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5 初夜
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やっぱりわたしは殺されるんだわ。
でも、受け入れなければ。わたしは王女。メレンクールの人々の為なら、この命を捧げても惜しくはない。
禍々しい刀身を、ワッツァは横に構えた。長い刃が、ぎろりと光る。
はっと息を飲む暇もなく、そこに自分の手のひらを押し当てようとする。
そんなことをしたら、手のひらが切れて、血が出るではないか。ワッツァは気でも狂ったのだろうか。
「一介の養育係に、そこまでしてやる必要がおありでしょうか」
その時背後から声が聞こえ、わたしは飛び上がった。女官がひっそりと佇んでいたことを、すっかり忘れていた。
衣擦れの音を立てて彼女は近づいてきた。
「この女が死んで、かえが必要になったら、その時にはわたしがいくらでも探して参ります。卑しい人間ごときに、貴方様の貴重な資源をお使いなさる必要はございません」
きっぱりと言い放ち、ワッツァの手から剣を取り上げようとする。
「なるほど。それもそうだな」
ワッツァも、あっさりと彼女に剣を渡した。
女官はわたしに色のない目を向け、薄く笑った。あざ笑うかのような笑みだったが、わたしとしては、とりあえず、まがまがしい刀身が目の前から消えたので、全身から力が抜ける思いだった。
ほっとしたせいか、あの匂いが再び感じられた。ワッツァとともにやってきた匂いだ。
嗅ぎ慣れない、けれどよく知っているはずの匂い。
隅の戸だなからガラスのグラスを取り出し、ワッツァは金色の液体を注いだ。
ブランデーだ。わたしのところまで芳醇な香りが漂ってくる。豊かな黄金色の液体を、ワッツァは一息で飲み干した。
「さて、休むとしよう。今日は長い一日だった。お前の国の同盟国が、まだ俺に逆らおうとしたからだ」
呆れたことにワッツァは、花嫁を迎える今日でさえ、戦場に出ていたのだ
その時、わたしは気がついた。
ワッツァから漂ってくるこの匂い、これは、血の匂いだ。今日、彼が戦場で殺した、大勢の兵士たちの血の痕跡だ。
「褥の準備ができました」
いつも間にか姿を消していた女官がどこからともなく現れ、頭を下げた。
褥?
そうだった。わたしはこの人の妻になったのだ。
もちろん、祖国でその方面の教育も受けて来た。怖いマダムが、絵入りの本を使って、信じられないようなことを教えてくれた。
頬が赤らんだ。けれど、浮ついた気持ちはすぐに、絶望的な恐怖に取って代わった。
ワッツァの言ったことの意味が、ようやく理解できたのだ。
この人は、今日、人を殺した。それも大量に。メレンクールの同盟国の人たちを。
今日だけじゃない。わたしの国の人達もたくさん殺してきた。そして、わたしの叔父を殺しそこなったことを、今でも残念に思っている。
そんな人と、床を共にしなければならないののだろうか。
ワッツァが部屋を出て行こうとする。寝室へ向かうのだ。
ついていかなければならない。それなのに、体が、石になったように動かない。
ダメ、行かなくちゃ。
それが、妻としての、いや、メレンクールの王女としての義務だから。
ワッツァが振り返った。懸命についてこようとするわたしを見て、眉を顰める。
「何をしている」
「わたし……」
声が掠れた。何と言ったらいいかわからない。
ワッツァは不思議そうな顔をして、続きを待っている。
ようやく出た言葉は掠れていた。
「ゆ、湯浴みをすべきでしょうか」
教育係のマダムは、湯浴みの重要性について力説していた。でも、どうしたらいいだろう。ここに私の従者はいない。アーヤも帰ってしまった。
「湯浴み?」
怪訝そうにワッツァが繰り返す。
それから、ぷっと噴き出した。
「俺と閨を共にしようとしたか。愚か者が。俺にはお前を抱く趣味はないし、お前にその資格もない。お前はただの養育係だ」
高く笑いながら部屋を出て行く。
「皇帝は、竜人しか相手にされないのです」
軽蔑したような目でわたしを見下ろし、女官が言った。ワッツァに続いて、部屋を出て行く。
◇
「朝食を用意しました」
旅行鞄を枕に寝ていたら、昨日の女官が顔を出した。「陛下のお相手は竜人が務めます」と言ってワッツァについていった女官だ。
夫となる男性が自分以外の女性と褥を共にしたことについては、たとえそれが、初夜の晩であったとしても、それほどの衝撃も悲しみも、ましてや悔しさなどは感じなかった。
お前は息子の養育係にすぎないと、きっちり釘を刺されたせいに他ならない。その点は、ワッツァに感謝してもいい。どちらかというと、たとえ一晩でも命を生き永らえた自分を祝福したい気分だった。
ゆうべは、建物全体を揺るがすような音と振動に、恐怖のあまりろくに眠れなかった。、竜の性欲は強いと聞いたことがある。
わたしじゃなくてよかった! 力いっぱいそう思った。わたしの役を引き受けてくれた女官に感謝の念さえ抱いたものだ。
女官は、寝起きで髪ぼさぼさのわたしを、冷たい目で見た。
「朝食が済んだら、内庭に出て下さい。ソスクレア宮殿へ向かって出発します」
「ソスクレア宮殿?」
聞き咎める。
「コンディエンヌ城ではないの?」
ロシュフォイユの皇都はコンディエンヌで、王城の名は皇都の名を取っている。皇帝ワッツァは、コンディエンヌ城で暮らしているはずだ。
相変わらず無表情のまま、女官が答えた。
「バートラフ王子は、ソスクレア宮殿にお住まいですから」
「バートラフ……」
その瞬間、激しい眩暈が襲った。眉間を抑え、その場に蹲ったわたしの脳裏に激しい勢いで流れ込んできたのは、「日本」という国で暮らした日々の記憶だった。
わたしは、一人暮らしをしていた。
仕事をすることは義務であり誇りだというけれど、そして、女性が一人前に働けるようになったことを諸先輩方に感謝せよと言われていたけれど、少なくともわたしは、誇れるような仕事はしていなかった。ただ、生きる為にお金が必要だったから、働き続けていていたにすぎない。
仕事に熱中することはなく、かといってわたしの生活には、仕事以外、何もなかった。
職場と自宅を往復し、楽しみといったら小説を読むことだけ。ネットに上げられるウェブ小説だ。特に気に入っていた小説が、「ツェデイの聖女」だった。
でも、受け入れなければ。わたしは王女。メレンクールの人々の為なら、この命を捧げても惜しくはない。
禍々しい刀身を、ワッツァは横に構えた。長い刃が、ぎろりと光る。
はっと息を飲む暇もなく、そこに自分の手のひらを押し当てようとする。
そんなことをしたら、手のひらが切れて、血が出るではないか。ワッツァは気でも狂ったのだろうか。
「一介の養育係に、そこまでしてやる必要がおありでしょうか」
その時背後から声が聞こえ、わたしは飛び上がった。女官がひっそりと佇んでいたことを、すっかり忘れていた。
衣擦れの音を立てて彼女は近づいてきた。
「この女が死んで、かえが必要になったら、その時にはわたしがいくらでも探して参ります。卑しい人間ごときに、貴方様の貴重な資源をお使いなさる必要はございません」
きっぱりと言い放ち、ワッツァの手から剣を取り上げようとする。
「なるほど。それもそうだな」
ワッツァも、あっさりと彼女に剣を渡した。
女官はわたしに色のない目を向け、薄く笑った。あざ笑うかのような笑みだったが、わたしとしては、とりあえず、まがまがしい刀身が目の前から消えたので、全身から力が抜ける思いだった。
ほっとしたせいか、あの匂いが再び感じられた。ワッツァとともにやってきた匂いだ。
嗅ぎ慣れない、けれどよく知っているはずの匂い。
隅の戸だなからガラスのグラスを取り出し、ワッツァは金色の液体を注いだ。
ブランデーだ。わたしのところまで芳醇な香りが漂ってくる。豊かな黄金色の液体を、ワッツァは一息で飲み干した。
「さて、休むとしよう。今日は長い一日だった。お前の国の同盟国が、まだ俺に逆らおうとしたからだ」
呆れたことにワッツァは、花嫁を迎える今日でさえ、戦場に出ていたのだ
その時、わたしは気がついた。
ワッツァから漂ってくるこの匂い、これは、血の匂いだ。今日、彼が戦場で殺した、大勢の兵士たちの血の痕跡だ。
「褥の準備ができました」
いつも間にか姿を消していた女官がどこからともなく現れ、頭を下げた。
褥?
そうだった。わたしはこの人の妻になったのだ。
もちろん、祖国でその方面の教育も受けて来た。怖いマダムが、絵入りの本を使って、信じられないようなことを教えてくれた。
頬が赤らんだ。けれど、浮ついた気持ちはすぐに、絶望的な恐怖に取って代わった。
ワッツァの言ったことの意味が、ようやく理解できたのだ。
この人は、今日、人を殺した。それも大量に。メレンクールの同盟国の人たちを。
今日だけじゃない。わたしの国の人達もたくさん殺してきた。そして、わたしの叔父を殺しそこなったことを、今でも残念に思っている。
そんな人と、床を共にしなければならないののだろうか。
ワッツァが部屋を出て行こうとする。寝室へ向かうのだ。
ついていかなければならない。それなのに、体が、石になったように動かない。
ダメ、行かなくちゃ。
それが、妻としての、いや、メレンクールの王女としての義務だから。
ワッツァが振り返った。懸命についてこようとするわたしを見て、眉を顰める。
「何をしている」
「わたし……」
声が掠れた。何と言ったらいいかわからない。
ワッツァは不思議そうな顔をして、続きを待っている。
ようやく出た言葉は掠れていた。
「ゆ、湯浴みをすべきでしょうか」
教育係のマダムは、湯浴みの重要性について力説していた。でも、どうしたらいいだろう。ここに私の従者はいない。アーヤも帰ってしまった。
「湯浴み?」
怪訝そうにワッツァが繰り返す。
それから、ぷっと噴き出した。
「俺と閨を共にしようとしたか。愚か者が。俺にはお前を抱く趣味はないし、お前にその資格もない。お前はただの養育係だ」
高く笑いながら部屋を出て行く。
「皇帝は、竜人しか相手にされないのです」
軽蔑したような目でわたしを見下ろし、女官が言った。ワッツァに続いて、部屋を出て行く。
◇
「朝食を用意しました」
旅行鞄を枕に寝ていたら、昨日の女官が顔を出した。「陛下のお相手は竜人が務めます」と言ってワッツァについていった女官だ。
夫となる男性が自分以外の女性と褥を共にしたことについては、たとえそれが、初夜の晩であったとしても、それほどの衝撃も悲しみも、ましてや悔しさなどは感じなかった。
お前は息子の養育係にすぎないと、きっちり釘を刺されたせいに他ならない。その点は、ワッツァに感謝してもいい。どちらかというと、たとえ一晩でも命を生き永らえた自分を祝福したい気分だった。
ゆうべは、建物全体を揺るがすような音と振動に、恐怖のあまりろくに眠れなかった。、竜の性欲は強いと聞いたことがある。
わたしじゃなくてよかった! 力いっぱいそう思った。わたしの役を引き受けてくれた女官に感謝の念さえ抱いたものだ。
女官は、寝起きで髪ぼさぼさのわたしを、冷たい目で見た。
「朝食が済んだら、内庭に出て下さい。ソスクレア宮殿へ向かって出発します」
「ソスクレア宮殿?」
聞き咎める。
「コンディエンヌ城ではないの?」
ロシュフォイユの皇都はコンディエンヌで、王城の名は皇都の名を取っている。皇帝ワッツァは、コンディエンヌ城で暮らしているはずだ。
相変わらず無表情のまま、女官が答えた。
「バートラフ王子は、ソスクレア宮殿にお住まいですから」
「バートラフ……」
その瞬間、激しい眩暈が襲った。眉間を抑え、その場に蹲ったわたしの脳裏に激しい勢いで流れ込んできたのは、「日本」という国で暮らした日々の記憶だった。
わたしは、一人暮らしをしていた。
仕事をすることは義務であり誇りだというけれど、そして、女性が一人前に働けるようになったことを諸先輩方に感謝せよと言われていたけれど、少なくともわたしは、誇れるような仕事はしていなかった。ただ、生きる為にお金が必要だったから、働き続けていていたにすぎない。
仕事に熱中することはなく、かといってわたしの生活には、仕事以外、何もなかった。
職場と自宅を往復し、楽しみといったら小説を読むことだけ。ネットに上げられるウェブ小説だ。特に気に入っていた小説が、「ツェデイの聖女」だった。
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