ひたむきに恋して

久遠ユウ(くおんゆう)

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 少し震える手で鞄を握り直し、小さい深呼吸をした。

 ガラリと音を立てて担任が扉を開けると、ざわついていた教室の視線が一斉にこちらを向いてくる。

 ああ、この感じ。やっぱり苦手だ。お腹の奥がむず痒くて、落ち着かない。

 担任が教壇へ上がるのに続き、佐伯凛さえきりんもその横に並んだ。
「佐伯凛です」そう、自己紹介を始めたとき、後ろの席に座る男子生徒と視線が重なった。

 一瞬、息が止まったかと思った。

 空と海の二つの青が、懐かしい笑顔と一緒に落ちてきた感覚。
 キラキラと輝く海、抜けるような青空に浮かぶ入道雲。
 波が打ち寄せては、泡となって砕ける音。
 肌を焼くような日差しの中、砂浜を一緒に駆け回った。
 あの夏の記憶が、一気に凛の心へと流れ込んできた。

 あの子……だ。

 笑顔は、あの頃と同じで変わってない。
 でも、背はずいぶん高くなって、一段とカッコよくなっている。

 まさか、同じ高校だったなんて……。

 さっきまでの緊張はすっと消え去り、胸の奥から喜びがあふれてくる。
 心臓がドクンっと鳴ると、声が出そうになって、慌てて口を覆った。

 窓際の彼だけを、時が止まったかのように見つめていた。
 周りから注目を浴びていても、友人と話す『彼』から目が離せない。

 たった一週間の、かけらみたいに儚い夏。
 でも確かにあった大切な季節を、一度たりとも忘れたことなんてなかった。

 どうしよう、泣きそうだ……。

「佐伯の席は、そこ。一ノ瀬いちのせの隣だ。……海翔かいと、頼むぞ」
 担任の声で我に返ると、用意された席を見て胸が詰まった。
 指名されて気怠そうに「うぃー」と手を挙げる男子。

『カイト』──やっぱり、そうだ……。

 震える足を動かし、海翔へと近づいて行く。
 席に着いて隣を見ると、「どーも」と、そっけない挨拶。
 凛は、一ノ瀬海翔を真っ直ぐ見て、ただ「初めまして」と言った。

『俺のこと、覚えてる?』なんて、聞けない。
 きっと『カイト』は忘れている。
 ひと夏だけ一緒に過ごした少年のことも、あの出来事も……。

 あくびをする口も、そこに添えている手も、あの頃より大きい。
 男らしい高校生の姿に、凛は感動のため息をこっそりこぼした。

 太陽みたいに笑うのは、あの頃と同じだな……。

 思い出に浸っていると、机に影ができて顔を上げた。
「俺、丸岡まるおかって言うんだ。丸岡李仁りひと。斜め前の席な。よろしく、佐伯」
 スラリと背が高く、日に焼けた笑顔の男子が、自分の席を指さしている。
 健康優良児そのものの丸岡は、爽やかに握手を求めてきた。

「よ、よろしく……。佐伯凛です」
 凛が握り返すと、ニコニコ顔で握った手をぶんぶんと振ってくる。

「こら、丸岡っ。席につけ。授業始めるぞ」
 担任に怒鳴られても、「はいはーい」と、軽口で凛にウィンクしてくる。

 明るい人だな……。

 思わず、クスッと笑ってしまった。
 笑顔の勢いのまま隣を見ると、海翔がじっとこっちを見ていた。
 目が合ったはずみで、とっさに笑顔を作った。表情筋が引きつる。

 海翔の目がわずかに見開かれ、背筋にピリリと電流が走る。
 慌てて前を向きながら、夢みたいなことを考えてしまった。

 もしかして、思い出した──?

 そんな淡い期待が、頭の中を駆け巡った。
 確かめるよう、隣をそっと見ると、海翔は頬杖をついて窓の向こう側を見ていた。

 だよね……。思い出すわけ、ないか……。

 ありえない思考は泡となって消え、未練がましく海翔を盗み見る。
 外を眺める目には、どんな景色が映っているんだろうか──。

 差し込む光の中で、横顔が淡く浮かび上がる。
 風に揺れる前髪からのぞく瞳は、光を吸い込んだような蜂蜜色をしていた。
 大人っぽくて、美しい横顔を、いつまでも見ていたい……。
 心臓の音がうるさくて、凛は視線を机に逃した。

 何でもない空気が、二人の間を隔てている。
 ただの同級生なんだから、これが普通だ。
 それでも、同じ空間にいることが、凛の心を躍らせた。

 こんな気持ち、バレたら引かれる……。

 思いに蓋をして前を向くと、肩越しに振り返る丸岡と目が合った。
 やわらかな笑顔が届くと、心がふっと軽くなる。
 応えるように凛も微笑み返すと、ピースサインをくれた。
 転校生の凛にとって、親しみを感じる丸岡の存在はありがたい。

 教科書をめくりながら、近くて遠い存在を左側半分で実感する。
 隣から聞こえる囁きや笑い声が、優先的に凛の耳に注がれた。

 誘惑に負けて左側を見たら、しっかりと捉えてくる眼差しと重なってしまった。
 それは通り過ぎるだけではなく、凛に、何かを問うような目だった。
 
 ヤバい。見すぎてたかも……。

 慌てて教科書で顔を隠したけれど、まだこちらを見ている気配がする。
 話しかけてくるわけでもない海翔に、凛からは声をかけることができない。

 どうしよう……変なやつって思われたかも……。

 血の気が引いた気がした。頭の中では、『嫌われたくない』と、強く刻み込む。

 だめだ。もう、見ないようにしないと……。

 海翔から見れば、自分は新学期と共にやって来た転校生。
 それに、あの夏は『カイト』にとって特別なものじゃない。

 よし、気持ちを切り替えよう。

 今日から同じ教室で、一年を過ごせる。
 神様がくれたこの巡り合わせを大切にしよう。
 心に気合いを入れてみたけれど、想いはまだ胸にあふれている。
 そこに、悲しみがひと雫落ちて、さざ波が広がった。

 海翔の過去には存在しない、陽炎のような夏模様。
 切ない想いが波のように押し寄せては、引いていくのを感じた。

 ふと、窓越しに青空を見上げてみた。
 潮風が時の隙間に流れ込み、懐かしい匂いを運んでくる。

 忘れられていてもいい。こうして、また会えたんだ。
 それだけで十分。

 だって、この奇跡は夢の続きなんかじゃない。
 短い夏に置き去りになった、あの永遠は、自分の胸にちゃんとあるのだから。
 そう強く言い聞かせ、凛は授業に集中した。
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