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Ⅳ
仕組まれた運命の罠 1
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体をぬぐい、服を来てリビングルームへ行くと、テーブルの前に、見知らぬ男が座っていた。
勝手にお茶を淹れ、飲んでいる。
豊かなダージリンの香りが、馥郁と漂っている。
「お前は、誰だ!」
驚いて、溂は叫んだ。
「ここで何をしている!」
「ああ、失礼。玄関が開いていたもので。私は、渋沢龍也」
「しぶさわ……たつや!」
一度だけ、その名を聞いたことがある。
一度で充分だった。
溂にとっては、重要な名だった。
敬介が言っていた。国立DNA研究所から、卵を盗んだ、シニア研究員の名だ。
七緒の入った卵を盗み、森に放置したのは、こいつだ。
「あんた……」
「まあ、座って。風呂に入っていたようだね。外まで聞こえたよ。急かすのもなんだから、勝手に上がらせてもらった」
渋沢研究員は、自分の向かいの椅子を指し示した。
「お茶でも、どうだい? オレンジペコは好みではないのだがね。それを言うのなら、マグカップも」
そう言って、ティーポットから、溂のマグに紅茶を注いだ。
「……どうして、どいつもこいつも、俺の家から食品を持ち出すんだ?」
憮然として、溂はつぶやいた。
「は? 私が持ち出したのは、この甘撚り茶葉の紅茶だけだが?」
「いや、なんでもない。それより、俺は、あんたに言いたいことがある」
「フロレツァールの卵を、たったひとつだけで放置するとはなにごとか!」
いきなり、渋沢が言った。
先を越され、溂は鼻白んだ。
「フロレツァールは、生まれてすぐ番い形成をする生き物だ。その卵を、ひとつだけ、森に置いてきた罪は、私も、充分、自覚している」
「そもそもなぜ、人間の遺伝子を、フロレツァールに組み込もうとなんて、したんだ!?」
「それはね。人類が、大量絶滅を、生き残るためだよ」
あっさりと渋沢は言った。
溂は呆気にとられた。
「大量絶滅!?」
「ああ。地球に最初の生命が生まれてから今日まで、10回以上の大絶滅があった。特に規模の大きいのだけでも、5回ある。よく知られているのは、白亜紀末の、恐竜の大量絶滅だ。この時は、全生物種の70%が死滅したと言われている」
「……」
「そうした大絶滅が、次も、必ず来る。その試練を生き残るには、人類はどのような発達を遂げればいいのか」
話が突飛すぎて、溂は、ついていけない。
溂の反応には全くお構いなく、渋沢は続けた。
「まず、第一に、地表の乾燥を生き抜く為に卵生であること。そして、速やかに分散し、被害の少ない土地へ素早く飛んでいける為の、羽を持つこと」
「……卵……羽……」
「あとひとつ、ニッチな環境に適応できるための小型化が必要だが、そもそも鳥は、恐竜が小型化したものだ。そして、白亜紀の大量絶滅を生き残っている」
「……ああ」
「鳥は、進化が早い。なにしろ、既存の遺伝子を働かせるか、働かせないかで、すぐに形状が変わるからな。次の大量絶滅も、ヒトは絶滅しても、鳥は、生き残るよ。そして、鳥であるフロレツァールも。それは、間違いない」
確かに七緒は、人間が滅亡した後も、フロレツァールは生き残ると言っていた。人間の愚かさを反面教師にして。
荒唐無稽な話だと、あの時は思ったが……。
なおも渋沢は続ける。
「今世紀に入ってから、フロレツァールは、ますます、人間に姿が似てきている。進化の収斂だな。同じ環境で暮らすことに寄って、形状が似てきたんだ」
うっすらと笑った。
「だから我々は、人類の遺伝子を、既存の鳥に託すことにした。体の大きさや形状、それらがもっともヒトに似た、フロレツァールに。いや、むしろ、ヒトなぞよりずっと美しい鳥に」
「我々とは?」
「もう、わかっているだろう? 各国、しのぎを削っている。フロレツァールの細胞に、この地上で、最も優秀な自分達の遺伝子を組み込もうと。わが国とて、例外ではない」
厚労省や国立研究所を動かすことのできる組織。
政府上層部の方針なのだ。
「だが、人間の遺伝子をいじるのは、社会的に合意がなされていない筈だ」
溂が言うと、渋沢は吹き出した。
「社会的合意? 呑気にそんなのを待っていたら、世界に出遅れるだけだ。言ったろう? どこの国もやっていることだ。生物の大量絶滅は、必ず来る。真っ先に技術を確立し、少しでも多く、自分たちの遺伝子を残さなければならない」
「なぜ、卵を盗んだんだ」
研究所で育てたほうが、生き残る確率は高かったはずだ。
渋沢は表情を消した。
「さあね。研究所で実験動物として育つ、組み換え生物がかわいそうだから?」
「あんたなら、」
思わず溂の声に、力がこもった。
「あんたなら、知ってるよな。七緒は、どっちなんだ?」
「どっちとは?」
「七緒は、フロレツァールなのか。それとも、人間の遺伝子を持つ、組み換え生物なのか」
「……」
じろりと、渋沢は、溂を見やった。
「君は、どっちであって欲しいのか?」
溂は即答した。
「フロレツァールだ。七緒は、普通のフロレツァールがいい」
……自由でわがままな鳥であって欲しい。
うっすらとした笑いが、渋沢の表情に浮かんだ。
「人間の遺伝子を持っていた方が、よくはないか? 少なくともそれが、言い訳になるだろう? 種の壁を超えてセックスをする場合は」「……」
溂は絶句した。
そんなことは、考えたこともなかった。
というか、「種の壁を超えてセックス」?
その言葉の、なんと冷酷で無機質なことか。
「俺は……」
溂は言い淀んだ。
……人間の遺伝子が組み込まれていたら、七緒は、また、さらわれてしまうかもしれない……。
勝手にお茶を淹れ、飲んでいる。
豊かなダージリンの香りが、馥郁と漂っている。
「お前は、誰だ!」
驚いて、溂は叫んだ。
「ここで何をしている!」
「ああ、失礼。玄関が開いていたもので。私は、渋沢龍也」
「しぶさわ……たつや!」
一度だけ、その名を聞いたことがある。
一度で充分だった。
溂にとっては、重要な名だった。
敬介が言っていた。国立DNA研究所から、卵を盗んだ、シニア研究員の名だ。
七緒の入った卵を盗み、森に放置したのは、こいつだ。
「あんた……」
「まあ、座って。風呂に入っていたようだね。外まで聞こえたよ。急かすのもなんだから、勝手に上がらせてもらった」
渋沢研究員は、自分の向かいの椅子を指し示した。
「お茶でも、どうだい? オレンジペコは好みではないのだがね。それを言うのなら、マグカップも」
そう言って、ティーポットから、溂のマグに紅茶を注いだ。
「……どうして、どいつもこいつも、俺の家から食品を持ち出すんだ?」
憮然として、溂はつぶやいた。
「は? 私が持ち出したのは、この甘撚り茶葉の紅茶だけだが?」
「いや、なんでもない。それより、俺は、あんたに言いたいことがある」
「フロレツァールの卵を、たったひとつだけで放置するとはなにごとか!」
いきなり、渋沢が言った。
先を越され、溂は鼻白んだ。
「フロレツァールは、生まれてすぐ番い形成をする生き物だ。その卵を、ひとつだけ、森に置いてきた罪は、私も、充分、自覚している」
「そもそもなぜ、人間の遺伝子を、フロレツァールに組み込もうとなんて、したんだ!?」
「それはね。人類が、大量絶滅を、生き残るためだよ」
あっさりと渋沢は言った。
溂は呆気にとられた。
「大量絶滅!?」
「ああ。地球に最初の生命が生まれてから今日まで、10回以上の大絶滅があった。特に規模の大きいのだけでも、5回ある。よく知られているのは、白亜紀末の、恐竜の大量絶滅だ。この時は、全生物種の70%が死滅したと言われている」
「……」
「そうした大絶滅が、次も、必ず来る。その試練を生き残るには、人類はどのような発達を遂げればいいのか」
話が突飛すぎて、溂は、ついていけない。
溂の反応には全くお構いなく、渋沢は続けた。
「まず、第一に、地表の乾燥を生き抜く為に卵生であること。そして、速やかに分散し、被害の少ない土地へ素早く飛んでいける為の、羽を持つこと」
「……卵……羽……」
「あとひとつ、ニッチな環境に適応できるための小型化が必要だが、そもそも鳥は、恐竜が小型化したものだ。そして、白亜紀の大量絶滅を生き残っている」
「……ああ」
「鳥は、進化が早い。なにしろ、既存の遺伝子を働かせるか、働かせないかで、すぐに形状が変わるからな。次の大量絶滅も、ヒトは絶滅しても、鳥は、生き残るよ。そして、鳥であるフロレツァールも。それは、間違いない」
確かに七緒は、人間が滅亡した後も、フロレツァールは生き残ると言っていた。人間の愚かさを反面教師にして。
荒唐無稽な話だと、あの時は思ったが……。
なおも渋沢は続ける。
「今世紀に入ってから、フロレツァールは、ますます、人間に姿が似てきている。進化の収斂だな。同じ環境で暮らすことに寄って、形状が似てきたんだ」
うっすらと笑った。
「だから我々は、人類の遺伝子を、既存の鳥に託すことにした。体の大きさや形状、それらがもっともヒトに似た、フロレツァールに。いや、むしろ、ヒトなぞよりずっと美しい鳥に」
「我々とは?」
「もう、わかっているだろう? 各国、しのぎを削っている。フロレツァールの細胞に、この地上で、最も優秀な自分達の遺伝子を組み込もうと。わが国とて、例外ではない」
厚労省や国立研究所を動かすことのできる組織。
政府上層部の方針なのだ。
「だが、人間の遺伝子をいじるのは、社会的に合意がなされていない筈だ」
溂が言うと、渋沢は吹き出した。
「社会的合意? 呑気にそんなのを待っていたら、世界に出遅れるだけだ。言ったろう? どこの国もやっていることだ。生物の大量絶滅は、必ず来る。真っ先に技術を確立し、少しでも多く、自分たちの遺伝子を残さなければならない」
「なぜ、卵を盗んだんだ」
研究所で育てたほうが、生き残る確率は高かったはずだ。
渋沢は表情を消した。
「さあね。研究所で実験動物として育つ、組み換え生物がかわいそうだから?」
「あんたなら、」
思わず溂の声に、力がこもった。
「あんたなら、知ってるよな。七緒は、どっちなんだ?」
「どっちとは?」
「七緒は、フロレツァールなのか。それとも、人間の遺伝子を持つ、組み換え生物なのか」
「……」
じろりと、渋沢は、溂を見やった。
「君は、どっちであって欲しいのか?」
溂は即答した。
「フロレツァールだ。七緒は、普通のフロレツァールがいい」
……自由でわがままな鳥であって欲しい。
うっすらとした笑いが、渋沢の表情に浮かんだ。
「人間の遺伝子を持っていた方が、よくはないか? 少なくともそれが、言い訳になるだろう? 種の壁を超えてセックスをする場合は」「……」
溂は絶句した。
そんなことは、考えたこともなかった。
というか、「種の壁を超えてセックス」?
その言葉の、なんと冷酷で無機質なことか。
「俺は……」
溂は言い淀んだ。
……人間の遺伝子が組み込まれていたら、七緒は、また、さらわれてしまうかもしれない……。
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