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第11章「俺の朝を、きみに」
第83話「この唇だけが」
しおりを挟む(UnsplashのElisa Photographyが撮影)
DVDを見るのなら、松ヶ峰邸には、何カ所かテレビを置いた部屋がある。
玄関横の選挙事務所にもある。
しかし環は結局、今野を二階にある家族用のリビングへ連れてゆくことにした。あそこならテレビがあるし、ソファもある。
なによりも家族用リビングは、広すぎる松ヶ峰邸で環が安心していられる数少ない場所だからだ。
二階に行くにあたり、今野は再び足首を痛めている環を抱え上げようとした。
しかし今度こそ、環ははっきりと抵抗した。
「あの、上がれます。自分で上がれますから」
すると今野はムッとした顔で、
「上がれねえよ。それに」
「それに?」
「昨夜は、聡さんに抱えてもらってたじゃねえか」
ぼそっと、声のトーンを落として今野はつぶやいた。
「だって、サト兄さんは家族ですし」
「環ちゃん」
今野ははっきりと尖《とが》った声を出した。
「家族って言っても、血がつながってないじゃないか」
「でも、家族です」
環が半泣きでそう言うと、今野は無言で環を抱き上げ、ふう、とため息をついた。
「たとえ聡さんが本物の兄貴でもね、俺は、嫉妬するぜ」
「――は?」
今野は返事もしないで、かるがると環を抱き上げたまま巨大な階段をあがっていった。
「それにしても、信じらんないね。ほんとにこんな家が日本にあるわけ?映画のセットみたいだ」
「古い家なんです。大正時代に建てられて――あの、今野さん」
「なに」
「階段を上がった、ふたつめの部屋で降ろしてもらえますか」
「なんで? テレビは二階の奥のあるんだろ?」
その、と環は言いよどんだ。恥ずかしさのあまり、次第に全身が真っ赤になってくるのがわかる。
世の中の女性は、みんなこういうことが普通なのだろうか。
だとしたら男女交際の経験を積めば、いつか環も恥ずかしく感じなくなるのだろうか。
わからない、と思った。
ただ少しだけ今野の腕の中で身体をよじり
「その、いろいろと、自分の部屋で用事が――」
「ようじ?何の……ああ、トイレ?」
「そういう、感じです」
今野は笑って、環を寄せ木細工の廊下におろした。
「立てる?」
「だいじょうぶです」
「じゃあさ、”用事”を済ませてきてよ。俺はさっきのキッチンでコーヒーを入れてくるから。勝手に歩いちゃ駄目だぜ、部屋の前で待ってて」
「歩けます」
さすがに環が少し怒っていうと、今野はくすりと笑った。
「ちがうよ、一人じゃあ、俺がこの家の中で迷子になりそうってこと」
トントンと軽快な音を立てて今野は一階に降りていった。
環はため息をついて、足を引きずりつつ部屋に入った。自室の洗面所でトイレを済ませて鏡を見る。
そこにはまだ顔を赤らめた、見栄えのしない太った24歳の女がいた。
「何が起きているのか、全然わからない」
手を伸ばし、鏡に映る自分の唇をなぞった。
この唇は、今野哲史《こんのてつし》に知られている。
この唇だけが、今野を知っている。
それで十分だと思った。
今野の柔らかい唇の記憶があれば、環はこの先も一人でやっていける。
聡に頼らず、できれば紀沙の遺した金も使わずに一人で生きていきたい。
それが今の環の願いなのだった。
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