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第1章「松ヶ峰聡を取りまく、煩瑣な事情」

第10話「親友のキス」

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 聡は運転に意識を戻しながら、語気あらく音也に向かって言い返した。

「女のスキャンダルなんか、ねえよ」

 音也は満足げにうなずき

「それでいい。
 選挙が終わるまでは絶対に『ノースキャンダル』で通せよ、聡。
 セックスがらみは揉み消すのは金がかかるし、最近は画像をばらまかれる危険性がある。
 裸のおまえが女と一緒にいる写真なんかが出たら、一発でおしまいだ」
「女となんか寝ていねえよ!
 おまえが『選挙に出るんなら女は厳禁』って言ったんだ。
 だから一年も前から禁欲中だ!」
「よし」

 音也が目元をゆるめて笑った。

「その調子で選挙が終わるまでは『女断おんなだち』だ。
 いいか、おれの眼の前ではオンナは絶対にだめだ。ほしければ、そう言ってくれ」
「何を?」
「女だ」
「……ほしい、と言ったらどうなるんだ。まさかおまえが、女の代わりにキスするんじゃないだろうな」

 聡が言い返すと、音也は笑い飛ばした。

「俺じゃない。どこかから、口の堅いを調達してきてやる。 
 選挙が終わるまでは、プロで我慢しろってことだ」
「プロなんかいらねえよ」

 それきり、ふたりとも叔父の屋敷がある本郷に着くまで、口も開かなかった。


 だが松ヶ峰聡の唇の上には、親友のキスの味が残っている。
 音也の香りが、体温が、柔らかさが残っている。


 死んだって、忘れたくない。


★★★
 本郷の叔父の家はいつ訪ねても、ちりひとつ落ちていない。
 子供のころから、この家の廊下は顔がうつりこむほど磨いてあって気をつけていないと聡はすべって転んだ。

 そして医家らしく、いつもほのかに消毒用のアルコールの匂いがした。

 聡が秘書の音也を連れていくと、叔父は庭に面した客間で待っていた。
 20畳を超える部屋に160センチにも足りない叔父が一人でちんまりとすわっている。それだけで聡は噴き出しそうになった。

 茶色のポロシャツに、チノパンツ。
 禿頭には、なぜか柔らかいキッドの丸帽子をのせている。

 聡は神妙な顔つきで叔父の前に座り、音也は少し下がって座布団のない畳の上にじかに座った。
 小柄な叔父が口をひらく。

「少しは落ち着いたかいの」

 聡は頭を下げた。後ろの音也の気配が背中に痛い。
 とっとと挨拶をしろというのだろう。
 しかたなく、聡が口を開く。

「叔父さんには、母の通夜つやから本葬ほんそうまで何もかもお世話になりました。ありがとうございました」

 ぺこりと聡が頭を下げると、叔父は、うう、とうなるような声をあげた。

「ここにきて、紀沙さんに死なれるとは……いたい。
 痛いのう、楠よ」
「はい」

 と神妙に返事をしたのは音也だ。
 やはりここでも、必要なのは腕利きの政治秘書であって、
神輿のように担がれているだけの聡はただのお飾りのようだ……。
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