父の皇帝が、ようやく彼を連隊に配属したのは、フランツが20歳の時だった。
 周囲の付き人は一変した。将校達の出入りが多くなった。彼は、急に大人びた口をきくようになり、祖父の皇帝や、ゾフィーのことさえ、遠ざけるようになった。

 皇族の初任地は、プラハと決まっている。しかし、フランツが配属されたのは、ハンガリー第六〇連隊だった。この連隊の司令本部は、アルザー通りにある。この期に及んでさえも、彼は、ウィーンから出ることを許されなかった。

 思えばこの頃から、結核は再発していたのだ。
 しかし彼は、それを隠し通そうとした。何より、軍務を優先させた。

 冬の寒い日、フランツは、シーゲンタール将軍の葬儀パレードの指揮を執った後で、喀血した。
 短い小康状態を経て、容態は雪崩を打つように悪化していった。彼は、郊外のシェーンブルン宮殿に移された。

 ちょうどその頃、ゾフィーも、第二子を懐妊中だった。出産の為、彼女も、シェーンブルン宮殿に移っていた。
 具合の悪い甥の為に、ゾフィーは病室を調え、座り心地の良い椅子を新調した。


 「ありがとう。ゾフィー。愛らしく優しい、君は、美の天使だよ」
フランツは、掠れた声で礼を述べた。
「絶対に良くなるのよ」
わざと高圧的に、ゾフィーは言った。
「そして、フランツ・ヨーゼフだけじゃなくて、お腹の子にも、会ってあげて」

 複雑な顔で、フランツは微笑んだ。ひどくやつれ、顔色もよくない。

 ……「私は、ひどく悪いのです。来て下さいと、お母様に伝えて下さい」
 ここへ来る前、プリンスは、家庭教師のディートリヒシュタイン伯爵に頼んだという。
 ……「プリンスは、お母様に会いさえすれば、もちなおす筈です。今までずっと、そうでしたから!」
 鼻の頭を真っ赤にして、ディートリヒシュタインは、ゾフィーに訴えた。

 パルマのマリー・ルイーゼ義姉から、こちらへ向かうという連絡は、まだ、ない。


「フランツル……」
 ゾフィーは、たまらない気持ちになった。

 フランツは、素早く、ゾフィーの不安を読み取ったようだ。
「そんな顔しないで、ゾフィー」
 ぎくしゃくと立ち上がり、彼女の手を取った。それだけの動作が、ひどく辛そうだ。
「君を悲しませたら、僕は、極悪人だ。あのね、ゾフィー。僕は、それほど悪くないよ。ここシェーンブルンへ来たのは、政府の陰謀さ」
「陰謀?」

 思いがけない言葉に、ゾフィーは一瞬、悲しみを忘れた。
 しかつめらしい顔で、フランツは頷いた。

「そう。例によって、情報を遮断させるためだよ。街では、あることないこと、言われているに違いないからね。僕を、どこかの国の陰謀に巻き込まれさせまいと、宰相メッテルニヒ辺りが……」

 街で囁かれているのは、ライヒシュタット公重病説だ。

「フランツル……」
 ゾフィーの声が詰まった。
 フランツは、顔を、くしゃっとしてみせた。
「大丈夫。どこの国にも、逃げはしないさ。僕はいつだって、ここにいる。君のそばに」

 気楽そうに、微笑んでいる。
 本当に、フランツは、元気なのかもしれない。
 ゾフィーは、思った。
 そんな気がしたほど、その笑顔は、いつもどおりだった。
 優しい、包み込むような笑顔だった。


 けれど、そのころすでに、フランツには、希望がなかったのだ。新しく招かれた医師団が、彼の命が残り少ないことを、皇帝に宣告していた。

 「生まれたことと、死ぬこと。これだけが、僕の人生だった。揺り籠と墓場は、近くにある。その間には、巨大な無があるだけだ」

 彼がそう言ったと、ゾフィーの元にも伝えられてきた。
 ゾフィーは、毎日、彼を見舞った。
 自分にできることなら、何でもするつもりだった。







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