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第3章「断章・音也」

第28話「どんなものでも世界に対して差し出す覚悟」

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(UnsplashのWei Dingが撮影)

 カフェテーブルに身を乗り出した音也があまりにも必死すぎたのだろう。
北方きたかたの声が、若い男をいたわるようにやわらかくなった。

「気がついているのはあたしだけだろうよ。
 あんたは、ずいぶん慎重にやっているから。
 ひょっとすると案外、たまきかんづいているのかもしれない」

 ほう、と音也の口からため息が漏れた。

 同時に店じゅうの音が、ふたたび音也の耳になだれ込んできた。
 ものういビリーホリデイの歌声。
 コーヒーを注文する声。
 エスプレッソマシンの騒音。

 力が抜け、そのまま硬い椅子に座りこむ。
 うつむいた額に、ゆるく前髪がかかった。

 長いまつげを伏せて、肩で息をしている様子はぎすまされたやいばほどに美しい。

「ありがとうございます。では、もっと気をつけなくては」
「そうまでしなくちゃ、いけないかね」
「政治家にとって、セックススキャンダルは致命傷です―――
 俺は、俺自身が聡の邪魔になるくらいなら、今ここで、腹をかっさばいて死んだ方がましだ」

 北方はかすかに笑った。

「聡には、過ぎた男だね……。
 さっきの件だけど、あたしから鹿島かしま
 話すだけは話してみよう」

 音也はハッとして顔を上げた。

 ふんわりと笑う北方御稲きたかたみしねの視線が、やわらかく音也を包み込んだ。

 聡へのどうしようもない恋情をかくしこむために、すでに満身創痍まんしんそういになっているバカな若い男をいたわるように。

 音也は思わず立ち上がり、それから深々ふかぶかと頭を下げた。
 何と言っていいのか分からない。
 ただ全身に、ずっぷりと汗をかいていた。

「ありがとう、ございます」

 かろうじて声を絞りだした。
 女性と相対あいたいして、これほど追い詰められたのは、かつて聡の母親とふたりきりで話し合ったときが最後だ。

 ……10年前、松ヶ峰紀沙《まつがみね きさ》と約束を交わしたときが最後だ。


 その約束が音也を今日、このカフェに連れてきて、紀沙の唯一の親友とのあいだに、またしても密約をさせている。


 ……聡には、絶対に知られてはならない約束。

 音也が自由党の対抗馬を裏から手を回してつぶした事を聡が知ったら、どうなるだろう。
 正義感の強い聡だ。
 きっと激怒する。
 怒りのあまり、音也を選挙陣営からたたき出すかもしれない。

 それでも、と楠音也は汗だくの身体が次第に冷えてくるのを感じながら思った。

 そんなもので松ヶ峰聡の当選を変えるのなら、安い。

 聡のためなら、音也にはどんなものでも世界に対して差し出す覚悟がある。


 あるいは憎まれることで、音也は聡の記憶に残れるかもしれない。

 どんな形でもいい、聡の記憶に爪をひっかけられるのなら十分だ。
 すでに破れかぶれの美貌の男は、そう思っている。

 音也が出口のない思念のループにおちいっている時、コトリという小さな音がした。
 テーブルに、白地に金文字が浮かぶの箱があった。
 シガリロの箱だ。

 北方は男のようにかすれた声で音也に言った。

「あんたに、そいつをやろう」
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