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1巻

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   プロローグ 出会い


 抜けるような青空に、白い羊雲がふわふわと流れてゆく。
 穏やかな冬晴れの空から明るい光が降り注ぐこの場所は、シルヴァスタイン領の中心街だ。
 目抜き通りに小さな店が看板を連ね、戸口には赤や黄、紫といった色とりどりの花が並ぶ。東西にのびる石畳の道はなだらかな上り坂で、坂のずっとずっと先は緑の丘。
 穏やかな昼下がり、道行く人々の表情は楽しげだ。馬車が優にすれ違えるほど幅の広い道には着飾った人々があふれ、あちらこちらで店のドアを開けるカランカランという鐘の音が涼やかに響きわたる。「まいどあり!」という店主の威勢のよい声、通りから店の中をのぞき込む人々の笑いさざめく声、け回ってはしゃぐ子どもたちの明るい声――辺りは音と色彩に満ち満ちていた。
 そんなにぎやかな大通りから脇道を入って少し行ったところに、もの寂しい小さな道がある。れん造りの建物に挟まれているせいでほとんどが差し込まず、昼間だというのに薄暗く湿っぽい。
 その薄暗い道の真ん中で、ひとりの少女が声を張り上げていた。

「お花! きれいなお花はいりませんか? お土産みやげにどうですか?」

 その手に握られた花は、どれもすでにしおれきっている。少女はそれをなんとか生き生きと見せようと、頭の上にかかえ上げてファサファサと振った。だが朝にまれたのであろうその花は、昼過ぎの今、命が燃え尽きる寸前といった風情だ。クタリクタリと揺れる姿はどこか哀れみを誘う。少女もそのことに気づいたのか、花を下ろすと小さなため息をついた。それに呼応するように、ぐう、と少女の腹が音をたてる。
 歳のころは十代半ばといったところだろうか。みすぼらしい服を身にまとい、石畳の上を歩くはだしの足はひどく汚れて黒ずんでいた。腰まで伸ばされた栗色の髪の毛はくしゃくしゃともつれ、ところどころに小さな葉っぱがくっついている。彼女の姿は色彩のとぼしいこの裏通りにすっかり溶け込んでいた。
 ただモノクロの通りに、鮮やかに浮かび上がるものが二つ。
 小さな手に握られた真っ白な花と、少女の緑色の瞳だ。その瞳は子どものようにんで、きらきらと輝いている。
 再び少女の腹がぐぅと鳴り、彼女は腹をぎゅっとつかんで口元を引き結んだ。よほど空腹なのだろう。ゆるゆると何か探すように緑の瞳をさまよわせてから、あきらめの色を浮かべた。
 そして少女は、先ほどより幾分力を失った声を上げる。

「お花! いりませんか?」

 一本向こう側のにぎわった通りならばともかく、この裏路地には少女と同じような姿の人がぽつぽつといるくらいで、手土産に花を買おうという余裕のありそうな人など歩いていない。
 こういう場所でうまく生きのびていくには知恵がいる。しかし、少女はただ真っ正直に、一生懸命に声を張り上げるだけだ。
 ところが、少女に視線を向ける人物がいた。まさに先ほどの大通りにいそうな風体のその女性は、少女を見つめながら、隣に立つ女に耳うちをする。ショールを頭からかぶっているので顔はよく見えないが、おそらく高貴な人物なのだろう。上等な服を身にまとい、指先まで洗練された仕草はこのさびれた道には不釣り合いに華々しく、気品に満ちている。
 女性はかたわらの侍女らしき女とひそひそ言葉を交わし、しばらく花売りの少女を遠巻きにながめていたが、やがて意を決したように少女のほうへ近寄った。

「あの……」

 ひかえめにかけられた声に、花売りの少女は満面の笑みで振り返る。

「いらっしゃい! お花いかがですか? いりますよね? 声かけたんだから、買いますよね?」

 押し売りのような文句に女性は一瞬たじろいで、わずかに身を引いた。しかし、その場を去ろうとはせず、隣にいた侍女に話しかける。侍女はうなずいて、ふところから財布を取り出した。
 途端に、少女の緑色の瞳が輝く。

「あ、ほんとに買ってくれるんですか」

 少女はニコニコと人のよい笑みを浮かべ、小さな手を差し出した。ひどく荒れた指先は、土で汚れている。

「この花、もう結構しおれちゃってるから、安くしときますよ。どうせ売れ残りだし」

 せっかく掴んだ客だというのに、花売りの少女はそんなことを言った。
 にもかかわらず、侍女が財布から取り出したのは、少女が目にしたこともないくらいの高額紙幣だ。しかも、新札である。
 少女は紙幣を穴が開くほどじっと見つめた。何度もまばたきをしながら、瞳を右から左へ動かす。隅に印字されているゼロの数を一つずつ数え、これがとんでもない額の金だと気づいたらしい。
 少女は体が紙幣に触れないようにすっと後ずさった。

「いやいやいや! そんなおつり持ってないし!」

 まるで紙幣そのものが禍々まがまがしいといった反応だ。実際、少女にとっては得体の知れない恐ろしいものなのだろう。

「それであなたの人生を売っていただけませぬか」

 どこかで聞いたことのある声がショールの中からし、少女はさらに後ずさる。

「ひ、人買いですか……いや、でもあたしほうだから……」
「人助けと思って、受けてはいただけませぬか」

 人助け、というところに興味を持ったのか、それともショールの中から聞こえてくる声が自分の声とそっくりだということに気づいたせいかはわからない。少女は一瞬瞳を揺らして、すっと女性に近づき、のぞき込むようにそのショールをめくり上げた。

「わぁっっ」

 女性の顔を目にするなり、少女は思い切りのけぞる。その拍子に少女の手からくたびれた花がぱさりと落ちた。
 花売り少女がこれほど驚いたのも無理はない。
 なんたって、目の前に自分と全く同じ顔をした人間が立っていたのだから。

「わたくしとそっくりのあなたにしか、頼めぬことなのです」

 ショールをめくられてもピクリともせず、女性は力のこもった瞳で花売り少女にそう言った。
 その瞳もまた、少女と同じ緑色。

「わたくしの替え玉に、なってはいただけませぬか」

 女性と少女の視線がゆっくり絡んだ。


 四半刻ののち

「……と、いうことなのですが。わたくしのお話、ご理解いただけましたかしら?」

 問いかけられた少女は、せわしなく動かしていた瞳をひょいと戻し、目の前の女性を見つめた。

「うん!」

 少女は元気に答える。
 少女が立たされている場所は、路地裏のさらに奥にあるひどくさびれた小さな家の中だ。もう随分長いこと人が住んでいないのだろう。ぎいと耳に痛い音をたてて開く扉も、床に積もった分厚いほこりも、カビくさい空気も、すべてが生活の気配を感じさせない。

「それでは、お引き受けいただけるのですね?」

 女性は少女の全身を値踏みするように何度もながめ、そう聞いた。

「うんうん!」

 二つ返事とはこのことか、というほどあっさりと少女はうなずく。
 すでにその手には、あの高額紙幣が握られている。もっともそれは少女が受け取ったわけではなく、いつのまにやら握らされていたものだ。少女は自分とそっくり同じ顔をした女性を前に、ただただあっけにとられていただけなのだから。侍女らしき女が少女を引きずってこの家に連れ込む道中で、手の中に滑り込ませたのだ。
 少女をぼろ家に引っ張り込んだ手際のよさといい、この家にあらかじめいくつかの荷物が運び込まれていたことといい、一連の出来事が突発的になされたものとは思われない。どうやらこの女たちは街で偶然に少女を見かけて声をかけたのではなく、事前に周到な用意をしていたらしい。

「それではとりあえず、これでお顔をおきくださいまし」

 女性は少女にハンカチを差し出した。

「え、いいんですか、こんなきれいなハンカチ」

 真っ白なハンカチのふちには優美なレースがほどこされ、隅にはイニシャルらしき飾り文字が金糸で刺繍ししゅうされている。それは決して善意ではなく、自分の替え玉に仕立て上げる少女の顔が泥で汚れていては困るという理由からだったに違いない。
 しかし、この少女ときたら、ニコニコと笑いながら何度もお礼を言ってハンカチを受け取るのだ。嬉しそうにそれを広げると、力強くゴシッと顔を拭いた。三角形にたたんだハンカチの先っちょでそっと拭くのではなく、広げてゴシッである。
 ハンカチをそんなふうに使う人をはじめて目にした女性は数度まばたきをし、それから一度強く目を閉じた。そして何やら口の中でひとりごち、心を決めたのか目を開く。
 少女はまだゴシゴシと顔をぬぐっていた。女性はようやく目の前の光景が見間違いでも夢でもないことを受けいれたらしい。自分を納得させるように数度頷いた。
 それから女性は誰もいない空間に向かって「トマ、頼みましたよ」と小さくつぶやく。どうやらとんでもないことを頼まれてしまった不幸な人がいるようだ。
 少女はなおもゴシゴシゴシゴシと顔を拭き、丁寧に鼻の中までぬぐってから、ようやく「きれいになった?」と言って顔を上げた。

「え……」

 ええ、と答えるつもりだったのであろう女性は、泥の下から現れたその顔を見るなりずずいと少女ににじり寄った。鬼気ききせまる形相だ。美しいがゆえに、目をおっ広げるとなかなか迫力がある。
 少女のほうは、自分とそっくりな人が顔を近づけてくることに感動を覚えたのか、身を引くでもなく、目を輝かせ女性の顔に見入っている。
 同じ顔の人間が顔を突き合わせている光景というのははたから見ると不思議なものだ。一方が薄汚れていて他方がきれいな格好をしているせいで、変身前後の比較図のようである。

「あなた、随分と肌がおきれいですのね」

 少し悔しそうに女性が言った。
 たしかに少女の顔は非常につややかである。

「え? そうですか? やっぱし顔はちゃんと二日に一回くらい洗ってるからかな!」

 美肌の秘訣が語られるかと思いきや、その口から飛び出したのは衝撃の告白であった。
 二日に一回というのも衝撃的なのに、「くらい」というアバウトな表現に、「ちゃんと」という驚きの副詞までつけられて、少女の言葉はすさまじい破壊力だ。
 少女を着替えさせるため、服に手をかけようとしていた侍女が数歩後ずさったのも無理はない。顔は二日に一回である。体のほうはこれいかに、と。手軽に洗える顔よりも、服を脱がなくてはならない体のほうを頻繁に洗っていることはあるまい。いくら季節が冬でも接近戦はご辞退申し上げたいところなのであろう。
 女性はそんな侍女のためらいに同情する様子はない。眉の動き一つで侍女に仕事をうながした。ちなみに自身は、ちゃっかり少女と距離を取りつつ、である。

「馬車を待たせているので、時間がありませんのよ。急いで準備をなさい」

 女性は少女と距離を保ち、ツンと言い放つ。有無を言わせない言葉に侍女はうなずき、少女の服に手をかけた。少女の肌に触れぬよう細心の注意を払っているらしく、小指がピンと立っている。侍女は少女の洋服を両手の親指と人差し指でつまむと、引き裂くようにはぎ取った。
 ビリッと乾いた音が響き、少女が驚きの声を上げる。

「うわっ寒っ」

 服を突然ひんかれた少女は慌てて体を丸めた。
 この寒い季節に服を脱がせるなんて、とてもじゃないが人の子とは思えぬ所業である。
 もっとも少女は単に驚いただけでその行為に腹をたてることはなく、寒そうに肩をかかえ込んだまま侍女を見た。
 侍女は家の中にあらかじめ置かれていた荷物をごそごそと探り、何かを取り出そうとしている。
 その間も女性は背筋をピンと伸ばし、少女をじろじろとながめていた。いったいどちらが頼みごとをしているのかよくわからなくなるほどの堂々とした態度だ。

「うわぁ」

 侍女が包みから出したものを見るなり、少女は嘆息した。それはにぎやかな大通りを歩く人々が着ていたどの服よりも美しい、見事なドレスだ。

「あれ? これ、あの人が着てるのと、ちょっと似てない?」

 少女が侍女の手にあるドレスと女性の着ているドレスを交互に見ながら言った。
 ちょっと似ているのではない。結構似ているのでもない。全く同じだ。
 少女が「これ中に何が入ってるの」と聞いたほど大きなふくらみのある袖口も、体に沿った曲線を描く身頃みごろも、腰の辺りからブワリと広がるスカートも、すそほどこされた優雅なレースも。すべてが同じだった。
 まぁ、当然といえば当然である。女性が出かけたときと違う服装で帰ってきたら、さすがに家の人々も何かおかしいと気づく。本物が着ていた服を脱いで替え玉に着せればいいのだが、この女性は自分のドレスを脱ぐのが嫌だったのだ。そんな理由で全く同じ服を二着用意するなんて、なんともご苦労なことである。
 侍女は黙々と少女のせこけた体をたっぷりの布で覆い隠していった。

「悪くないわね」

 女性は満足げな表情で、おうぎを広げてばっさばっさと自分をあおぐ。季節は真冬、もちろん暑いはずがない。この扇は涼をとるためではなく、その意匠いしょうからセンスや家柄を見せつけるためのものだ。

「よかったわ、サイズがちょうど合うようで」

 ドレスはあつらえたのかというほど少女の体にぴったりだった。もっとも、この女性は気づいてしまったようだ。コルセットでぎゅうぎゅうに締めつけた自分の体と、ただの布きれ下着を身に着けた少女の体が同じサイズだという残酷な真実に。
 女性は片眉をきゅっと吊り上げ、口元を扇で隠す。

「あなた、ダイエットはどのようになさって?」

 ピリリとした空気を漂わせ女性が問うと、少女は「え? ダイエットって何?」と聞き返した。

「その体型を維持するためにどのようなことをしているのか、と問うておられるのよ」

 侍女が少女の背中に回ってリボンを結びながら答えると、少女はぽかんと口を開けた。

「あたし? うーん、一生懸命食べ物を探す以外にってこと?」
「一生懸命食べ物を……」

 やはり食べ物が鍵なのね、体によい食べ物をとるように心がけなければならないのね、と女性はひとりごちたが、少女の意味するところがそんなものでないのは明らかである。世の中には体型を維持するために食事を減らす人間もいれば、生きるために必死で食べる人間もいるのだ。
 だが少女も女性も、互いの会話がすれ違っていることに気づいていない。
 女性は納得したように「痩せる食べ物を探させなければ」とつぶやき、少女は少女で「ほかに何かあるかなぁ……水を飲むとか?」と思案する。
 それにしても、この女性、「探さなければ」でなく「探させなければ」と言った。その一音の違いが、やんごとなき身として甘やかされていることをよく表している。
 少女と女性が会話にならない、互いに一方通行のおしゃべりに興じている間も、侍女は一心不乱に作業を続けた。スカートをめくり上げ、下にそのふくらみを保つための下着を幾重にも着せる。紐を交差し、結び、また結び、すそを整え、締めつけ、リボンを結ぶ。一切無駄がない動きは見事だ。
 少しして、侍女は少女から一歩、二歩と離れた。腰に手を当て、少女の全身をながめて満足げな表情をする。

「ますます、そっくりになったね」

 少女はドレスと手袋で隙間なく覆われた自分の体を見下ろしながら言った。
 たしかに、同じドレスを身につけた今、少女と女性の首から下は同一人物といって差し支えない。首から上が同じに見えないのは、少女の化粧をしていないすっきりとした顔と、ぐしゃぐしゃの髪のせいである。

「髪を結って化粧をほどこしますから、こちらにお座りください」

 そう言われ、少女はガタついた椅子いすに腰を下ろした。
 長いことくしを通した形跡のないもしゃもしゃの髪を櫛でかれる間、少女はおとなしく座っていた。侍女の所作は少女の髪をこうとしているのか、引きちぎろうとしているのか見分けがつかないほど乱暴である。少女が「あたたたたたー」と軽い痛みしか訴えないものだから、侍女はぐいぐいと髪を梳いた。そして、どうしてもほどけない毛先の絡みは、そこだけちょん切るという極めてシンプルな方法をとる。髪のくし通りがよくなるのと並行して、少女の周りに短い髪の毛のかたまりが積み上がっていった。

「全く、頑固な髪の毛だわ……!」

 侍女はさも大変そうに嘆いたが、大変なのは少女のほうである。髪を引っ張られ、ちょん切られ。
 それなのに少女は文句を言うどころか楽しそうに笑っていた。かたわらで見ていた女性が「あなた、もう少し賢そうな顔はできませんの?」と聞きたくなった気持ちもわからないではない。
 最後に侍女が髪に香油を擦り込み結い上げると、少女の細くて白い首筋があらわになった。

「首がスースーする」

 そう言いながらも、少女は完成した髪型が気に入ったらしい。女性に「似合う?」と聞いて「当たり前でございましょう。わたくしと同じ髪型なのですから」というありがたいお言葉をもらった。

「次はお化粧ですわね。あまり時間がないので、急がなくては」

 侍女はそう言って、少女の肌を見つめる。そして少女の肌がつやつやなのをいいことに、「下地と白粉おしろいはいりませんわね」と、素肌の上に色を乗せていった。これまで化粧をしたことがなかった少女はくすぐったそうに顔をゆがめ、そのたびに侍女に「お顔を動かさないで!」としかられた。
 こうしてできあがった少女の姿は、どちらがどちらだか見分けがつかないほど女性にそっくりだ。
 女性は少女の姿を満足げにながめ、あごをツンと持ち上げて言った。

「それでは、わたくしたちはここで失礼いたしますので。ぎょしゃに何か尋ねられたら『ええ』と答えるのですよ。屋敷に行けばトマという侍女が面倒をみてくれますからね」
「はぁい」
「『はぁい』ではなく、『ええ』と」
「あ、はい」
「『はい』ではなく……」
「ええ」
「……よろしいわ。それでは参ります。もうお会いすることもないでしょうけれど、お元気でね」

 女性は再びショールで顔をぎっちりと隠し、優雅にぴらりと手を振って、侍女をともない少女のゆく道とは反対側に向かって歩き出した。
 少女はというと、言われたとおり大通りまで歩き、止まっていた馬車にゆっくりと近づく。すぐに御者がひとりで立つ少女に気づき、うやうやしく礼をしながら問いかけた。

「奥様。実家に戻られる侍女のお見送りは無事終えられましたか」

 少女は御者を見上げる。御者の向こうには、青い空。狭い路地から見える小さな空と違って、それはどこまでも広く、どこまでも高い。

「ええ」

 少女はまぶしそうな表情で微笑ほほえんだ。

「それはよかった。お屋敷にお戻りになりますか?」
「ええ」
「では、お乗りください」
「ええ」
「途中お寄りになる場所はありませんか?」
「ええ」

 女性の言いつけどおりに「ええ」を連発し、少女は馬車に乗り込んだ。
 ぎょしゃが「途中お寄りになりたい場所はございますか?」と聞いていたら「ええ」という答えではややこしいことになっていたのは間違いない。そうならなかったのは幸いだった。そんな幸運に恵まれ、馬車に乗り込むときに踏段ステップすそが引っかかったという小さなハプニング以外は何一つ問題なく、少女を乗せた馬車は無事に帰途についたのである。
 ガラガラと音をたてて進む馬車の中はさっきのぼろ家とはうって変わって美しく、少女は感激して声を上げた。内壁は触り心地のよい布で覆われ、座面は赤のベルベットという豪勢な作りだ。
 馬車はゆっくりと石畳の道を抜け、緑の丘を上ってゆく。
 傍目はためには優雅だが、いざ乗ってみると馬車の乗り心地は案外悪いらしく、少女ははじめのうちそわそわと落ち着かなかった。痛む尻をなんとかしたかったのだろう。しかし、朝からずっと声を張り上げて疲れていたのか、馬車の揺れのせいか、器用に尻を浮かせたまま少女はことりと眠りに落ちた。
 馬車が目的地に着いたのはそれから半刻ほどあとのことだ。馬車の扉を開けた御者は、そこに座る女性の常ならぬ様子にとまどった。ふんわりとしたドレスのおかげで彼女の尻が浮いていることには気づかなかったようだが。
 御者は何度かまばたきを繰り返し、女性を見つめた。しかし、ぼろ家で大変身をげた花売りの少女は元の姿を想像できないほどに美しく、あの女性そのもの。偽者であることになど気づこうはずがない。御者は「よほどお疲れのようだな」と自分を納得させ、ゆさゆさと少女を揺すった。

「奥様。到着いたしましたよ」
「おくさま……?」

 自分にかけられた聞きなれぬ呼びかけをむにゃむにゃと復唱しながらうっすらと目を開けた少女は、わぁと一声上げて飛び上がる。ゴン、という鈍い音を響かせ、馬車の天井に頭をぶつけた。
 気の毒なのは御者である。細い体を大いにのけぞらせて胸の辺りを押さえながら「お、奥様……驚かせてしまい大変申し訳なく……」と謝った。
 どう考えてもこの御者のほうが驚かされている。
 御者を見、自らの服装を見、馬車を見て、ようやく少女は自分の置かれている状況を思い出したらしい。「あぁ」とひとり気の抜けた声を上げ、御者の言葉を無視して扉からにゅっと体を突き出した。

「お手を」

 御者が手を差し出すと、少女は慌てたように自分の手を体の後ろで組む。手に握ったままの高額紙幣を取り上げられるとでも思ったのか。いたずらが見つかった子どものような表情でぎょしゃを見つめ、誤魔化ごまかすようにニヘラと笑った。
 それから膝を曲げて勢いをつけ、少女は馬車の踏段ステップをぴょんと飛び下りる。淑女たるもの、「ぴょん」という擬態語で表される所作などしてはならんというのに。

「お、奥様……」

 御者はその様子に唖然あぜんとするが、聞こえてきた野太い叫び声に気をとられて、それ以上は何も言わなかった。
「おくさまーっ!」と、腹の底から声を張り上げているのは、馬車に向かって全速力でけてくる小太りの女性だ。

「奥様っ」

 ぜいぜいとあえぎながらようやっと馬車の前にたどり着いた女性は、汗だくの手で少女の腕をつかむと御者の前からさっさとさらった。
 細腕の少女は小太りの女性に引きずられながら、御者にぴらぴらと手を振る。

「私にお手を振っておられる……?」

 ぽつんと残された御者は何が起きているんだと首をひねりつつ、きゅうしゃに収めるためぶぶると鼻を鳴らす馬をなだめて、すぐ仕事に戻った。

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