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第12章「あれは、夢か?」
第102話「言葉に出した恋は、男をどうしようもなく駆り立ててゆく」
しおりを挟む(UnsplashのEric Aidenが撮影)
午後の日本橋に立つ美貌のホテルマンは、仕立ての良いダークスーツの下に傷だらけの身体を隠していた。
大きな傷、小さな傷。深い傷に浅い傷。
それらすべての傷の上には丁寧な補修《ほしゅう》の跡があり、跡のひとつひとつには、やわらかい女性の香りが残っていた。
あの柳の若木のような女性が、そのつもりもなく、ただ呼吸しているだけで治してしまった男の傷だ。
そして井上は、あの女性がいるからこそ無数の傷を受けながらも立っていられる。
ただ、彼女がこの世に生きているという、それだけの理由で。
「松ヶ峰さまの大切な方にとっては」
と美貌のホテルマンは、昼なお暗い首都高の下を流れる川を見つめて言った。
「松ヶ峰さまが生きていることが、すでに天祐《てんゆう》なのです。
遠くからあなたを守り、支え、助けが必要な時には駆けつける。それだけの役割で満足せねばならないこともございます」
「たとえおれが、それ以上を望んでも、ですか? それはしょせん、かなわないことでしょうか」
井上は視線を聡に戻した。
その目には強い光が宿っている。
「では、強く望み続けてごらんなさい。ねがい続ければ、なにかが変わるかもしれない。
いちど言葉に出した恋は、男をどうしようもなく駆りたてていくものです」
「井上さんは、何も言わないつもりですか」
聡がそう言うと、井上の美貌がほのかに笑った。
「ひとつ、良いことをお教えしましょうか。この麒麟には、羽根がついているでしょう?」
「ええ」
「これは、羽根ではないんです。魚のひれなんです」
「ひれ?」
聡は驚いて麒麟を見上げた。そう言われればこの麒麟の羽根は、流線型でしなやかな細い骨といい薄い肉づきといい、魚のひれによく似ている。
井上のテノールの声が続いた。
「むかし、この日本橋のあたりには魚河岸が多くありましてね。魚河岸の繁栄を祈願して、あえて魚のひれを麒麟につけたのだとも言われています。
じつは日本橋を大規模補修したときに、この麒麟の羽根も取りかえられているんです。
もとの麒麟の羽根は、今も“麒麟像・鰭(ひれ)”として中央区の郷土天文館におさめられているはずです」
「ほんとうに、ひれなんですね」
「ええ、ですからね」
と言って、井上はいたずらっ子のように笑った。
「わたくしは、時々思うんです。この麒麟たちは、夜になると魚の本性を取り戻して、すぐ下を流れる日本橋川を泳いでいくのではないかと。
人のいなくなる深夜に川を泳ぎわたり、海まで出ていく。きっと海では、好きなように飛んだり跳ねたりしているんでしょう。
そして朝までに戻って、そしらぬ顔をして橋の守りをしているんですよ」
井上の顔があまりにも子供っぽく見えたので、おもわず聡も噴きだした。
「夜になると、本性を取り戻すんですか」
「ええ。夜にだけ」
「昼間は、隠しきっているんですね」
「――ええ。どこからも、誰からも見えないようにしております。それが」
と井上は笑いをおさめて、にじむような微笑を浮かべた。
「それが、彼女の望みですから」
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