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第3章「断章・音也」
第26話「刃物のような美貌」
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(UnsplashのKarina Tessが撮影)
その朝、楠 音也は朝の八時にカフェにいた。
平日、早朝のカフェはすいていて、窓の向こうを急ぐ人ばかりがめだつ。
人々が、やかましい川のように流れている。
向かい側に座っているのは、銀髪のバレエ教師、北方御稲だ。
北方は百七十センチ近い長身をカフェの椅子に据え、音也を眺めている。
糸のように細い髪をゆるくアップにした姿は、音也の眼には、ほそく長い首と尖ったくちばしをもつ鳥のようにうつった。
今朝の音也はチャコールグレーの安っぽいスーツを着て、つつましく頭を下げている。
音也の視線は、裏方の政治秘書そのものだ。
これから政界に打って出ようという若手政治家を、背後で支える黒子の男。
それが、楠音也という美貌の持ち主がみずから選んだ『立ち位置』だった。
しかし音也がこの七年のあいだに必死になって身につけた控えめな態度すら、北方には効果がなかったようだ。紅ひとつ差していない唇に、火をつけていない細巻きのシガリロをくわえた。
「おたがい、時間がないんだ。とっとと済ませよう」
音也のなだらかな目もとはこめかみに向かって切れあがり、かたちのいい耳に続く。
無駄なものの一切ない、研ぎすまされた刃物のような美貌。
音也はその端麗な顔の放つ力をできるだけ抑えこむようにして、北方に向かって話しはじめた。
「北方先生、自由党の鹿島幹事長とご昵懇とお聞きしました」
北方は何も言わずに、弓型の眉を片方だけ上げた。音也は続けて
「加島幹事長へ働き掛けて、次の選挙、愛知二区には松ヶ峰聡以外の立候補を出すのを中止していただきたいのです。」
音也の言葉を聞いて、御稲は、ヨーロッパの木彫りの人形のようにとがった鼻でせせら笑った。
「聡の対抗馬はほしくないってことか。弱気だね」
「今回に限り、松ヶ峰を脅かすような候補者が出てもらっては困ります。
自由党から次の衆院選に出る予定の候補者が一人なら、想定内です。
しかし余計な候補者がもうひとり出てきたら、票読みがくるってきます。
―――北方先生、どうか鹿島幹事長へお口添えをお願いいたします」
音也が頭を下げる。
北方は、
「あたしと鹿島のことを、誰から聞いた?
古い話だ。今じゃ知っている人間はいないと思っていたが」
「横井先生が、ご存知でした」
北方はふわりと笑った。
「あの細イタチ政治家、まだ現役だったね。
なあ、あたしが自由党の鹿島を知っていると言っても、もともとたいしたつきあいじゃない。
だいいち、そんなみっともないことを頼めるものか」
「……今でも、毎年の墓参を鹿島先生と欠かさないと伺いました。今年の命日も、そろそろですね」
カフェテーブルの向うで、ぎりっという低い音がした。
顔をあげると、北方の薄い唇がシガリロを噛み切っていた。
「そうまでして、聡を勝たせたいかい」
北方は、六十二にしては艶のありすぎる低い声で、いまいましそうに吐き捨てた。
ぞくっ、と音也の背中に悪寒が走った。
……しまった。
北方御稲の攻略法を、まちがえたか……?
その朝、楠 音也は朝の八時にカフェにいた。
平日、早朝のカフェはすいていて、窓の向こうを急ぐ人ばかりがめだつ。
人々が、やかましい川のように流れている。
向かい側に座っているのは、銀髪のバレエ教師、北方御稲だ。
北方は百七十センチ近い長身をカフェの椅子に据え、音也を眺めている。
糸のように細い髪をゆるくアップにした姿は、音也の眼には、ほそく長い首と尖ったくちばしをもつ鳥のようにうつった。
今朝の音也はチャコールグレーの安っぽいスーツを着て、つつましく頭を下げている。
音也の視線は、裏方の政治秘書そのものだ。
これから政界に打って出ようという若手政治家を、背後で支える黒子の男。
それが、楠音也という美貌の持ち主がみずから選んだ『立ち位置』だった。
しかし音也がこの七年のあいだに必死になって身につけた控えめな態度すら、北方には効果がなかったようだ。紅ひとつ差していない唇に、火をつけていない細巻きのシガリロをくわえた。
「おたがい、時間がないんだ。とっとと済ませよう」
音也のなだらかな目もとはこめかみに向かって切れあがり、かたちのいい耳に続く。
無駄なものの一切ない、研ぎすまされた刃物のような美貌。
音也はその端麗な顔の放つ力をできるだけ抑えこむようにして、北方に向かって話しはじめた。
「北方先生、自由党の鹿島幹事長とご昵懇とお聞きしました」
北方は何も言わずに、弓型の眉を片方だけ上げた。音也は続けて
「加島幹事長へ働き掛けて、次の選挙、愛知二区には松ヶ峰聡以外の立候補を出すのを中止していただきたいのです。」
音也の言葉を聞いて、御稲は、ヨーロッパの木彫りの人形のようにとがった鼻でせせら笑った。
「聡の対抗馬はほしくないってことか。弱気だね」
「今回に限り、松ヶ峰を脅かすような候補者が出てもらっては困ります。
自由党から次の衆院選に出る予定の候補者が一人なら、想定内です。
しかし余計な候補者がもうひとり出てきたら、票読みがくるってきます。
―――北方先生、どうか鹿島幹事長へお口添えをお願いいたします」
音也が頭を下げる。
北方は、
「あたしと鹿島のことを、誰から聞いた?
古い話だ。今じゃ知っている人間はいないと思っていたが」
「横井先生が、ご存知でした」
北方はふわりと笑った。
「あの細イタチ政治家、まだ現役だったね。
なあ、あたしが自由党の鹿島を知っていると言っても、もともとたいしたつきあいじゃない。
だいいち、そんなみっともないことを頼めるものか」
「……今でも、毎年の墓参を鹿島先生と欠かさないと伺いました。今年の命日も、そろそろですね」
カフェテーブルの向うで、ぎりっという低い音がした。
顔をあげると、北方の薄い唇がシガリロを噛み切っていた。
「そうまでして、聡を勝たせたいかい」
北方は、六十二にしては艶のありすぎる低い声で、いまいましそうに吐き捨てた。
ぞくっ、と音也の背中に悪寒が走った。
……しまった。
北方御稲の攻略法を、まちがえたか……?
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