28 / 164
第3章「断章・音也」
第28話「どんなものでも世界に対して差し出す覚悟」
しおりを挟む
(UnsplashのWei Dingが撮影)
カフェテーブルに身を乗り出した音也があまりにも必死すぎたのだろう。
北方の声が、若い男をいたわるようにやわらかくなった。
「気がついているのはあたしだけだろうよ。
あんたは、ずいぶん慎重にやっているから。
ひょっとすると案外、環は感づいているのかもしれない」
ほう、と音也の口からため息が漏れた。
同時に店じゅうの音が、ふたたび音也の耳になだれ込んできた。
ものういビリーホリデイの歌声。
コーヒーを注文する声。
エスプレッソマシンの騒音。
力が抜け、そのまま硬い椅子に座りこむ。
うつむいた額に、ゆるく前髪がかかった。
長いまつげを伏せて、肩で息をしている様子は研ぎすまされた刃ほどに美しい。
「ありがとうございます。では、もっと気をつけなくては」
「そうまでしなくちゃ、いけないかね」
「政治家にとって、セックススキャンダルは致命傷です―――
俺は、俺自身が聡の邪魔になるくらいなら、今ここで、腹をかっさばいて死んだ方がましだ」
北方はかすかに笑った。
「聡には、過ぎた男だね……。
さっきの件だけど、あたしから鹿島に
話すだけは話してみよう」
音也はハッとして顔を上げた。
ふんわりと笑う北方御稲の視線が、やわらかく音也を包み込んだ。
聡へのどうしようもない恋情をかくしこむために、すでに満身創痍になっているバカな若い男をいたわるように。
音也は思わず立ち上がり、それから深々と頭を下げた。
何と言っていいのか分からない。
ただ全身に、ずっぷりと汗をかいていた。
「ありがとう、ございます」
かろうじて声を絞りだした。
女性と相対して、これほど追い詰められたのは、かつて聡の母親とふたりきりで話し合ったときが最後だ。
……10年前、松ヶ峰紀沙《まつがみね きさ》と約束を交わしたときが最後だ。
その約束が音也を今日、このカフェに連れてきて、紀沙の唯一の親友とのあいだに、またしても密約をさせている。
……聡には、絶対に知られてはならない約束。
音也が自由党の対抗馬を裏から手を回してつぶした事を聡が知ったら、どうなるだろう。
正義感の強い聡だ。
きっと激怒する。
怒りのあまり、音也を選挙陣営からたたき出すかもしれない。
それでも、と楠音也は汗だくの身体が次第に冷えてくるのを感じながら思った。
そんなもので松ヶ峰聡の当選を変えるのなら、安い。
聡のためなら、音也にはどんなものでも世界に対して差し出す覚悟がある。
あるいは憎まれることで、音也は聡の記憶に残れるかもしれない。
どんな形でもいい、聡の記憶に爪をひっかけられるのなら十分だ。
すでに破れかぶれの美貌の男は、そう思っている。
音也が出口のない思念のループにおちいっている時、コトリという小さな音がした。
テーブルに、白地に金文字が浮かぶの箱があった。
シガリロの箱だ。
北方は男のようにかすれた声で音也に言った。
「あんたに、そいつをやろう」
カフェテーブルに身を乗り出した音也があまりにも必死すぎたのだろう。
北方の声が、若い男をいたわるようにやわらかくなった。
「気がついているのはあたしだけだろうよ。
あんたは、ずいぶん慎重にやっているから。
ひょっとすると案外、環は感づいているのかもしれない」
ほう、と音也の口からため息が漏れた。
同時に店じゅうの音が、ふたたび音也の耳になだれ込んできた。
ものういビリーホリデイの歌声。
コーヒーを注文する声。
エスプレッソマシンの騒音。
力が抜け、そのまま硬い椅子に座りこむ。
うつむいた額に、ゆるく前髪がかかった。
長いまつげを伏せて、肩で息をしている様子は研ぎすまされた刃ほどに美しい。
「ありがとうございます。では、もっと気をつけなくては」
「そうまでしなくちゃ、いけないかね」
「政治家にとって、セックススキャンダルは致命傷です―――
俺は、俺自身が聡の邪魔になるくらいなら、今ここで、腹をかっさばいて死んだ方がましだ」
北方はかすかに笑った。
「聡には、過ぎた男だね……。
さっきの件だけど、あたしから鹿島に
話すだけは話してみよう」
音也はハッとして顔を上げた。
ふんわりと笑う北方御稲の視線が、やわらかく音也を包み込んだ。
聡へのどうしようもない恋情をかくしこむために、すでに満身創痍になっているバカな若い男をいたわるように。
音也は思わず立ち上がり、それから深々と頭を下げた。
何と言っていいのか分からない。
ただ全身に、ずっぷりと汗をかいていた。
「ありがとう、ございます」
かろうじて声を絞りだした。
女性と相対して、これほど追い詰められたのは、かつて聡の母親とふたりきりで話し合ったときが最後だ。
……10年前、松ヶ峰紀沙《まつがみね きさ》と約束を交わしたときが最後だ。
その約束が音也を今日、このカフェに連れてきて、紀沙の唯一の親友とのあいだに、またしても密約をさせている。
……聡には、絶対に知られてはならない約束。
音也が自由党の対抗馬を裏から手を回してつぶした事を聡が知ったら、どうなるだろう。
正義感の強い聡だ。
きっと激怒する。
怒りのあまり、音也を選挙陣営からたたき出すかもしれない。
それでも、と楠音也は汗だくの身体が次第に冷えてくるのを感じながら思った。
そんなもので松ヶ峰聡の当選を変えるのなら、安い。
聡のためなら、音也にはどんなものでも世界に対して差し出す覚悟がある。
あるいは憎まれることで、音也は聡の記憶に残れるかもしれない。
どんな形でもいい、聡の記憶に爪をひっかけられるのなら十分だ。
すでに破れかぶれの美貌の男は、そう思っている。
音也が出口のない思念のループにおちいっている時、コトリという小さな音がした。
テーブルに、白地に金文字が浮かぶの箱があった。
シガリロの箱だ。
北方は男のようにかすれた声で音也に言った。
「あんたに、そいつをやろう」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
4
1 / 4
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる