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第16章「風の行方を追え」
第132話「ブルーチューリップ」
しおりを挟む(UnsplashのXu Duoが撮影)
松ヶ峰邸《まつがみねてい》で音也が使っている部屋は、二階、らせん階段のすぐそばだ。聡の部屋とは、寄せ木細工の廊下をはさんで、向かい側にある。
音也がそこを選んだのは、部屋の横に小さなタイル張りのスペースがあり、そこからテラスへ出られるからだ。
松ヶ峰紀沙《まつがみね きさ》が生きているときは常に禁煙だったから、聡も音也も煙草を吸おうと思ったらそのタイルを通り抜けてテラスへ行くしかなかった。
部屋の壁と床に張り付けられたタイルには、中国風の絵の染付がされている。ところどころにブルーのチューリップをデザインしたタイルが混ざりこんでいた。
だから、タイルの部屋は『ブルーチューリップ』と呼ばれている。
聡が息せき切って階段を駆け上がると、大正時代に作られたタイルのあいだに音也がいた。ひとり静かに立っている。
息を切らせている聡を見て、にやりと笑った。
10日間の不在など、なかったかのように。
姿を消す前、東京のコルヌイエホテルのスイートで聡の身体にいとおしげにふれ尽《つ》くしたことなど、忘れはてたかのように。
音也はいつも通りの華麗な美貌のまま、ブルーチューリップの部屋に立っていた。
夜露《よつゆ》にぬれ輝《かがや》くようなバリトンの声が聡に尋ねた。
「タバコ、いるか。聡?」
返事も待たずにぽいと煙草のパッケージを放り投げてきた。
聡は思わず受け止める。今日の煙草は黄色い箱にラクダの絵が付いているキャメルだ。
どうせ誰かにもらったのだろう。音也はもらい煙草しか、吸わない。
聡は乱暴にキャメルを開けてくわえた。音也がマッチの火を差し出す。
長い指のあいだで、オレンジ色の炎が踊る。
じゅっと聡の口元の煙草に火が付いた。
「……キャメルなんて、誰が吸っていたんだ」
「帰りの新幹線で隣に乗っていたオヤジからもらったんだ」
「知らないやつから煙草をもらったのかよ。大丈夫か?」
聡は煙草を口から離してまじまじと見た。音也は薄く笑い、
「もらったときは新品だったさ――聡、やせたな」
すっと、音也の指が頬を撫でた。
撫でられたところから、聡に火が付く。ゆらめくオレンジ色のマッチの炎のように。
そのゆらめきを押しつぶすように、聡は音也に向かって短く言った。
「音也。てめえはもう、自由にしてやる」
言葉とともに、ふううっと聡の唇からキャメルの煙が吐き出された。
音也の美貌がキャメルの青い煙の向こうでかすんでいる。
聡は煙草を口からはずして指で持ち、あらためて同じ言葉を口にした。
「てめえはもう、自由にしてやる」
二度、同じ言葉を言われて音也の完璧に整った顔つきが、ゆがんだ。
まるで泣いているようだ、と聡は思った。
あるいは。
執行日を危うくのがれた、死刑囚のような顔をしている。
そして音也は、美しい。
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