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第3章「断章・音也」
第27話「愛されている男は酷薄だ」
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(UnsplashのNathan Dumlaoが撮影)
音也は早朝のカフェで、まっすぐに北方御稲を見た。
背筋を伸ばし、あごを引き、力のありすぎる目線を据える。
ここは一歩も引いてはならない、と思う。
たとえ眼前のしなやかなバレエダンサーのくちばしで、楠音也の全身がちぎり取られようとも、一歩も引いてはならない。
なぜなら今こそが、音也の切所だからだ。松ヶ峰聡のために肉も骨も投げ出すべき場所。
音也の深すぎる恋情が、問われる時だ。
硬く低いバリトンで言う。
「俺は、松ヶ峰聡の選挙参謀です。
勝つためならどんな手段でも平気です」
北方は若い男の力みを軽くするように、鳥の羽のように笑った。
「それだけの男かよ、あのボンクラが」
すうっと、音也は息を吸った。
「この世界でたったひとりの男です。
俺は、松ヶ峰聡に、すべてを賭けていますから」
まじろぎもせずにそう言った。
そのなりのいい仕草を、北方はどこか痛ましげな表情で見た。
「聡は、あんたに気がついているのかい?」
背筋が、震える。眉をひそめて北方を見る。
肩を後ろに引いて、考えた。
……今の言葉に、気づかなかったふりができるか……。
音也はすさまじいスピードで計算した。
できる。
できるはずだ。
音也が口を開けた瞬間に、北方御稲はくわえていたシガリロを口から話した。
ふわりと、ないはずの煙が見えた気が、した。
煙が目に染みる。
眼がないはずの煙で、ふさがれる。
そのすきに、銀髪の冠を頭上に乗せた老練なバレエダンサーは、若い男の無防備に開いた口へ鋭すぎるセリフを押し込んだ。
「あのボンクラは、ろくに見ちゃいないんだろう。
自分のことで手いっぱいなんだ。
あんたがどれほど苦労して隠しているのかを、知りもしない」
音也はこわばった表情から動けなくなった。
声が、出ない。
全身が真っ白になったように感じる。
ふと見るとカフェテーブルに置かれた自分の指が、爪の先までふるえていた。
ショックと恐怖。
これで終わりにできるという絶望的な希望がないまぜになった、多量の感情が音もなくあふれ出していく。
楠音也の凍りきった感情を、唯一うごかせるのは『松ヶ峰聡』という名前だ。
その名前に付随する、一個の肉体。
生命力に満ちあふれた温かみのある身体。
聡の体温。
楠音也の、恋しい男。
音也はつい、弾かれたように立ちあがった。
押し殺した声でつぶやく。
「御稲先生、今のはなしは―――」
「うん?」
「今の話は、先生だけのご意見ですか。
それとも、もっと外にも見えているのでしょうか」
俺の気持ちは。
俺の物狂《ものぐる》いは。
俺の恋情は。
北方は、ついさっき自分が吸い口を噛みちぎったシガリロを灰皿に置いた。
火はついていない。
ゆっくりと、話しはじめる。
「シガリロって煙草はね、定期的に空気を吹き込んでやらないと、火が消えてしまう。
紙巻き煙草と違って、葉巻には火勢を維持するための成分が入っていないから。
聡は、紙巻じゃない。
シガリロみたいに、しじゅう手をかけてやらないと火が消えてしまう男だ。
あんた、悪い男にひっかかったね」
そうだ、と音也は思う。
音也が細心の注意を払い、定期的に感情を喚起してやらないと学生時代の友人のことなんてたちまち忘れてしまう薄情な男。
片方のえくぼを作るだけで音也を歓喜の渦《うず》に叩き込める男は、シガリロとおなじ薄情さを持っている。
その薄情さが、音也を狂わせる。
愛されている男は酷薄だ。
音也は凄惨な美貌をカフェテーブルにうつむけて、そう思った。
音也は早朝のカフェで、まっすぐに北方御稲を見た。
背筋を伸ばし、あごを引き、力のありすぎる目線を据える。
ここは一歩も引いてはならない、と思う。
たとえ眼前のしなやかなバレエダンサーのくちばしで、楠音也の全身がちぎり取られようとも、一歩も引いてはならない。
なぜなら今こそが、音也の切所だからだ。松ヶ峰聡のために肉も骨も投げ出すべき場所。
音也の深すぎる恋情が、問われる時だ。
硬く低いバリトンで言う。
「俺は、松ヶ峰聡の選挙参謀です。
勝つためならどんな手段でも平気です」
北方は若い男の力みを軽くするように、鳥の羽のように笑った。
「それだけの男かよ、あのボンクラが」
すうっと、音也は息を吸った。
「この世界でたったひとりの男です。
俺は、松ヶ峰聡に、すべてを賭けていますから」
まじろぎもせずにそう言った。
そのなりのいい仕草を、北方はどこか痛ましげな表情で見た。
「聡は、あんたに気がついているのかい?」
背筋が、震える。眉をひそめて北方を見る。
肩を後ろに引いて、考えた。
……今の言葉に、気づかなかったふりができるか……。
音也はすさまじいスピードで計算した。
できる。
できるはずだ。
音也が口を開けた瞬間に、北方御稲はくわえていたシガリロを口から話した。
ふわりと、ないはずの煙が見えた気が、した。
煙が目に染みる。
眼がないはずの煙で、ふさがれる。
そのすきに、銀髪の冠を頭上に乗せた老練なバレエダンサーは、若い男の無防備に開いた口へ鋭すぎるセリフを押し込んだ。
「あのボンクラは、ろくに見ちゃいないんだろう。
自分のことで手いっぱいなんだ。
あんたがどれほど苦労して隠しているのかを、知りもしない」
音也はこわばった表情から動けなくなった。
声が、出ない。
全身が真っ白になったように感じる。
ふと見るとカフェテーブルに置かれた自分の指が、爪の先までふるえていた。
ショックと恐怖。
これで終わりにできるという絶望的な希望がないまぜになった、多量の感情が音もなくあふれ出していく。
楠音也の凍りきった感情を、唯一うごかせるのは『松ヶ峰聡』という名前だ。
その名前に付随する、一個の肉体。
生命力に満ちあふれた温かみのある身体。
聡の体温。
楠音也の、恋しい男。
音也はつい、弾かれたように立ちあがった。
押し殺した声でつぶやく。
「御稲先生、今のはなしは―――」
「うん?」
「今の話は、先生だけのご意見ですか。
それとも、もっと外にも見えているのでしょうか」
俺の気持ちは。
俺の物狂《ものぐる》いは。
俺の恋情は。
北方は、ついさっき自分が吸い口を噛みちぎったシガリロを灰皿に置いた。
火はついていない。
ゆっくりと、話しはじめる。
「シガリロって煙草はね、定期的に空気を吹き込んでやらないと、火が消えてしまう。
紙巻き煙草と違って、葉巻には火勢を維持するための成分が入っていないから。
聡は、紙巻じゃない。
シガリロみたいに、しじゅう手をかけてやらないと火が消えてしまう男だ。
あんた、悪い男にひっかかったね」
そうだ、と音也は思う。
音也が細心の注意を払い、定期的に感情を喚起してやらないと学生時代の友人のことなんてたちまち忘れてしまう薄情な男。
片方のえくぼを作るだけで音也を歓喜の渦《うず》に叩き込める男は、シガリロとおなじ薄情さを持っている。
その薄情さが、音也を狂わせる。
愛されている男は酷薄だ。
音也は凄惨な美貌をカフェテーブルにうつむけて、そう思った。
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