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第16章「風の行方を追え」
第135話「この世のすべてを失う決心」
しおりを挟む(UnsplashのEsther Lewisが撮影)
すさまじいほどの愛情が、10年かけて、楠音也《くすのき おとや》という男になりかわったかのようだ。
その愛情を一身に受けていたのは、聡自身だった。
どうしておれは、これほどの感情に気がつかなかった?
音也がかくしていたからか?
――ちがう。と、聡は思った。
聡は、気がついていた。
気づかないはずがない。押し殺しても隠しても、あふれ出してくるような愛情だ。
だが聡は、こわかったのだ。
松ヶ峰聡の世界に、まっこうから逆《さか》らうことができなかった。
安穏《あんのん》とした黄金の繭《まゆ》から踏み出すことが、できなかったのだ。
子供だったから、という言いわけは通るものだろうか。
いや、通らない、と聡は思った。
そんな言いわけは通らないから、今ここで、聡は音也を失おうとしているのだ。
音也は軽く頭を振り、目もとをぬぐって聡を見た。
「あのころの俺を助けてくれたのは、紀沙さんだ。あのひとは、俺に気づいていた。だから金をくれて、金以上のものも、くれた」
「金以上のもの?」
聡はぼんやりと音也の言葉を繰り返した。音也はもう一度笑った。
もう凄絶《せいぜつ》さはない、かわりにもっと澄みきった表情だ。
この世のすべてを失う決心をした男の顔がそこにあった。
「お前のそばに居てもいい理由を、紀沙さんはくれたんだ。
高校を卒業してから東京で仕事を覚える。使える男になったら、紀沙さんはお前の選挙準備を始める。俺は政治秘書としてそばにいられる。
その気になれば、一生をともにできる」
「……秘書としてか」
ぽつんと聡は言った。どうしようもないほどに茫漠《ぼうばく》たる寒気《さむけ》が、全身をおおっている。
聡のなかの空っぽの部屋は、月夜の砂漠のようにざらざらとしていた。
「秘書で良かったのかよ、おまえは」
「他に選択肢はなかった。俺の思いつく限り、最善の道だった。
おまえ前の近くにいられさえすればいい、と思ったんだ。選挙に出て、勝って、おまえは議員になる。いずれおまえの隣に立つはずの女は、名古屋においておけばいい。
議会があるあいだは、いっしょに東京で暮らせる」
トスっと、聡はタイルの床に座り込んだ。
仕立ておろしのブルーグレーのスーツをくしゃくしゃにして、頭を膝の間に突っ込んだ。
「おれは、いやだよ。そんなの」
子供のように言うと、音也はしゃがみ込み、そっと髪を撫でた。
甘い、花のようなデューンの匂いが聡を包む。聡の鳴き声が続いていく。
「いやだ。おれはおまえが好きで、おまえだっておれを好きなんだろう。それでもう、いいじゃないか」
「だめだ」
甘い香りは、優しい声で冷たいことを言った。
「だめだ。お前は政治家になるんだ。いっただろう、政治の世界では、セックススキャンダルこそ致命傷だ」
「じゃあ出馬《しゅつば》を取りやめ――」
「だめだ」
聡の泣き言を、音也の冷たい声がさえぎった。
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