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第11章「俺の朝を、きみに」
第88話「初夏、朝9時。 世界が変わってゆく」
しおりを挟む(UnsplashのVladimir Fedotovが撮影)
「ここじゃ、いや」
壮麗な洋館、松ヶ峰邸の2階リビングでそう言ったものの、環は、その声が自分のものだとは思えなかった。
なんだか椎の木の上から、突然降りおちてきた声のように感じる。
だが言葉は確実に環の身体の底から、環の声帯をふるわせてこの世にこぼれ落ちてきた。
そしていったん身体の外へ出た言葉を回収することは、りこうな天使にもできない。
びくん、とDVDを持った今野の動きが止まった。大きな背中が、ぎわりと不思議な形にかわり、呼吸にあわせてかすかに動いている。
「――なんだって、環ちゃん?」
環はもう自分の心臓の音がうるさすぎて、何を言っているのかよくわからない。ただ、言葉だけが次々とこぼれ落ちた。
「ここじゃ、いや。だってソファだし、古いし、痛いし」
「……ソファじゃなくて、痛くなければ、いい?」
「あなたが連れて行ってくれればいいの」
今野はDVDをケースにしまい終わり、振り返った。
環は、その時はじめて、今野の肩がやけに大きくて、雑にめくりあげた袖から固そうな手首の骨がのぞいているのに気がついた。
あの骨に歯を立ててみたい、と環が思ったとき、ふわっと抱き上げられた。
今野の唇が環の首筋をなぞってゆく。
はっきりと欲情でかすれた男の声が、環の耳元にあった。
「どこならいいんだ」
環は笑った。そして自分も今野の耳元に口を寄せ、小さな声でささやく。
「さっき、教えたでしょう?」
びくんっと、今野の身体が揺れた。その揺れは環にも伝わり、身体の奥から初めての熱を引き出していく。
今野は環の耳たぶを噛んだ。
「君の部屋で、いい?」
「あの……歩けますから。重いですよ、私、太っているんです」
環がきゅうに赤くなって言うと、今野は怒ったように腕の中の環をゆすりあげた。
ちょうど白い煙をあげたフライパンの中で黄金色の卵液を、一グラムのミスもなく掻きたて、あっというまにキラキラ輝くフリッタータに仕上げたように。
そして今野が、にやりとする。
「おろさねえよ。こんな時に好きな女も背負えねえような男じゃ、どうにもならねえだろ」
ゆっくりと、今野が環を抱えたまま歩いていく。
足元で、あめ色に輝く松ヶ峰亭の古い寄せ木細工の廊下が甘く甘くきしんだ。
環の部屋の重いチークのドアが開く。
よく油をさした金具は一音もたてずに開き、静かにしまった。
初夏、朝9時。
世界が変わってゆく。
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