「何もない、静かな部屋」 キスを待つ頬骨シリーズ2.5

水ぎわ

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第1章「松ヶ峰聡を取りまく、煩瑣な事情」

第1話「あそこに舌を入れれば、あの影を飲み干せる」

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(UnsplashのElia Massignanが撮影)

 人が死んだあとは、煩瑣《はんさ》な事務手続きの連続だ。
 母親・松ヶ峰紀沙《まつがみね きさ》の葬儀を終えたばかりの聡《さとし》は、広大な自宅広間に集まった親族を残して、こっそり抜け出した。

 大正時代に作られたという松ヶ峰家の本邸は、広間から長い廊下を抜けたところに家族しか使わない小さなキッチンがある。
 聡は誰もいないキッチンで赤ワインをあおった。

 一息に飲み干すと、聡のあごから首筋にかけてのなだらかなラインが灯りの下で影になる。
 本人がまったく気づかない美しい曲線だけが、ひんやりとした四月の夜に浮かび上がった。

 ルビーのような赤ワインを注ぎたし、しずかにつぶやく。

「飲まなきゃ、やってられねえよ」

 しかし聡ひとりの悲しみは、あっという間に華麗な男に邪魔をされた。

「聡。環《たまき》ちゃんを、広間にひとりで残しておくなよ」

 軽い足音とともに、楠音也《くすのき おとや》がキッチンに入ってきた。
 高校時代からの親友。もう十年以上の友人関係だ。
 音也は184センチの身体をなめらかに動かして聡のそばへ来た。
 長いほっそりした首には喪服のネクタイが巻きついている。
 そのあたりの店で適当に買ったような喪服を着ていても、楠音也は騒がしいほどに人を引き付けた。

 キズのない美貌。
 聡の記憶にある16歳からずっと、楠音也は、まわりにいるありとあらゆる人間に注目されていた。
 それを腹立たしく思う権利すら、聡にはない。
 なぜなら、聡は音也のだからだ。


 カタンと音を立てて、カラになったワイングラスをシンクに置く。
 優美な女性をイメージさせるグラスは、ドイツのブランド、シュピーゲラウのものだ。女性的でなめらかな曲線と圧倒的な耐久力、そして「安さ」が特徴ブランド。

 今は亡き、松ヶ峰紀沙は名古屋の名流家庭の子女がもつ特性を62歳で亡くなるまで、手放さなかった。
 つまりケチ。
 圧倒的な合理主義者。

 裕福な家庭に生まれ、もっと裕福な男と結婚したにもかかわらず、紀沙は無駄づかいをきらった。
そのかわり手の中にあるものは徹底的にメンテナンスして使いつくす「名古屋流のレディ」だった。

 ちょうど今、聡がいる小さなキッチンが大正時代に作られた外形を残しつつ、内部だけがそっくり最新鋭に入れ替えられているように。
 聡自身も誠実な外見、政治家として堅牢な態度をまといつつ、中には豊かな感情をおさめているように。

 もう一度、優美なワイングラスにたっぷりと赤ワインを注ぐ。
 ちなみに松ヶ峰家で使われているワイングラスには二種類があり、フルボディの白ワインか軽めの赤ワインにつかうものと、しっかりした赤ワイン用に分かれている。

 聡が手にしているものは本来なら軽めの赤ワイン用だが、聡の大きな手がつかんだワインボトルはボルドーのかなり重い赤ワインだ。
 ふ、と聡は笑った。

「こんなグラスにこんなワインを入れるとは。おふくろが生きていたら、どやしつけるだろうな」
「紀沙さんなら、お前を部屋の向こうまで蹴り飛ばすだろうな」

 ゆっくりと酔いが回り始めるのを感じつつ、目の前の親友に目をやる。
 聡と音也は背格好がよく似ている。しかし音也は、ほぼ同じ身長の聡と並ぶとほんの少しだけ小さく見える。
 わずかに猫背になるクセがあるからだ。

 こんなにきれいでこんなに頭の切れる男が猫背になる理由は何だろうかと、聡は音也を見るたびに考える。

 音也は長い指をわずかに襟《えり》に差し入れ、シャツの高い襟と、のどの骨のあいだに空間を作る。
 音也の喉に、影がたまる。聡は思わずごくりと唾をのんだ。

 あそこに舌を入れればあの影を飲み干せる、と松ヶ峰聡の喪服に包まれた筋肉質の身体がシャツの下でふるえた。
 しかしそんな聡にかまわず、音也の低い声が続く。

「環《たまき》ちゃん、広間で“本郷《ほんごう》”のおじさんにつかまっているぞ。あのひとは飲むと話が長いからな。お前、助けに行けよ」

 と、有能な政治秘書である音也は、コンビニへ煙草でも買いに行かせるような口調で、みじかく主《あるじ》にそう命じた。
 そのあいだ、つややかな色気にみちた音也の身体は、微動もしない。
 揺れ動いているのは聡だけだ。

 いつだって、揺れているのは聡の感情だけ。
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