「何もない、静かな部屋」 キスを待つ頬骨シリーズ2.5

水ぎわ

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第10章 「裏工作」

第78話「甘すぎる声はきちんとひとつずつナンバーを振られて」

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(UnsplashのMazda Mehradが撮影)

 音也《おとや》の歯が、聡《さとし》の耳たぶを噛む。暴虐さを秘めた圧力が伝わった。
 松ヶ峰聡の黄金の繭《まゆ》に、ヒビが入る。

 音也の舌が指が、体温が。声が聡をゆすりたてた。深いバリトンが聡の繭《まゆ》を食いやぶって覚醒させてゆく。

 ふいに目の前で青空がひらけたように、”松ヶ峰聡《まつがみね さとし》である”ことが失われた。

 数百年つづく名家《めいか》を継ぐためだけに、27年をかけて傷ひとつつかないように育てられてきた男が、ただの聡になった。

 松ヶ峰聡でありながら、同時に音也の愛撫を受けるためだけに存在する、ひとりの男がそこにいた。

 やがて、深い悦楽が咽喉からあふれてくる。
 身体の奥底からひたひたとにじみ出す愉悦は、たったひとつの名前をともなって清水《しみず》のごとく絶えまなく湧《わ》きあがった。

「おと……おと……」
「うん」

 ぐっと、音也が聡をきつく抱きしめた。

「いいんだ。いけよ、聡」
「おと……っ」

 聡は両手でつかみしめている安っぽいジャケットにしがみついて、生まれて初めての完全な歓喜を味わった。
 身体が、耳が脳髄が皮膚が、すべてが高《たか》らかに愉悦を歌い上げている。
 乾ききった大地に穿《うが》たれたヒビから、水の恵みが自然に満ちあふれてくるように。

 聡は足の爪の先まで伸ばしきって、初めての快楽をむさぼった。

「おとや」

 聡のくちから、悲鳴のような声が放たれた。その声は丁寧《ていねい》に拾い上げられ、音也の中にしまい込まれてゆく。
 甘すぎる声はきちんとひとつずつナンバーを振られて、あらかじめ決められた棚に収められてゆく。
 まるで太古の昔から約束されていた場所のように。

 そして音也は大切な人の骨をカケラひとつも残さず拾う人のごとく、聡の悦楽の影をそっと飲み干した。
 ふるえが、舌に乗る。
 それから音也は柔らかな声で最後の言葉を注ぎこんだ。

「あいしているよ。俺がほんとうに愛したのはおまえだけだ。
 だから聡――何もかも忘れてくれ。俺のために」

 バラ色の快楽の中で、聡の頭はちかりと気がかりなことをつかみあげた。
 
 ……音也は何を言っているんだ?
 あいしている?ほんとうに?

 そして。
 わすれろ?

 聡に意識があったのは、そこまでだった。
 甘い悦楽に脱力した男の首筋に、音也の手刀《しゅとう》が音もなく吸い込まれた。的確に狙いすまされた一撃が、聡の意識を断ち切る。

 薄れゆく意識のもとで、聡が最後に見た音也は笑っていた。

 この世にあってはならない花の前に、何もかもを投げ出して額《ぬか》づいてしまった人のように。
 禁忌《きんき》の香りに包まれて、みずから望んで堕天《だてん》するひとのように。

 そして、この先に何があるのか知りたくもないという顔をして、楠音也は最後のキスを聡の唇にのこしていった。  
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