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第12章「あれは、夢か?」
第100話「麒麟も自由に空を飛べる」
しおりを挟む美貌のホテルマン・井上は、午後の日本橋に聡と並んで立ち、、ブロンズの麒麟像《きりんぞう》を見てから笑った。
「この麒麟が、自由に飛ぶ日が来るかと?ええ、いずれ首都高が地下に移設されれば、自由に空を飛べるでしょう。しかし工事の完成は20年後ですし、ずれ込むことを考えたら30年はかかりますよ」
「30年……そんなに、待てねえよ」
「松ヶ峰さま?」
「だって井上さん、今から30年たてば、おれは57才です。それほどは、待てません」
「……30年を待てないほど、この麒麟に思い入れがございますか」
井上は深い声音《こわね》で尋ねた。
深い、深い声のいろ。
昨夜の井上が、コルヌイエホテルのスイートルームの前で出した声とよく似ていた。
あの時、井上は何と言ったのだったか。
聡は消えていきそうな記憶をたどった。
……そうだ。
あのとき井上は、彼をあっさりと捨ててスイートルームの奥へ入ってしまった女性の名前を呼んでいたのだ。
『おやすみ、さえ』と。
さえ。
おそらくそれが、井上の最愛の女性の名だろう。
このひとなら、と聡はふいに思った。
この人になら、おれの欲情のはしっこを見せても悪くはないだろう。きっと黙って受け止めてくれるはずだ。
一生に一度の恋を、死ぬまで隠し通す覚悟をもっている男なら。
聡の恋も笑わないはずだ。
聡は麒麟の像を見上げて、話しはじめた。
「おれには、好きなやつがいましてね」
井上は端正な顔をピクリともさせずに、ホテルマンらしいすっきりした立ち姿のままで聞いていた。
「そいつは高校を卒業してから名古屋を出て、東京へ行きました。
どうも、その後ろには俺のおふくろの綿密な、たくらみがあったようなんですが――。
とにかくあいつは東京に行って、年に数回、思い出したように名古屋へ帰ってきました。
そして帰ってくるたびに、ひどい顔になっていった。鼻がとがって、目元がどんどん暗くなって。
だからおれは、もういっそ名古屋へ戻ってきたらいいと言ったんです」
あのころの音也の顔つきを思いだすと、聡は今でも胸を締め付けられるような気持になる。
もともと細身の身体が、会うたびに削れていた。それでも音也は死刑囚のような顔つきで松ヶ峰家へやってきた。
それは、おそらく聡の母・紀沙へ定期報告をするためだったのだ、と今の聡ならわかる。
聡の母が、音也のスポンサーだったからだ。
紀沙は、いずれ息子のための汚れ仕事をさせるべく、大金を費やして楠音也を若い選挙参謀に仕立てあげたのだ。
松ヶ峰紀沙と言う女は、たった一人の息子のためなら、平気で汚い手を打てる女だった。
そして音也は、紀沙の意向に唯々諾々《いいだくだく》と従った。
なぜだ。
なぜ音也は、あれほどつらそうな顔をしながら、それでも命令に従ったのか。
そこにあったのは、カネ、というわかりやすい理由だけだったのか。
聡は、音也が東京でつらい気持ちになるたびに通った麒麟像を、あらためて見つめた。
ブロンズの麒麟像はほんのりと温かいが、どれだけ聡がたずねても答えをくれない。
ただ、初夏の午後の温みを掌に伝えてて来るばかりだ。
「おれが何を言っても、あいつは名古屋へ戻ってこなかった。
まるで、なにかにおびえているかのようだった。あれはいったい……なんだったんだ?」
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