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第16章「風の行方を追え」
第133話「さびしいさびしいたんぽぽの綿毛」
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第133話「さびしいさびしいたんぽぽの綿毛」
(UnsplashのSergey Vinogradovが撮影)
楠音也《くすのき おとや》は、巨大な墓所のような夜の松ヶ峰邸《まつがみねてい》でそうつぶやいた。
「……俺はクビか」
骨を感じさせる音也の指は、今も聡の頬でとまったままだ。どうしても離せないというように、断固として動かなかった。
いとおしげに指を乗せたまま、音也の瞳がすうううっと細められた。
「俺なしで、この選挙に勝てるのか?」
じっと聡の眼をのぞきこんだまま尋ねる。聡は音也の目の鋭さに、思わず足を後ろに引きそうになる。それを、ぐっとふんばった。
膝の震えを押しかくす。
聡と音也は高校時代からの親友だ。男どうしの親友のあいだには、強さの比較とプライドと、負《ま》けん気《き》が抜きがたく存在する。
聡は、この世の誰よりも楠音也に負けたくない。
音也を愛しているが、それとこれとは話が別だ。
たとえ聡が音也に骨の髄まで惚れていても、音也に負けることだけは、したくない。
惚れているからこそ、負けたくない。
聡はきつい視線で音也をにらみ返した。腹の底に力をこめて、強い声を出す。
「勝てるかだと? 勝てる。だいたい必ず勝てるように、てめえと死んだおふくろが10年もかけて準備をしておいたんじゃねえか。おれは、てめえの用意したみこしに乗る。
おまえがおれの背後で何をやっていようが気にしないことにした。それがおれの、仕事だからだ」
「仕事、な」
音也も、うそぶくような声で聡に答える。
「お前が選挙を『仕事』と、ぬかしているうちは勝てないぜ。俺と紀沙《きさ》さんがどれほど準備をしておいても、みこしに駄犬《だけん》を乗せたんじゃ勝てない」
音也の物言いに、聡はついかっとなった。
くそ、かまわねえ。
たとえこいつが、おれの身体をあばいた初めての男だとしても、おれがおれ自身である事実は変わらない。
仕方がないじゃねえか。
おれは「松ヶ峰聡」だ。
世界中どこへ行こうと、たとえ夢の中に逃げ込もうと、おれ自身がついて回る。そこから逃れることは、できない。
そして、聡はもう逃げたくない。
松ヶ峰聡は、名古屋で四代続いた政治の家に生まれた男だ。
プライド以前に、聡はまわり中の人間に対して責任がある。
後援会の『吉松会《きっしょうかい》』に対して、松ヶ峰の分家《ぶんけ》に対して、聡を政治家として立たせるべく時間と労力をかけてくれたすべての人間に対して責任がある。
27年間、松ヶ峰家の黄金の繭《まゆ》の中で生きさせてくれたすべての人に対して、礼を尽くさねばならないのだ。
だから聡は、何もかもを捨てて別の世界に生まれ変わることも、何もしないでのらくらと現実から逃げることもしない。
それが――松ヶ峰聡だからだ。
聡は、音也の冷たい視線に向かって刻《きざ》みあげるように声をぶつけた。
「おれは駄犬じゃねえ。勝てる算段はしている。てめえがいなくても、この選挙には勝つぜ。だから、もういいんだ音也」
ふっと、音也の目から光が消えた。
いつも聡の前では少し猫背《ねこぜ》になる音也がもっと背を丸め、肩を落とした。
さびしいさびしいたんぽぽの綿毛のように。
あとは春風に吹き散らされていくのを待つしかない、頼りなげな綿毛のように。
「じゃあ、ほんとうにもう、俺は要らないんだな」
音也はチャコールグレーの革素材らしいパンツのポケットに両手を突っ込み、歩き始めた。
聡はあわてて、
「音也、どこへ行く」
「死ぬのさ」
さらり、と振りかえりもしないで音也はそう言った。
「俺はこの10年、松ヶ峰聡のためだけに生きてきた。お前が俺を要らなくなったら死んでもいい。それが紀沙さんとの約束なんだ」
音也はタイル張りの『ブルーチューリップ』の部屋から出ていこうとする。聡は思わず、親友の肩をつかんだ。
「なんだって、おまえはいつもおれの話を最後まで聞こうとしねえんだよ!」
(UnsplashのSergey Vinogradovが撮影)
楠音也《くすのき おとや》は、巨大な墓所のような夜の松ヶ峰邸《まつがみねてい》でそうつぶやいた。
「……俺はクビか」
骨を感じさせる音也の指は、今も聡の頬でとまったままだ。どうしても離せないというように、断固として動かなかった。
いとおしげに指を乗せたまま、音也の瞳がすうううっと細められた。
「俺なしで、この選挙に勝てるのか?」
じっと聡の眼をのぞきこんだまま尋ねる。聡は音也の目の鋭さに、思わず足を後ろに引きそうになる。それを、ぐっとふんばった。
膝の震えを押しかくす。
聡と音也は高校時代からの親友だ。男どうしの親友のあいだには、強さの比較とプライドと、負《ま》けん気《き》が抜きがたく存在する。
聡は、この世の誰よりも楠音也に負けたくない。
音也を愛しているが、それとこれとは話が別だ。
たとえ聡が音也に骨の髄まで惚れていても、音也に負けることだけは、したくない。
惚れているからこそ、負けたくない。
聡はきつい視線で音也をにらみ返した。腹の底に力をこめて、強い声を出す。
「勝てるかだと? 勝てる。だいたい必ず勝てるように、てめえと死んだおふくろが10年もかけて準備をしておいたんじゃねえか。おれは、てめえの用意したみこしに乗る。
おまえがおれの背後で何をやっていようが気にしないことにした。それがおれの、仕事だからだ」
「仕事、な」
音也も、うそぶくような声で聡に答える。
「お前が選挙を『仕事』と、ぬかしているうちは勝てないぜ。俺と紀沙《きさ》さんがどれほど準備をしておいても、みこしに駄犬《だけん》を乗せたんじゃ勝てない」
音也の物言いに、聡はついかっとなった。
くそ、かまわねえ。
たとえこいつが、おれの身体をあばいた初めての男だとしても、おれがおれ自身である事実は変わらない。
仕方がないじゃねえか。
おれは「松ヶ峰聡」だ。
世界中どこへ行こうと、たとえ夢の中に逃げ込もうと、おれ自身がついて回る。そこから逃れることは、できない。
そして、聡はもう逃げたくない。
松ヶ峰聡は、名古屋で四代続いた政治の家に生まれた男だ。
プライド以前に、聡はまわり中の人間に対して責任がある。
後援会の『吉松会《きっしょうかい》』に対して、松ヶ峰の分家《ぶんけ》に対して、聡を政治家として立たせるべく時間と労力をかけてくれたすべての人間に対して責任がある。
27年間、松ヶ峰家の黄金の繭《まゆ》の中で生きさせてくれたすべての人に対して、礼を尽くさねばならないのだ。
だから聡は、何もかもを捨てて別の世界に生まれ変わることも、何もしないでのらくらと現実から逃げることもしない。
それが――松ヶ峰聡だからだ。
聡は、音也の冷たい視線に向かって刻《きざ》みあげるように声をぶつけた。
「おれは駄犬じゃねえ。勝てる算段はしている。てめえがいなくても、この選挙には勝つぜ。だから、もういいんだ音也」
ふっと、音也の目から光が消えた。
いつも聡の前では少し猫背《ねこぜ》になる音也がもっと背を丸め、肩を落とした。
さびしいさびしいたんぽぽの綿毛のように。
あとは春風に吹き散らされていくのを待つしかない、頼りなげな綿毛のように。
「じゃあ、ほんとうにもう、俺は要らないんだな」
音也はチャコールグレーの革素材らしいパンツのポケットに両手を突っ込み、歩き始めた。
聡はあわてて、
「音也、どこへ行く」
「死ぬのさ」
さらり、と振りかえりもしないで音也はそう言った。
「俺はこの10年、松ヶ峰聡のためだけに生きてきた。お前が俺を要らなくなったら死んでもいい。それが紀沙さんとの約束なんだ」
音也はタイル張りの『ブルーチューリップ』の部屋から出ていこうとする。聡は思わず、親友の肩をつかんだ。
「なんだって、おまえはいつもおれの話を最後まで聞こうとしねえんだよ!」
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