「何もない、静かな部屋」 キスを待つ頬骨シリーズ2.5

水ぎわ

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第12章「あれは、夢か?」

第101話「最も美しいものは、この世にひとつだけ」

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(UnsplashのArtur Matosyanが撮影)
 
 聡の隣にいる井上は、黙ってダークスーツの内ポケットに手を伸ばした。それから小さな声で、あっと言ってから手を引っ込めた。

「日本橋では、吸えないんでしたね」
「煙草ですか」
「ホテルマンにあるまじき悪習です。やめねばと思っているのですが――やめられません」

 はっと、聡は長身のホテルマンを見た。
 井上は煙草のことを言っているのではない。
 あの女性のことを言っているのだ。

 聡よりほんの数センチ背の高い美貌のホテルマンは、聡より2歳上で、たいていの男が知らないような切ない恋を知っていた。
 聡と同じように。

「……どれくらい、やめられないんですか」

 美貌の男はシルバーフレームの奥できれいな目を軽くふせた。
 薄い刃《やいば》のような目が伏せられると、男が見てもぞくっとするほどの色気がにじんだ。

「8年……いえ、もう9年になります。初めて見たのは、わたくしが20歳の時でしたから」
「さぞかし、美しい少女だったんでしょうね」

 思わず聡がそう言うと、井上は、そっと笑った。
 切なさが目元から口元から噴き出して、長い首にそって流れ落ち、仕立ての良いダークスーツの肩にぶつかってはじけて飛んだ。

「この世には、美しいものがたくさんございます。なにも、ひとつだけ、のはずがない」

 だがそう言っている井上も、井上の言葉を聞いている聡も、そうではないことが分かっている。

 この世には、美しいものがたくさんある。
 しかし井上と聡にとって最も美しいものは、この世にひとつしかないのだ。
 柳の若木のような女性と、音也だけ。
 井上と聡の恋情をあおりたて、失くしたい恋をうしなわせてくれないものだ。

 ちょうど日本橋に座る二体の麒麟像のように、井上も聡も頭上を絶望にふさがれて、ここからどこへも行けない。
 聡はもう一度、像を見上げた。

 龍の顔とブロンズのうろこを持ち、燃え上がる尻尾の上で小さな羽根をはためかせた麒麟は、泣くことも叫ぶこともできずに、じっと定《さだ》められた方向を見つめている。
 にがい味のする華麗な運命を、だまって受け入れるように。
 聡は麒麟に向かって言った。

「あいつはおれを、自分にとってのたった一つの夢だと言っていました。
 おれはしょせん夢なんです。
 どれほど思っていても、夢ではどうにもなりません。夢だけをもって人生へ踏み出そうという人間はいないですから」
「……夢は、もっとも強いもののひとつですよ。夢さえ持たない人間は、朝になっても目を覚ますことができないでしょう。
 その方にとっての松ヶ峰様は、生きてゆくための大切な手がかりなのです。
 たとえ失ったほうが楽に生きられるとわかっていても、失くすことはできないものなのですよ」

 井上はそう言って目を見開き、微笑んだ。
 その瞬間、聡には仕立ての良いダークスーツの下に隠された、井上の傷のすべてが見えたような気がした。
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