生き須玉の色は恋の色

せりもも

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第二章 虫愛ずる姫

16 梅屋敷のメイド

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 老婆は、腰が九十度に折れ曲がっているくせに、すたすた歩く。ついていくには、小走りで走らなければならないほどの速度だ。そのあまりに達者な歩みに、半世紀以上は年若い筈の、沙醐の方が息切れがした。

「だらしがないのう」
老婆は鼻でせせら笑った。


 梅林が途切れると、その向こうに、古い、こぢんまりとした屋敷が建っていた。
「ほれ、上がるがよい」

なんだか魔女に魔窟へ案内されたような気がしないでもないが、沙醐は、礼を言って中に入った。


 梅園を見渡せる庇の間に、案内された。

「蛍邸にお世話になっております、沙醐と申します」
改めて、深々と頭を下げた。

「わしは、梅じゃ。当家の留守宅を預かっておる、メイドじゃ」
 沙醐の平伏した頭のてっぺんを満足そうに見下ろしながら、老婆は言った。

 メイド? 冥途?

「で、皆、変わりはないか?」
「はい、皆様、たいそうお元気で」

蛍邸の主人たちに精気を奪われて元気を失いかねないのは、こっちの方である。

「百合根は、生きておるか?」
「おかげさまで」

なんだか変な会話だなと思いながらも、沙醐は返事をする。

「あの女も、自分の見た物に正直になれば、もう少し楽になれるものを。しかし、生霊や部屋いっぱいにはびこる虫や、空中浮遊を見れば、普通の神経の女なら、狂ってしまうかもしれぬな」

 すると沙醐は、普通の神経の女ではないのか。

 いやいや、最初は随分驚いた。しかし、あまりに異常なことが続くので、神経の方で、驚くのをやめてしまったのだ。
 いちいち驚いていたら、身がもたぬ。


 「ときに、そなたは、和歌はさっぱりダメじゃが、漢文の素養があると聞いたが?」

不意に、妙な気配を漂わせて、梅が尋ねた。
この年でなければ、色気と間違いかねない、不気味な気配である。

「素養と申しますか……」

 母亡き家庭では、普通の女子の教育は困難だが、せめて自分にできることは、と、父が教えてくれた知識が、漢文だった。
 それと、武術。

 しかし、漢文に関しては、沙醐は良い生徒ではなかった。
 武術と違って、じっと座っている漢文の講義が始まると、ころりと眠ってしまっていたのだ。


「ええい、漢文が、読めるのか、読めぬのか」
「か、簡単なものの、意味を取るくらいでしたら、きっと、なんとか……」

 沙醐は言いよどんだ。
 はっきりと、わからない、と表明するのは、教えてくれた父が気の毒すぎる。

「読めるのだな。そうかそうか」

梅は、そそくさと立ち上がった。まさか、さっそく漢籍を持ち込んでくるのではあるまいなと身構えていると、盆の上に、小さな碗を乗せて戻ってきた。

 「まずは、くつろがれい」

 差し出された碗を恐縮して受け取る。
 漆塗りの黒い碗には、透明な液体が入っていた。

「ささ、遠慮のう」

 言われて口に近づけると、えも言われぬ芳香が鼻先に漂う。
 高貴な、それでいて瑞々しい若さを充分に含んだ、ふくよかな香りである。

「これは……」

 幽かに甘く、柔らかな香気に満ちた液体が、馥郁と口の中に満ちる。
 途中で止めることなどできず、一気に飲み干してしまいそうな、そんな飲み物だ。

 「梅の乳じゃ」

危うく噴き出すところだった。沙醐は、激しく咳き込んだ。
「だっ、誰のお乳ですって?」

 苦しい息の下から、やっとのことで質問を搾り出す。
 もうすでに、大部分を飲み込んでしまったのだから、是非、聞いておかねばならなかった。

 「ああ、汚いのう」
梅は、人のことは到底言えないような汚れた雑巾で、あちこちを拭きながら、文句を言った。
「お乳というのは、比喩じゃ、これは、梅の露じゃよ」

「梅の露?」
「そう。青梅の頃に摘み取ってな、糖と一緒にしておくと、露が出てくる。それじゃ」

 それならそうと言ってくれればいいじゃないか。
 梅の乳などと言うから、てっきり、梅婆さんの垂れた皺だらけの乳から染み出た何かだと思ったじゃないか。

 再び変な想像をして、沙醐は、胸を叩き、やっとのことで、平静を取り戻した。


 「そそっかしい娘じゃのう。がつがつせんと、もっとゆっくり、飲まれよ」
幸い、沙醐の頭の中まではわからない梅は、優越感に満ちた様子で、そう忠告した。

「実はな、当家のご主人さまは、大変、学識の高い方ゆえ、漢文で便りを寄越すのじゃ。これが、なかなか意味がわかりかねてのう……」
 そこで、沙醐に読んでくれというのか。

 それにしても、ご主人さまといった、その声音が、妙に高く、心なしかそれを口にした時、年老いた体が、微妙にくねったような気がした。

 「こちらのご主人さまというのは?」

 それほどの学識者であるというのなら、音に聞こえた貴族であるはずである。
 蛍邸との繋がりなども、是非、聞いてみたかった。

「口に出すのも、はばかられるお方じゃよ」
梅は、うっとりとした目をして言った。

「蛍邸と、ゆかりの方でいらっしゃるのですか?」
「もとは、全然無関係だったのじゃがな。身罷みまかりし後、縁ができたのじゃ」

「ご主人は、女人でいらっしゃるのですね?」
「女人? 何を愚かな」
「でも、今、身籠みごもりし後って……」

「身罷りしじゃ! 愚かもの!」
老婆は喚いた。

「あのお方ほど、男らしい、たくましいお方はおらぬわ! イケメンで男前でハンサムで……」

 老婆が喚きたてているうちに、にわかに、辺りが暗くなってきた。
 空が掻き曇り、不穏な鈍色の雲に覆われる。
 不意に、怪しい光が、空を斜めにかぎ裂いた。

「キャア!」
沙醐は耳を抑えてつっぷした。

 「ああっ! ご主人さま!」
梅の干からびた声が、殆ど喜悦の声と聞こえたのは、聞き違い?

 その時、どーん、と、ものすごい音がして、閉じた目の裏でさえ赤く燃えるほどの炎が上がった。

 「か、カミナリ!」

 こんなに大きな音と光は、初めてである。きっとすぐ近く……もしかしたらこの邸……に落ちたのに違いない。
 ……こうしていないで、逃げなければ。






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