ひたむきに恋して

久遠ユウ(くおんゆう)

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「……へえ、うまいじゃん」
 聞き覚えのある声に、凛は勢いよく振り返った。

 夕陽を背負った人影──そこにいたのは、〝今〟の海翔だった。
 青とオレンジが混じり合った世界に溶け込むよう、海翔が立っている。

「──カ……、一ノ瀬くん。ど、どうしたの」
 つい、『カイト』と呼びそうになって、慌てて言い直した。

「……別に。ただ、佐伯がまだ帰らず、海にいるような気がしたからさ」
 何でもないその一言に、身体中が喜んでいる。
 まるで、石炭をくべたばかりの蒸気機関車みたいに、鼓動が一気に加速した。

 潮風で乱れた髪をかき上げ、夕日が沈む海の果てを見つめる海翔が眩しい。

 何か話さないと……。

 せっかく海に二人でいるのに、つまらない奴だって、帰ってしまうかもしれない。
 こんな貴重なシチュエーション、もうないかもしれない。

「ど、どうして海にいるって、思ったの?」
 絞り出した言葉を投げかけた。
 すぐに返事が返ってくると思ったのに、海翔の瞳は夕日を見つめているだけ。

 ……どうしよう、もう一回、同じことを聞く? いや、待っていた方がいいよな。

 数秒がとてつもなく長く感じる。
 喉が乾いて唾を飲み込んでも、ひりつくだけだった。
「何となく……だ。それに、佐伯ってなんか、海にいるイメージだしな」
 そう言って、海翔が隣に座ってきた。
 布越しに肩が触れ、蓄積された想いがそこから伝わりそうだ。
 
「そ、それを言うなら、一ノ瀬くんの方が、海っぽいよ」
「海っぽい? 何だ、それ。海坊主かなんかみたいに聞こえるな」
「う、海坊主って。そんな風に思ってないよ」

 俺のバカ。
 他にもっと気の利いた言葉を言えないのか。

 自分のボキャブラリーのなさに肩を落としていると、冗談だってと、軽い笑い声が肩越しに伝わる。
 小さな振動から海翔を感じると、体の芯がじわっと汗をかいた。

 さっきの発言で怒ってないかが気になり、そっと横を一瞥する。
 海翔は髪を束ねていたゴムを外し、全身に風を取り込んでいた。
 海から助けてくれたあの頃よりずっと大人で、隙のない美しい横顔に凛は言葉を失った。

 すると、何かを思い出したように、海翔が急にククッと笑い出した。
 薄く唇を開き、言葉を紡ごうとしている。
 その姿さえ秀麗で、見惚れてしまう。
 
「そう言えば俺、ガキんときに、海で溺れてる男の子を助けたことあったな」
 唐突に流れてきた言葉に耳を疑った。

 海で……助けた──。

 何も考えず、凛は勢いよく海翔を見た。
 案の定、凛の反応に驚く目がそこに生まれる。
「な、何だよ。佐伯も、もしかして思った? 子どもが子どもを助けるんじゃないって」

 そんなこと思ってない──いや、普通ならダメって思うかもだけど。

 でも俺にとっては……あのときのカイトは、ヒーローだった。だから、ダメだとは言えないし、思ってもない。

 それをどう伝えようか逡巡していると、眉を八の字にさせながら海翔が微笑んでくる。

「まあ、言いたいことはわかるよ。そのとき、そばで見てた大人にめちゃくちゃ怒られたもんな。けどさ、ちゃんとライフセーバーの人に教わったことをしたんだぞ」
 ごくんと、喉を鳴らし、「教わったことって?」と、何とか聞き返す。
 緊張し過ぎて、手汗がヤバいことになっていた。

「手近にあるもんで、浮き輪にするってことだよ。あんとき、俺はリュックに大量のお菓子を入れて持ってたんだ。ダチと海で食べようと思ってさ」
「……え、えっと、お菓子と浮き輪ってどんな関係があるの?」
 鼓動を激しくさせながらも、クイズの答えを聞くような気持ちで海翔の言葉を待った。

「知りたいか?」
 人類全てを魅了する笑顔を向けてくる。
 その顔は、反則だ。
 凛は動揺を隠しながら、「知りたいっ」と、海翔の顔を見つめた。

「しょうがないな。じゃ、特別に伝授してやる。お菓子と言っても、チョコやクッキーじゃダメだ。スナック菓子ってのがポイントな。あんときのリュックにはポテチやポップコーンとかの袋がしを詰め込んで──」

「わかったっ。空気だっ! ポテチとかって空気がほとんどで、中身が少ないって、いっつも思うんだ。でもそっか、それが浮き輪の代わりになるんだ……。すごいね、一ノ瀬君。咄嗟にそんなこと思いつくなんて」

 心から思ったことを、口にしていた。
 溺れていたのが凛だと認識していなくても、助けてくれたことだけは覚えてくれていた。
 それがたまらなく嬉しい。
 胸の中がほわっと温かくなって、それが凛の表情筋を緩めさせた。
 自分でもわかるほど破顔している。
 それを止めることもせず、凛は心の底から海翔に微笑んでいた。
 でも、それは数秒間だけ。
 凛はすぐに、「ご、ごめん」と、慌てて口を手で覆った。
 海翔が黙ったまま、凛をジッと見ていたからだ。
 何も話さず、探るように。

 どうしよう、俺ってば、遠慮なしにペラペラと……。

 海翔の気持ちを伺うよう、上目遣いで見ると、首を傾げながら顔を近づけられた。

「……佐伯って、この町に来るのは初めて……だよな?」
 海翔の目が、何かを暴くように細められた。
 いきなりの質問に、凛は戸惑った。
 尋常じゃないほど、心臓がバクバクしている。

 どうしよう、なんて答えよう……。

 一ノ瀬くんが助けたその子どもは、俺だよ──なんて、軽く言えたら……。

 唇をキュッと噛んで考えても、頭の中で語順が散らばって回収できない。

「な、なんで、そんなこと……」
 必死でくっつけたひらがなを口にすると、海翔の視線はまた海に戻っていった。

「いや、前にも言ったけど、やっぱ、佐伯のこと、見たことあるなーって」
「……だ、だから、こんな顔、そこら中にいっぱい、いるよ。たぶん……」

 あー、もう何を言ってるか自分でもわからない。
 せっかく、前はうまく誤魔化せたのに。

 気付いて欲しい、思い出して欲しい。でもそれだと、この気持ちを隠しておけなくなる。
 それに、約束のしるしを渡した張本人が、それを破ったなんて思われたくない。
 そんな矛盾な感情が、凛の心の中で行ったり来たりする。 

 なにより、男から好かれてる──なんて、迷惑かけるだけじゃ済まないかもしれない。

 これ以上、海翔に近づかない方がいい……。

 足元の砂を逃げ道に見ていると、頭に少しの重みを感じた。
 髪を撫でられている感触。
 凛は恐る恐る顔を上げた。
 いたずらっ子のような顔で凛を見る、海翔と目が合う。

「いっぱいいるって、そんなことないだろ。何たって、キュートレディのジャスミンなんだし」
 注がれた言葉に、はたと思考が止まる。
 深月の『ジャスミン』発言を思い出したのか、海翔が笑いを必死でこらえてる。

 恥ずかしくて、顔も体も熱い。
 もし、ここにベッドがあったら絶対布団をかぶって隠れる。
 恥ずかしい気持ちと、嬉しさがないまぜになり、気持ちが右往左往していると、鼻頭をキュッと撮まれた。

「な、なにする──」
「佐伯って、おもしろいな」
 そう言って、海翔の手がまた凛の髪に触れてくる。
 ほんのり温かくて、柔らかいベールが心の奥まで包んでくれている気がした。

「お、おもしろいって、心外だ……よ」
 照れ隠しに行った言葉も、海翔のお好みだったのか。また笑われた。
 今度はそっと、凛の心臓をノックするみたいに。
「……な、今度、シーグラス探すとき、俺も誘ってくれよ」
 思いもよらない提案に、断る理由はなかった。
 凛は「うんっ」と、思いっきり頷いた。

 きっと、深月ちゃんのため。
 それでもいい、全然いい。
 海翔と交わす約束。ただ、それだけが嬉しかった。
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