生き須玉の色は恋の色

せりもも

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第二章 虫愛ずる姫

17 雷神

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 顔を上げた沙醐は、今度は本当に、腰が抜けた。
 庭には、巨大な火柱が立ち、その根元に、青い肌、盛り上がった筋肉、そして、大きな角と牙……青鬼が立っていたからである。

「ひっ!」
もはや、声も出ない。

「ご主人さま……」

 沙醐の脇の辺りをかいくぐって、何かが庭にまろび出た。
 子犬のように、一直線に、青鬼めがけて走っていく。
 梅だ。

 「危ない!」

 誓って言うが、体が自由に動くのなら、絶対、止めた。
 しかし、沙醐の体は、金縛りにあったように、ぴくとも動かない。

 「ご主人さま、おかえりなさいませー! 梅屋敷にお帰り下さいまして、ありがとうございまぁす!」

老婆の声とはとても思えぬ、華やいだ鼻声を上げて、青鬼の手から、棍棒などを受け取っている。

「お先にお食事になさいますかぁ? それとも、お風呂になさいますかぁ?」

 見ると、梅の白かった髪の毛が、雷電に染まり、金色に輝いている。肌も張りつやを取り戻し、老婆には変わりはないけれど、生き生きと若々しく見える。

 何なんだ。
 何が起きたというのだ。

 沙醐は激しく混乱した。


 「食事も風呂も後でいい。梅、化粧が崩れておるぞ。お前、先に風呂に入れ」
「またぁ」
梅は、不気味に身をくねらせた。
「エッチなんだからぁ」

 これが、どう見ても、八十歳を過ぎた老婆である。
 沙醐は、貧血を起こして、倒れそうになった。


 身をくねくねさせながら、梅が邸の奥に消えると、青鬼は、庇の間に上がり、胡坐をかいた。

 「沙醐だな」

梅の嬌態にすっかり毒気を抜かれ、ついでに恐怖心と、最低限度の防御心さえ失い、沙醐は、呆然として頷いた。

 「蛍邸での勤め、ご苦労だな」

思いもかけず、優しい言葉が、青鬼の口から滑り出た。

 「わしは、蛍邸の奴らとは、じっこんの間柄じゃ。みな、癖のある奴らばかりだから、仕えるのは、並大抵のことではあるまい。だが、そなたは頑張っておる。期待しているぞ」

青鬼は、なおも、優しい言葉をかける。沙醐は、思わず心を許しそうになった。

 「あやつらも、悪い奴らではないのだがの、ただ、人の情けというものが、すこうし……。あ、いや、悪口を言っているわけではないぞ」


 「あの……もしかして……。あなたさまが、当家の、ご主人?」
沙醐は、恐る恐る尋ねた。

「おう、菅原道真、本官右大臣、正二位、とはわしのことじゃ。しかし、これらは、怨霊と化してから得た位じゃが、の……」
最後は、いくらか淋しそうに、青鬼は、言った。


 菅公、菅原道真。
 漢詩に通じ、代々文章もんじょう博士はかせに任じられるほど、博学多才の人。時の宇多天皇に重く用いられ、右大臣、従二位にまで上り詰める。が、次の醍醐天皇の御代に、讒言ざんげんされ、九州大宰府に左遷される。

 ついに都へ返り咲くことなく、その地で逝去。

 って、つまり、菅原道真は、既に死んでいるのだ。それも、百年も前に。

 しかも、菅公死後の騒ぎは、今なお、都の人々の記憶に、恐怖とともに焼きついて離れない。
 記録的な凶作、疫病の流行、皇太子や皇太孫の、早すぎる死。
 さらに、あの、清涼殿への落雷。
 ……多くの貴人たちが死んだ。
 続く醍醐天皇の譲位、そして、崩御。


 「お、お、怨霊……」
沙醐の声が震えたのも、無理からぬことである。

 「おお、祟ってやったぞ。わしを陥れた奴らや、無関心を装っていたやつらを。あれは、小気味がよかったのう」

菅公の怨霊は、思い出し笑いでもするように、楽しそうに笑った。

「あの梅は、の。わしが、大宰府へ左遷された時、わしを慕って、京から飛んできたウい奴じゃが、怨霊となって京へ舞い戻る時に、また、くっついてきたのじゃ」

 その時、混乱した沙醐の頭の中に、一条の思いがさっと過ぎった。

「怨霊のあなた様とごじっこんということは、蛍邸の皆さまも、怨霊なので?」

 生霊を追って、空を飛ぶ一睡。迦具夜も空を飛ぶ。虫を愛する姫。
 怨霊と考えれば、全て、辻褄が合う。

「うーむ」
道真の怨霊は、しばし、考え込んだ。
「まあ、世間一般の、フツーの人間から見れば、怨霊とあまり変わらぬかもしれぬ。しかし、奴らは死んだことがないからのう。まあ、わしなら、本人達の前で、ヌシらは怨霊でござろう、などとは言わぬぞよ」

沙醐だって、本人達を前にして、そんなことは、怖くて言えない。


 「ところで、沙醐、」
菅公は、改まった物腰で、膝を乗り出した。
「この頃わしは、羅城門を定宿としておる。ここには、本来ならあまり帰ってきたくはなかったのだが……」

そう言いつつ、邸の奥を気にする素振りをする。

「なにせ、あの梅婆がうるさくてかなわぬ。わしは、マニアではござらぬ。本当は、若い娘の方が好みなのじゃ。若ければ若いほどよい。しかし、生きていた頃からの腐れ縁だから、仕方がない」

 梅が聞いたら憤死しそうなことを、さらりと言ってのけた。
 ウい奴じゃ、なかったのか。

「そのわしが、わざわざ参ったのは、ほれ、これの為じゃ」

虎縞の腰巻の辺りを、ごそごそさぐっている。怨霊とはいえ、沙醐は思わず目をそらせた。

「何を勘違いしておる。お前は、わしの好みにしては、トウが立ち過ぎておるわ。……鬼の衣裳というのは、腰巻しかないのだから、しようがないではないか。ここしか、隠し所がなかったのじゃから。ほれ、見よ」
「……!」

 言われたとおり目を上げて、沙醐は驚いた。

 あのトラトラの腰巻の、どこかから出てきたのだと思うと、限りなく不気味であったが、そんな思いを吹き飛ばすような、儚げな少女が、鬼の足元に、はべっていた。

 だれか貴人のお付きの少女ででもあるのだろうか、身なりは高級なものをきちんと着込んでいたが、うつむき、小さくうち震えていた。

 美しいことは美しいのだが、一度目をそらせたら、再びその表情を思い描くのは難しいのではと思えるほど、印象の薄い目鼻立ちである。
 とにかく、生命力に乏しい少女だ。そして、なにより、彼女は、薄青色に発光してた。

 この少女は、人ではない。生き須玉なのだ。淋しげに、身を投げ出すようにして、沙醐の目の前に、侍っている……。

 ……生霊は、自分ではどうすることもできない辛い思いに惑って、生でもない死でもない、宙有の闇にさ迷い出す……。
 一睡はそう言っていた。


 「お前、自分で話すか?」

 促すように、少女の背中を太い指先でつついた。
 少女は、いやいやをするように、首を横に振った。長い髪が、こぼれるように、その横顔を覆う。

 沙醐は思わず、抱き寄せるようにして、そっと引き寄せた。

「皇太后のもとに出仕している娘だ。ゆうべ、わしが、糺の森の沢で涼んでいたら、飛んでおったのじゃ」
「でも、人の形をしているわ!」

 一睡の捕らえた師直もろなおの生霊は、球形だった。しかし、ここにいるのは、生気に乏しいとはいえ、紛れもなく、少女の姿形をしている。

「それは、生霊の思いの深さによる。あと、捕らえた者の技量にもな。拙い者が捕らえようとすれば、魂の一部を掠め取るばかりで、筒や珠の形になってしまう。しかし、わしのように、上位の者が捕らえれば、このように、人型を留める」

 虫取り網を振り回して、生霊ハンターをきどる一睡は、所詮、「拙い者」に過ぎぬのであろう。
 沙醐はしげしげ、引き寄せた少女を眺めた。少女の生霊は、恥ずかしげに目を伏せた。


 「私は、誰からも愛されない定めにございます」
細い声が、腕の中から聞こえた。
「私は、親さまからも、捨てられました……」
それだけ言うと、少女の姿はいっそう青く、それでいて、透明に近いまでに、にじんでいった。


「親というのは、今上帝の兄君のことじゃ」
「すると、この方が、ひょうの君!」

 帝の姪でありながら、女御に仕える身となった皇女。まさしく、師直の思い人、漂の君ではないか。

「誰からも愛されないなんて、そんなこと……」

 沙醐が言いかけたその時、ばたんと激しい音がして、几帳が倒れた。
 倒れた調度の向こうに、鬼のような憤怒の表情を浮かべた梅が立っていた。

「何の為の人払いか! いつになく優しいと思ったら、女を連れ込んで! それも、こんなに若い……、若い……」
ぎりぎりと歯軋りをする音。

「うわ、まずい! 沙醐、とりあえず、漂の君を連れて逃げるんだ」
「逃げるって。え?」

逃げるような悪いことはしていない。

「いいから、早くっ!」
切羽詰まった声で命じて、青鬼は、梅婆に向き直る。

「落ち着け、梅。お前はわしの、最後の宿りではないか」
「ええい、うるさい! たまさか帰ってきたかと思えば、このざまかい! 許さぬ。ゆるさぬぞー」
「待て。けしからぬ話ではない。話せばわかる……」
「何度その手をくらったことか! この度は、だまされまいぞー」

「沙醐、急げ。急いで逃げろ」


 漂の君の手を握ったまま、沙醐は、外へ押し出された。
 何が何だかわからぬままに、走り出した沙醐の目の端に、鬼婆と化した梅が、青鬼に飛び掛るのが見えた。






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