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第16章「風の行方を追え」
第131話「風の意思」
しおりを挟む(UnsplashのKatarzyna Urbanekが撮影)
夜の松ヶ峰家《まつがみねけ》は、閉館後の美術館のように静まりかえっている。
ひとりでパーティから戻ってきた聡は、からっぽの家から死者《ししゃ》の衣のようにひんやりした空気で迎えられた。
スーツを着たまま、玄関横の選挙事務所に入る。
蛍光灯の明かりの下で、荷物をまとめた段ボールが積みあがっている。もうじき駅前の選挙用事務所に引越すからだ。
衆院選挙まで、あと3カ月半。
いよいよ本腰《ほんごし》を入れた選挙準備が始まるのだ。
聡はスーツの内ポケットから煙草を取り出しつつ、つぶやいた。
「あの事務所は、おれのいない間にコンと音也《おとや》が選んだんだっけ……」
一人きりの事務所に、ゆらゆらと聡の煙草のけむりだけが立ちのぼった。
「コンのやろう、たまちゃんをかっさらっていきやがって」
聡は、年記念パーティが終わってから今野がわざとらしく言った言葉を思い出して笑った。
『あっ、環《たまき》ちゃん、今日は着物だから歩きにくいですよね。俺が送っていきますよ』
そういうと、今野は荷物を運ぶベテラン作業員のように手ぎわよく環を連れて消えていった。
聡は苦笑して、ひとりで戻ってくるしかなかった。
「コンと、たまちゃんか…」
ぽつんとつぶやいて、聡は天井まで上がっていく煙を眺めた。
ゆらゆらとのぼる煙の行方《ゆくえ》を見ていた聡は、ハッとして立ち上がった。
煙が、一定の方向へ引きずられるように流れてゆく。
この巨大な松ヶ峰邸のどこかで窓があいて、風が巻《ま》きおこっているのだ。
ごくっと、聡の咽喉《のど》が鳴った。
この家の鍵を持っている人間は三人だけだ。聡と環と、音也《おとや》。環は一社の家にいる。
となれば、残るは音也だけ。
聡はあわてて煙草を押しつぶし、事務所を飛び出した。
広すぎる玄関ホールで、全身に鳥肌を立てて、風の行方を追う。
ひんやりとした風は頭上から流れ落ちてくる。
風は意志を持つもののように聡にまとわりつき、聡の良く知っている香りと、聡の知らない煙草の匂いを運んできた。
「あいつ、今日はどんな煙草を吸っているんだ」
聡は、らせん階段を一段おきに駆けあがる。
音也がいる。
花のようなデューンの香りと、外国ものらしい煙草の匂いをただよわせた最愛の人は、死んでしまった美術館のような巨大な松ヶ峰邸にいる。
確実に、いる。
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