「何もない、静かな部屋」 キスを待つ頬骨シリーズ2.5

水ぎわ

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第4章「奇妙な家」

第31話「あのくるぶしに触れたい」

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(UnsplashのMag Poleが撮影)

 聡は初夏の道を走るアウディの中で考える。
 
 そもそも楠音也くすのき おとやは、厳格な松ヶ峰紀沙まつがみね きさが気に入るような高校生ではなかった。
 音也には、名古屋の超有名私立校・西海学園さいかいがくえん高等部に入学する以前から、黒い噂がまとわりついていた。

 本来なら有名校へ入れるような人間ではないが、音也がいたから便宜がはかられた、というものだ。

 正確に言えば音也はある女性の『愛人』であり、それをネタに夫の理事をゆすって奨学金を得たという噂がささやかれていた。

 噂は、入学式の音也の姿で『確証』にかわった。
 わずか16歳の音也には、すでに他の少年とはまったく違う男の香りがたちのぼっていたからだ。

 圧倒的な、官能性。

 しかし、そんないわくつきの少年を、紀沙は誰よりも可愛がっていた。

 そのかわいがり方は、単なる息子の親友へ親近感と呼ぶにはいささか熱がこもりすぎていたかもしれない、と聡は思う。

 まさかと思うが、紀沙が一人息子の聡よりも音也を信用して、秘密のアトリエについて話していた可能性もゼロではない。
 だとしたら、音也は聡の知らない紀沙を知っていたことになる。

 ぞくっと、聡の短く切った髪の先まで寒気が走った。
 寒気を押し殺して、聡は平然とした声を作る。

「急ブレーキなんて、運転中に何を考えていたんだ、音也」
「選挙日程のことだ。すまなかったな」

 音也はすっかり黙ってしまった。

 あとは正確な運転で、アウディはすべるように広い名古屋の道を進んでいった。

 ウィンカーを出す音也の手。
 ブレーキを踏む足。

 音也の左側のくるぶしはブレーキやアクセルを踏むたびに、きしむような動きをする。
 高校時代にバスケの試合中に接触プレイで転倒し、くるぶしにひびが入ったのをきちんと治さなかったせいだ。
 あのくるぶしに、聡はれたい。


 その考えを、聡は瞬時に打ち消す。

 この熱はどこにも行き先がないからだ。
 だから聡は、親友に向かって普通の声をひねり出す。

「日程と言えば、今日はこのあと弁護士の三木みき先生に呼ばれている。
 たまちゃんも一緒だ」
「相続の件か」
「たぶんな。音也、お前も来るか?」
「俺が?」

 音也はようやく顔を横に向けて、にやりと笑った。
 笑うことで音也の艶やかな美貌に香りがつき、まわりの人間は否応いやおうもなく惹きつけられてゆく。

「行かないよ。あいにく松ヶ峰の金には興味がないんでね」

 音也は、かすかに目元をゆるめた。
 こんなふうに笑う音也を見ると、聡は何かに喉元のどもとをふさがれる気がする。
 なぜだか、自分がこれまでに失ってきたもの全てを眼前につきつけられている気がするからだ。

 責任もなく、身軽な疾風しっぷうのようだった日々。

 聡が『松ヶ峰』を一瞬だけ忘れられた、バスケットゴールとゴムの焦げる匂いに満ちた世界。

 あの日々はもう、遠い。

 聡は音也に尋ねた。

「お前さ」
「うん?」
「最近、御稲みしね先生と会ったか?」

 一瞬だけ、音也がたじろいだように見えた。
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