「何もない、静かな部屋」 キスを待つ頬骨シリーズ2.5

水ぎわ

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第1章「松ヶ峰聡を取りまく、煩瑣な事情」

第2話 ふがいない松ヶ峰家の息子

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(UnsplashのDonny Jiangが撮影)

 楠音也《くすのきおとや》が低いバリトンで言った”本郷《ほんごう》”とは、名越市内の地名だ。
 住宅地として人気のエリアだが、同時に昔ながらの地主も多く住んでいる地域でもある。

 『名東区《めいとうく》の本郷』に住んでいる叔父は聡にとって、幼いころに亡くなった父親の末弟にあたる。
 松ヶ峰の家系は複雑で、その中でそだった聡でさえ、誰が誰の親戚なのか、わからなくなることもあった。 

 名古屋の名家のひとつ松ヶ峰家は、かつての尾張徳川家につながるという名流。親族はそれぞれ名古屋市内にちらばって広大な地所を所有している。

 さらにほぼ全員が「松ヶ峰」であるため、いちいち呼び分けるのがめんどうで、基本的に自邸のある場所が名前がわりになっている。
 だから”本郷”とは、本郷に自邸のある松ヶ峰家の分家《ぶんけ》のことをいうのである。

「おじさんは誰が相手だって話が長いんだ。おれがいかに松ヶ峰家の総領《そうりょう》として不甲斐《ふがい》ないかってことを、延々と言い続けるのが生きがいだからな」

 聡にとってこの叔父は、大事な支援者でもある。
 代々の松ヶ峰家を支えてきた後援会”吉松会《きっしょうかい》”をまとめているのが『本郷の叔父』だ。
 半年後に、初めての衆議院議員選挙を控える聡にとっては、粗略に扱っていい相手ではない。
 しかし聡は昔からあの叔父が苦手だ……。

 聡の言葉を聞いて、音也はにやりとした。
 長い指が、安っぽい喪服のポケットから煙草とマッチを取り出す。
 煙草をくわえて火をつけて、薄い唇で最初の一息を吸いこむまでが流れるようだ。まるでベテランの入ったバレエダンサーか、上手な詐欺師のよう。

 ふと、聡は音也が喪服の内ポケットに戻した煙草のピンク色の箱に目をとめた。

「今日はメンソールか」

 音也が笑ってうなずく。この男はもらった煙草でしか吸わない。

「“白壁《しらかべ》”がくれたんだ。
 なあ。あの白壁のバアさんは、紀沙《きさ》さんが亡くなったから、早々に環ちゃんをこの家から追い出すつもりだぜ。
 もう俺にあれこれと言ってきた」 

 くそ、と聡は小さくののしり声を上げた。

「”白壁”は昔から、たまちゃんがこの家にいるのが気に入らないんだ。
『松ヶ峰の本邸に一族以外が住むなんて、許せない』だとさ。
 バカらしい。こんなデカい家におれとおふくろ二人で住んでも仕方ないだろ。
 それに、たまちゃんはおふくろの遠縁だ。
 もう22年も一緒に住んでいるのに、いまさら出て行く?
 ふざけんな」

 ふわ、と聡の髪をどこからか入ってきた風が揺らした。
 大正の初めに建てられたという松ヶ峰家の本邸は、いつもどこかから入り込んだ風が吹いている。
 ここで育った聡には、それがこころよい。

 聡の髪を揺らした夜風は、続いて音也の吐き出した煙草の煙を乗せて、どこかへ消えていった。
 音也がのんびりと話す。

「冷たいもんだな。紀沙さんが突然の交通事故で亡くなって、まだ三日もたってないのに。もう誰もそのことは言わないんだ」
 金持ちって、そんなもんか?」

 薄く笑って、煙草をくわえる。
 音也の口元に鮮やかな炎が点じるのを、聡は切ないような眼で、見ている。
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