「何もない、静かな部屋」 キスを待つ頬骨シリーズ2.5

水ぎわ

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第2章「白日の影のごとく」 

第18話「今野 哲史」

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(Unsplashの青 晨が撮影)

 北方美氏根の家を訪れた翌日、聡は松ヶ峰家まつがみねけの裏庭で従妹のたまきと、もうひとり若い男の3人を見かけた。
 3人目は、今野哲史こんのてつしという。

 今野は、聡の選挙準備用に師匠筋ししょうすじにあたる国会議員・横井謙吉よこいけんきちの事務所から助っ人として借りている男だ。

 今、なんとなく出そびれて、物陰から三人を見ている聡にも、今野の明るい笑い声が聞こえる。
 身長170センチの今野は、184センチの音也と並ぶと、やや小さいように見える。環よりも10センチほど高い。
 年はたしか、24歳になる環と同じくらいだったと思う。

 聡の事務所へ来てから一カ月ほどたったが、とにかく底ぬけに明るい、にぎやかな性格だ。選挙まぢかでピリピリし始めている事務所に陽気さをもたらしている。
 
 今も、ひとしきり笑える話を環に披露ひろうしたあとのようで、おとなしい環がぽっちゃりした手で口もとをおさえ、笑いをこらえている。
 めずらしく音也も笑顔を浮かべて、それでもたしなめるように年若いスタッフに言った。

「わかったから。だからコン、もう少し静かにしゃべれ」
「そういってもさあ、小さい声だと聞こえないでしょ」
「声の大きさの問題じゃなくて。お前の話し方がうるさいっていうことだ。
 ところで環ちゃん、今日は付き合ってくれてありがとう。助かったよ」
「私で、お役に立ちましたでしょうか」

 環はまだ、ほのぼのとした笑いをふっくらした頬に乗せたまま、音也に答えた。
 音也は聡の高校時代からの親友だから、松ヶ峰家の全員と仲がいい。いつもなら男とはろくに話さない環でさえ、音也とはふつうに話す。
 あるいは、環も音也に憧れているのかもしれないが。

 聡が複雑な視線で妹分を眺めていると、今野がまたバカに明るい声で、

「かーっ。音也さん、これですよ、これ。環ちゃんは話し方にひんがあるんだよね。今どき珍しい本物のお嬢さまだよね」

 今野のチャラいセリフに、環は真っ赤になった。それを音也がちらりと見た様子が、聡のなかに引っかかる。
 なんだろう?

 聡が考え込むうちに、こちらに気づかない音也と今野は、今日見てきたばかりの事務所用の不動産物件について話し始めた。

「それよりな、コン。あの物件はどう思う」
「悪くないと思いますよ。ちょっと狭い気がするけど、すぐ裏に広い駐車場があるし」
「狭いか」
「でもね、選挙事務所では広さよりも立地を優先しろって、俺はいつも横井先生のところで言われます」
「そうだな……」

 音也は長い指で顎を撫でながら、つぶやいた。
 その指先が無意識のように薄い唇をひっかくのを見て、聡は身体じゅうがかっと熱くなる。

 聡は、あの唇を知っている。
 音也の全身で、あの唇だけを、知っている。

 聡が食い入るように見つめるうちに、音也が環に話しかけた。

「環ちゃんはどう思う?」
「私なんて、選挙のことは何もわかりません。でも地下鉄の駅に近くて、スタッフの方も出入りしやすいんじゃないでしょうか」
「環ちゃんがそう言うのなら、決まりだな」

 環は小さな目を見開いて、音也に言った。

「サト兄さんの意見は聞かないんですか」
「聡なんかどうだっていい。どうせ選挙が始まったら、あいつは事務所にいる時間なんてないんだ。
 むしろ事務所では環ちゃんが先頭に立ってくれないと」
「私なんて……」

 環は顔を赤くして手を振った。その姿を見て、今野がからかうように、

「一生懸命になっちゃって。可愛いねえ」

そう言った今野の脚を、音也が蹴りつける。

「痛ってえ! なんすか、音也さん」

 じろりと、音也は今野を見おろした。
 聡の背筋がぞくっとする。

 音也の目つきは、ベジタリアンが牛肉のかたまりを見るときのようだ。 
 その目つきに、離れて三人を見ていた聡さえも寒気を感じる。
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