ひたむきに恋して

久遠ユウ(くおんゆう)

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 名残惜しい気持ちで廊下を歩きながら、凛は朝の衝撃を思い返していた。
 教室で海翔を見つけたとき、言葉では言い表せない感情に全身が震えた。
 一瞬で、あの幼い夏が目の前に広がり、潮の香りが鼻腔を掠めた気分だった。

「まだ、信じられないな……」

 一日中、上の空で、話しかけてくれた丸岡に悪いことをした。
 今日だけじゃない。あの夏みたいに、一週間だけでもない。
 明日になれば、また教室に行けば、海翔に会える。
 隣に、彼がいる。
 そう思うと、凛の足は自然と弾んだ。

 下駄箱から靴を取り出し、校門を抜ける。
 出しかけたイヤホンを、そっとポケットに戻した。
 音楽を聞いてしまえば、鼓膜に閉じ込めた海翔の声が消えてしまう。
 通りに出たところで、ふと足を止め、校舎を振り返った。

「カイト……」

 名前を呟く。小さな自分が言っていたように。
 懐かしくて、ちょっとこそばゆい。

 でも、もう『カイト』って呼ばない……。

「これで最後。これからは、一ノ瀬くんって呼ばないと」
 決意表明のように呟くと、踏み出した足を、家とは逆の方向へ向けた。
 スキップするように、春風を切って歩き出す。

 降り注ぐ日差しは柔らかいのに、海からの風はまだ少し冷たい。
 ジャケットのボタンを留めながら、懐かしい海へと向かう。
 学校から歩いて十五分ほどにある砂浜に着くと、七年ぶりにそこへ降り立った。

「こんな景色だったかな……」

 波の音が静かに響き、思い出の中の笑い声を連れてくる。
 まだ子どもだったから、下の名前しか教え合わなかった、あの夏。
 そんな疾風のような思い出を、覚えていて欲しい──なんて思ってない。

「いいんだ、俺だけの記憶でも」

 拗ねたような声は、波にさらわれていった。
 そんな自分に苦笑しながら、砂の上を歩いていると、流木を見つけてそこへ鞄を置いた。

 波打ち際から離れると、岸側に向かって注意深く歩いて行く。
 小石の小山を見つけると、凛はそばにしゃがんだ。
 そこには、ときどき宝物が眠っている。

「晴れてるから、今日は見つけやすいかも」

 小石を取り除いていくと、海藻の影でキラキラと光るガラスのかけらが目に入った。
「あ、あった」
 拾い上げたのは、淡い青のシーグラス。
 長い年月をかけて波にもまれ、まるく、やわらかくなった海の宝石。

 凛は波打ち際まで行くと、シーグラスを海水に浸した。
 指先でつまんで日にかざすと、濡れたガラスは本物の宝石のように輝く。

「薄い緑色が欲しいって、あの子……言ってたっけ」
 凛はポケットから巾着袋を取り出し、小さな宝物をそっと入れた。

 腰をグンっと伸ばして伸びをしたあと、水平線を眺めながら波の音に耳をかたむける。
 そこに思い描くのは、カイトと一緒に過ごした日々。

 ──また来年も来るからね。
 そう言った自分の言葉は、嘘じゃなかった。

 ──絶対こいよ。俺、ずっと待ってるからな。

 たったひとつの約束を、カイトは笑顔でくれた。
 凛はそれを、お守りみたいに胸に抱いて、来年の夏を待ち遠しく思っていた。
 けれどそれは、現実に叶うことはなかった。
 カイトに会えないまま、月日だけがどんどん過ぎてしまった。

 凛は波打ち際を、また歩き出す。
 目を凝らすと、小さなかけらが陽の光を受けて、きらりと光った。
 しゃがみ込んで拾っていると、堤防から賑やかな声が聞こえてきた。
 屈んだまま、凛は声のする方を見上げてみる。

 同じ制服、同じ色のネクタイの男子が数人、笑いながら堤防を歩いていた。
 その中には、凛の心を捕らえて離さない、あの笑顔もあった。

 思わず立ち上がった凛は、ジャケットをはためかせながら、その姿を見つめていた。
 少し茶色みを帯びた髪は、後ろでひとつに束ねられ、毛先が短く跳ねている。
 両手をポケットに突っ込み、緩めたネクタイが風に揺れる姿は、ただそこにいるだけで絵になる美しさだった。

 ふと、彼の足が止まり、海岸へと視線を向ける気配。
 寄せては返す波をじっと見つめる横顔に、凛は思わず目を細めた。

「おーい、海翔! 早く来いよー!」
 友人の声に、海翔の瞳が海から離れる。
「今、行く」の声が聞こえ、小走りで堤防を去って行った。
 遠ざかっていく後ろ姿を目で追いながら、凛の足は自然と砂浜を蹴っていた。
 海翔が立っていた堤防まで駆け寄っても、自分の背丈より高いそれに手は届かない。

「バカだな、俺……。追いかけて、何て声かけるつもりだったんだよ」
 堤防にもたれながら、空を仰いで苦笑した。

 遠い夏空。
 朝から暗くなるまで遊んで、ふざけながら歩いた家路。
 昨日と同じ今日が過ぎても、また同じ、『明日』があると信じていた。

「しょうがないよな。……だって、子どもだったんだから」

 二人の間には次の夏があると、純粋に思っていた。
 再び出逢えた喜びは、めぐる月日が薄く、静かに上書きしてしまった。
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