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第7章「今野哲史」
第48話「肩先の丸み」
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(UnsplashのEllie Ellienが撮影)
白蛇のようなおばさんとにらみ合ううち、しだいに環は勢いを失い、おびえた小動物のように小さくなった。まるで金属音の混じる女の呼吸音に、環の柔らかい肉がそぎ取られていったかのようだ。
環の背後にいる今野哲史《こんのてつし》は、自分が知らず知らずのうちに眉間《みけん》にしわを立てていたことに気づいて顔をなでおろした。
その瞬間、今野哲史の顔は平凡な”お人よし”の表情になる。
それは、早くから家族以外とつるんできた今野が身につけた世渡《よわた》りのテクニックだ。
今野は中年女性に、無駄なほど明るい声で話しかけた。
「いやあ、ほんっとすごい家ですよね、松ヶ峰家って。
あれでしょ、この家は文化財になっているんでしょう?
そんな家を仮の選挙事務所として公開するなんて、松ヶ峰先生も太《ふと》っ腹《ぱら》っすよね」
「まつがみね、せんせい?」
女が目をぱちくりさせて答えると、今野はわざと大仰《おおぎょう》に驚いてみせた。
「うちのオヤジです、ボスですよ。松ヶ峰聡《まつがみね さとし》センセイ。
半年後には愛知二区選出の衆議院議員になるでしょ、あの若さで。
やっぱ、お血筋《ちすじ》ってもんですね」
「そうね。あの子の父親、私の兄もたいした政治家だったわよ。聡だって、やればできるのよ」
「いやいや」
今野は芝居の見栄《みえ》を切るように、大声でわめいてみせた。
「いくらお血筋が良くってもね、仕込《しこ》みが良くなくちゃ、ああはなれません。
よっぽど”ご一族”で大事に育てられたんですねえ!」
「まあね」
女はおしろいの浮いた目じりをゆるめて、ふんぞり返った。
「あの子については、あたしも”本郷《ほんごう》”の兄さんも、ずいぶんと世話をしたものよ。
だって亡くなった紀沙《きさ》さんは、しょせんよそから来た人ですからね。
松ヶ峰の子供は、やっぱり松ヶ峰の人間が育てないとダメなのよ。
それに先代の当主だった兄と聡は血がつながっているけれど、紀沙さんとは―――」
女ははっと口を閉じた。
今野はさりげなく視線をはずし、女が失態《しったい》を取りつくろうのを待った。
「ま、まあ、つまり、そういうことよ、聡は松ヶ峰本家《まつがみねほんけ》を背負《せお》っていく、唯一の人間なの。
だから、あなたはさっさとここを出て、聡を身軽にしてやりなさい。
いずれ聡の嫁がくるんだから」
女は荒い足音を立てて部屋を出ていった。バタンと大きな音を立てて洋館の玄関が閉まる。
今野はふうと息を吐いて、環に向かってぼやいた。
「ほんと、よくしゃべるオバサンだな。オレ、おばさんは嫌いじゃないけど、ああいうのはいやだ」
今野が見ると、環は繊細な彫刻をほどこした食堂の椅子に、ぺたりと座り込んでいた。
「私の……せいだったんですね。
音也《おとや》さんがあんなに急いで本邸に引っ越してくるなんて、おかしいと思ったんです。
なぜそういう大切なことに、あたしは気づかないのかしら。
だからダメなんだわ……」
「環ちゃん」
今野はそっと環の肩に手を置いた。
肩先の丸みが、柔らかい。
白蛇のようなおばさんとにらみ合ううち、しだいに環は勢いを失い、おびえた小動物のように小さくなった。まるで金属音の混じる女の呼吸音に、環の柔らかい肉がそぎ取られていったかのようだ。
環の背後にいる今野哲史《こんのてつし》は、自分が知らず知らずのうちに眉間《みけん》にしわを立てていたことに気づいて顔をなでおろした。
その瞬間、今野哲史の顔は平凡な”お人よし”の表情になる。
それは、早くから家族以外とつるんできた今野が身につけた世渡《よわた》りのテクニックだ。
今野は中年女性に、無駄なほど明るい声で話しかけた。
「いやあ、ほんっとすごい家ですよね、松ヶ峰家って。
あれでしょ、この家は文化財になっているんでしょう?
そんな家を仮の選挙事務所として公開するなんて、松ヶ峰先生も太《ふと》っ腹《ぱら》っすよね」
「まつがみね、せんせい?」
女が目をぱちくりさせて答えると、今野はわざと大仰《おおぎょう》に驚いてみせた。
「うちのオヤジです、ボスですよ。松ヶ峰聡《まつがみね さとし》センセイ。
半年後には愛知二区選出の衆議院議員になるでしょ、あの若さで。
やっぱ、お血筋《ちすじ》ってもんですね」
「そうね。あの子の父親、私の兄もたいした政治家だったわよ。聡だって、やればできるのよ」
「いやいや」
今野は芝居の見栄《みえ》を切るように、大声でわめいてみせた。
「いくらお血筋が良くってもね、仕込《しこ》みが良くなくちゃ、ああはなれません。
よっぽど”ご一族”で大事に育てられたんですねえ!」
「まあね」
女はおしろいの浮いた目じりをゆるめて、ふんぞり返った。
「あの子については、あたしも”本郷《ほんごう》”の兄さんも、ずいぶんと世話をしたものよ。
だって亡くなった紀沙《きさ》さんは、しょせんよそから来た人ですからね。
松ヶ峰の子供は、やっぱり松ヶ峰の人間が育てないとダメなのよ。
それに先代の当主だった兄と聡は血がつながっているけれど、紀沙さんとは―――」
女ははっと口を閉じた。
今野はさりげなく視線をはずし、女が失態《しったい》を取りつくろうのを待った。
「ま、まあ、つまり、そういうことよ、聡は松ヶ峰本家《まつがみねほんけ》を背負《せお》っていく、唯一の人間なの。
だから、あなたはさっさとここを出て、聡を身軽にしてやりなさい。
いずれ聡の嫁がくるんだから」
女は荒い足音を立てて部屋を出ていった。バタンと大きな音を立てて洋館の玄関が閉まる。
今野はふうと息を吐いて、環に向かってぼやいた。
「ほんと、よくしゃべるオバサンだな。オレ、おばさんは嫌いじゃないけど、ああいうのはいやだ」
今野が見ると、環は繊細な彫刻をほどこした食堂の椅子に、ぺたりと座り込んでいた。
「私の……せいだったんですね。
音也《おとや》さんがあんなに急いで本邸に引っ越してくるなんて、おかしいと思ったんです。
なぜそういう大切なことに、あたしは気づかないのかしら。
だからダメなんだわ……」
「環ちゃん」
今野はそっと環の肩に手を置いた。
肩先の丸みが、柔らかい。
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