「何もない、静かな部屋」 キスを待つ頬骨シリーズ2.5

水ぎわ

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第11章「俺の朝を、きみに」

第87話「どこで、何が入れ替わったのかわからない」

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(UnsplashのMehran Biabaniが撮影)
 
 今野の大きな手が、そっと環の耳にふれる。耳たぶをつまみ、ひねり、揉みしだいてからゆっくりと離れた。
 環の身体に、不安が来る。
 ……これで、おしまい?

 今野はかすかに笑って、環の不安をすくい取ったかのように頬に手を添えた。
 低くやさしい声が、朝の光のなか、くすぐったいほど心地よく聞こえる。

「……恋しかった。
 一晩中、君が何をしているのかって考えていた。いっそ、警備を呼ばれてでもいいからmここに忍び込もうかと思った」

 環が、小さな声で尋ねる。

「この屋敷に忍び込んで、どうするつもりだったんです?」

 ふふっと今野が笑った。
 笑うと、きれいに配置された目鼻のパーツの中で、とりわけ口角が上がって、たぐいまれな曲線を作ることに環は気がついた。

 このひとは、男の人だ。
 環が、はじめて間近に見る”男”がそこにいた。

 今野の唇のゆるやかなカーブが、近づいてくる。
 天空の一点から、迷いもなく最短距離で獲物に向かって滑空してくるハヤブサのようだ。

 今野には、やるべきことが分かっている。
 そしておそらく、環にも。

「もう一度、キスしたかった」

 今野の大きな手は環の頭を固定して、逃げられないようにする。

 そして環は、自分に逃げるつもりがないことを知っている。
 

 そっと、今野の唇が乗る。
 体温と、わずかにそれを上まわる熱が環のくちに入ってくる。

「……ん」

 環がうめいたのをきっかけに、今野は少しずつ体重を乗せてきた。ソファが、ぎしりときしむ。
 キスは次第に熱を帯び、環の口の中で、とどまれない龍のように暴れはじめた。


 やがてキスの合間《あいま》に今野が身体を離し、環に向かって笑いかけた。

「たまきちゃん……もっと、してえ」

 今野の欲情が、かろうじて言葉の形を取って、環に向かって流れ込んできた。熱くて切迫していて、奔流のような欲情が。
 だが今ならまだ、その奔流は、せき止められる。


 それを環が望むなら。

 環は目を開いて、奥二重《おくぶたえ》の瞳でじっと今野を見た。
 今野はにがく笑い、

「ごめん。俺なんかじゃダメだよな。
 金もねえし仕事ができるわけでもねえし、得意なこともない。
 宙ぶらりんのつまんねえ男だよ」

 きしっと、もういちど古いソファが鳴った。今度は今野がソファから立ち上がった音だ。
 テレビセットの前に座り込み、DVDを出す。その背中は、環が思っていたより二倍も三倍も大きく見えた。

 藤島環に初めてのキスをした男は、環のまったく知らない人間のようだった。

 ほんの一時間ほど前に手ぎわよくオムレツを作ってくれ、銀のフォークに乗せて食べさせてくれた今野哲史《こんのてつし》と言う男を、環はもっと知りたいと思った。

 そこには理由はない。
 ただ環がそうしたい、と思うだけだ。

 そして藤島環は、自分がときには無謀なことをする人間だと知っている。ちょうど今野をかばって3メートルの高さから飛び降りた昨日と同じく。
 

 『どこで、何が入れ替わったのかわからない』

 と、環は考えた。
 しかし椎の木から飛びおりる前と後では、環は変わってしまっている。

 だから、環の口から言葉がこぼれ出る。

「今野さん、あたし――」
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