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雨女
賭けごと
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――おかしな人間、ですか。へぇ。
山姫さんがそういうのは、最高の褒め言葉じゃないですか。
あはははは。そんなに怒らないでくださいよ。
それで、その彼はなんて言ったんですか?
ほう。確かにそれは面白い。
懐かしいですねぇ。そういう話。
ほら、あのときの彼も同じこと言ってたじゃないですか。
馬鹿げているって?
また心にもないことを。
少し素直になった方がいいですよ。
いてててて、やめてくださいって、このスーツ高いんですから。
あはは、貴女は相変わらずですねぇ。
ではひとつ、賭けでもしましょうか。
彼が雨の神の存在を守れるか否か、ですよ。
せっかくですから僕は、彼が成功する方に賭けましょう。
え?
いやだなぁ、山姫さん。
それじゃあ賭けにならないじゃありませんか――
薄いカーテンの向こうから、明るい日差しが照りつけている。
南東向きの部屋には、晴れた日は朝から明るい日差しが入る。
手元のスマホで確認すると、まだ朝の6時前。わずかな金額をケチって遮光カーテンを買わなかったことを、悠弥は少しだけ悔やんだ。
起き抜けの重い体をやっとの事で動かして、窓を開けて外の空気を取り入れる。
こんなに明るい朝は何日ぶりだろう。
ここのところ、ずっと雨模様だった。
(いい天気だな……今日は晴れ女でも出たのかな)
冗談めいたことを思ってから気がついた。
「晴れ……!?」
思わずひとり声を上げ、ヨレたスウェットのままで玄関を飛び出した。
濡れた土の匂いがする。雨は上がったばかりのようだった。
悠弥は急ぎ隣の部屋のチャイムを鳴らした。
「時雨さん! いますか?! 東雲です!」
部屋の中からは物音ひとつしない。
もう一度チャイムを鳴らす。
「時雨さんっ!」
ドアをノックしても、返事はない。
まさか。
(うそだろ……間に合わなかった……?)
いま考えられる、雨がやむ理由は2つ。
時雨がどこか違う町へ移動すること。もうひとつは、時雨の存在そのものが消えてしまうこと。昨夜の様子から考えると、この町を勝手に出て行くとは思えない。
ということは……。
ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。
そっと扉を開く。
「時雨さん……?」
部屋の中に気配はない。
引っ越しの日に運び入れた家具が、使われた形跡もなく置かれている。
何もなくても大丈夫だという時雨に無理やり持たせた家具と家電。
電子レンジや炊飯器の使い方を「おいおい教えます」と言ったら「神が自炊するなんて面白いですね」とみんなで笑った。
「やっぱり、かわいいものが良いでしょう」と遥が選んだ猫の柄のカーテンは開かれたままだ。
「なんで……なんでだよ……」
玄関先にへたり込む。
新しい御神体を手に入れれば、雨の神をここに祀ることができると思っていた。今日から早速その手配をするはずだったのに。
あと一日でも早く動いてさえいれば間に合ったのだろうか。
考えが甘かったのか。今まで悠長に眠っていたなんて。
手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめて、それを自分の膝に打ちつけた。
あれほど待ち望んだ晴れ渡る空が、憎らしくさえ思えた。
「時雨さん……っ」
涙がこぼれ落ち、玄関のコンクリートに濃い灰色の染みを作った。
「泣いていらっしゃるのですか?」
唐突に。
声は後ろからかかった。
聞き覚えのある声。
「どこか痛いのですか?」
この部屋の住人の声。
でも、どうして。
ああ、もうひとつあった。
雨がやむ理由。
「いいえ……大丈夫ですよ」
涙声にならないように、細心の注意を払い、ゆっくりと声を出す。
「こんな時間に、どこに行ってたんですか」
スウェットの袖口で乱暴に顔を拭い、声の主の方を振り向いた。
「心配するじゃないですか」
抜けるような青い空を背景に、深緑色の傘をさしたまま佇む女性が、こちらを覗き込んでいる。
「ごめんなさい」
悠弥の涙が自分のせいだと気付いたのか、眉尻を下げてしょんぼりと俯く。
「ずっと町を歩いておりました。この町を、もっと見ておきたくて」
雨の神の力が戻れば、雨は止む。
けれど、なぜ力が戻ったのだろう。
御神体はまだ新調できていないのに。
「女性がひとりで夜中に町歩きなんて、あまり感心しませんけどね」
思わず溢れる笑みと、体の芯から湧き上がるように流れる涙とで、もう顔はぐしゃぐしゃだった。
「ごめんなさい……」
「いいんです。無事でよかった。本当、よかった……」
立ち上がり、もういちど袖で顔を拭った。
悠弥より少し背の低い時雨は、今度は悠弥を少し見上げる格好になった。
「ねえ、悠弥さん。この傘を私にくださいませんか」
時雨に貸した傘。目新しいデザインでもなければ、高級品でもない。
「その傘、ですか? でも……けっこう使ったものだし、男性用だから時雨さんには……。それなら、新しいものを用意しますよ」
時雨は首を横に振る。
「この傘がいいんです」
もしかして。
悠弥はひとつの考えに思い当たる。
「時雨さん、それって……」
「だって、この傘は悠弥さんの気持ちが入っているんですもの」
御神体は、どんなものだっていいのではないか。
相手を想い、捧げたものならば、もしかしたら。
雨の神は、こちらをじっと見つめながら、両の手で抱えるようにしてその傘をさしている。
「わかりました。それが良いのなら、差し上げます」
快晴の空に負けないくらいの晴れやかな表情を見せ、時雨は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます、悠弥さん!」
使い古した傘でこんなに喜んでもらうのは恐縮だが、本人は傘の古さなど露ほども気にしていないようだ。
「悠弥さーーんっ」
耳慣れた声と、安っぽい軽自動車の音。車の側面には見慣れたロゴマーク。
全開にした運転席の窓から声を張り上げている。
「遥さん!」
車が苦しそうなエンジン音を響かせて坂を登りきり、朝霧不動産の営業車は二人の目の前で停まった。
悠弥の隣に時雨の姿を見つけ、安堵の表情を浮かべる遥。
「よかったぁ……。起きたら晴れていたから、まさかと思って飛び出して来ちゃいましたよ。よかったです、時雨さんがご無事で」
車から降りた遥は、いつものキッチリとしたスーツ姿とは打って変わって、部屋着然としたラフなワンピース姿だった。
悠弥と同じく、焦って家を出てきたのだろう。
遥は時雨がさす傘を一瞥し、納得したように顔をほころばせた。
「まさか御神体が雨傘で良いとは、思いもよりませんでしたね……」
「やっぱり、そういうことですよね。まあ……気に入ってくれたみたいですし」
青空の下を雨の神が雨傘をさして舞う。
湿った朝の町に眩しい光が降り注ぐ。
もうこの町は雨に悩まされることはないだろう。
日照りが続けば雨が降り、長雨には晴れ間を呼ぶ。
そんな小さな守り神が、この町に。このアパートに来てくれたのだから。
山姫さんがそういうのは、最高の褒め言葉じゃないですか。
あはははは。そんなに怒らないでくださいよ。
それで、その彼はなんて言ったんですか?
ほう。確かにそれは面白い。
懐かしいですねぇ。そういう話。
ほら、あのときの彼も同じこと言ってたじゃないですか。
馬鹿げているって?
また心にもないことを。
少し素直になった方がいいですよ。
いてててて、やめてくださいって、このスーツ高いんですから。
あはは、貴女は相変わらずですねぇ。
ではひとつ、賭けでもしましょうか。
彼が雨の神の存在を守れるか否か、ですよ。
せっかくですから僕は、彼が成功する方に賭けましょう。
え?
いやだなぁ、山姫さん。
それじゃあ賭けにならないじゃありませんか――
薄いカーテンの向こうから、明るい日差しが照りつけている。
南東向きの部屋には、晴れた日は朝から明るい日差しが入る。
手元のスマホで確認すると、まだ朝の6時前。わずかな金額をケチって遮光カーテンを買わなかったことを、悠弥は少しだけ悔やんだ。
起き抜けの重い体をやっとの事で動かして、窓を開けて外の空気を取り入れる。
こんなに明るい朝は何日ぶりだろう。
ここのところ、ずっと雨模様だった。
(いい天気だな……今日は晴れ女でも出たのかな)
冗談めいたことを思ってから気がついた。
「晴れ……!?」
思わずひとり声を上げ、ヨレたスウェットのままで玄関を飛び出した。
濡れた土の匂いがする。雨は上がったばかりのようだった。
悠弥は急ぎ隣の部屋のチャイムを鳴らした。
「時雨さん! いますか?! 東雲です!」
部屋の中からは物音ひとつしない。
もう一度チャイムを鳴らす。
「時雨さんっ!」
ドアをノックしても、返事はない。
まさか。
(うそだろ……間に合わなかった……?)
いま考えられる、雨がやむ理由は2つ。
時雨がどこか違う町へ移動すること。もうひとつは、時雨の存在そのものが消えてしまうこと。昨夜の様子から考えると、この町を勝手に出て行くとは思えない。
ということは……。
ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。
そっと扉を開く。
「時雨さん……?」
部屋の中に気配はない。
引っ越しの日に運び入れた家具が、使われた形跡もなく置かれている。
何もなくても大丈夫だという時雨に無理やり持たせた家具と家電。
電子レンジや炊飯器の使い方を「おいおい教えます」と言ったら「神が自炊するなんて面白いですね」とみんなで笑った。
「やっぱり、かわいいものが良いでしょう」と遥が選んだ猫の柄のカーテンは開かれたままだ。
「なんで……なんでだよ……」
玄関先にへたり込む。
新しい御神体を手に入れれば、雨の神をここに祀ることができると思っていた。今日から早速その手配をするはずだったのに。
あと一日でも早く動いてさえいれば間に合ったのだろうか。
考えが甘かったのか。今まで悠長に眠っていたなんて。
手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめて、それを自分の膝に打ちつけた。
あれほど待ち望んだ晴れ渡る空が、憎らしくさえ思えた。
「時雨さん……っ」
涙がこぼれ落ち、玄関のコンクリートに濃い灰色の染みを作った。
「泣いていらっしゃるのですか?」
唐突に。
声は後ろからかかった。
聞き覚えのある声。
「どこか痛いのですか?」
この部屋の住人の声。
でも、どうして。
ああ、もうひとつあった。
雨がやむ理由。
「いいえ……大丈夫ですよ」
涙声にならないように、細心の注意を払い、ゆっくりと声を出す。
「こんな時間に、どこに行ってたんですか」
スウェットの袖口で乱暴に顔を拭い、声の主の方を振り向いた。
「心配するじゃないですか」
抜けるような青い空を背景に、深緑色の傘をさしたまま佇む女性が、こちらを覗き込んでいる。
「ごめんなさい」
悠弥の涙が自分のせいだと気付いたのか、眉尻を下げてしょんぼりと俯く。
「ずっと町を歩いておりました。この町を、もっと見ておきたくて」
雨の神の力が戻れば、雨は止む。
けれど、なぜ力が戻ったのだろう。
御神体はまだ新調できていないのに。
「女性がひとりで夜中に町歩きなんて、あまり感心しませんけどね」
思わず溢れる笑みと、体の芯から湧き上がるように流れる涙とで、もう顔はぐしゃぐしゃだった。
「ごめんなさい……」
「いいんです。無事でよかった。本当、よかった……」
立ち上がり、もういちど袖で顔を拭った。
悠弥より少し背の低い時雨は、今度は悠弥を少し見上げる格好になった。
「ねえ、悠弥さん。この傘を私にくださいませんか」
時雨に貸した傘。目新しいデザインでもなければ、高級品でもない。
「その傘、ですか? でも……けっこう使ったものだし、男性用だから時雨さんには……。それなら、新しいものを用意しますよ」
時雨は首を横に振る。
「この傘がいいんです」
もしかして。
悠弥はひとつの考えに思い当たる。
「時雨さん、それって……」
「だって、この傘は悠弥さんの気持ちが入っているんですもの」
御神体は、どんなものだっていいのではないか。
相手を想い、捧げたものならば、もしかしたら。
雨の神は、こちらをじっと見つめながら、両の手で抱えるようにしてその傘をさしている。
「わかりました。それが良いのなら、差し上げます」
快晴の空に負けないくらいの晴れやかな表情を見せ、時雨は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます、悠弥さん!」
使い古した傘でこんなに喜んでもらうのは恐縮だが、本人は傘の古さなど露ほども気にしていないようだ。
「悠弥さーーんっ」
耳慣れた声と、安っぽい軽自動車の音。車の側面には見慣れたロゴマーク。
全開にした運転席の窓から声を張り上げている。
「遥さん!」
車が苦しそうなエンジン音を響かせて坂を登りきり、朝霧不動産の営業車は二人の目の前で停まった。
悠弥の隣に時雨の姿を見つけ、安堵の表情を浮かべる遥。
「よかったぁ……。起きたら晴れていたから、まさかと思って飛び出して来ちゃいましたよ。よかったです、時雨さんがご無事で」
車から降りた遥は、いつものキッチリとしたスーツ姿とは打って変わって、部屋着然としたラフなワンピース姿だった。
悠弥と同じく、焦って家を出てきたのだろう。
遥は時雨がさす傘を一瞥し、納得したように顔をほころばせた。
「まさか御神体が雨傘で良いとは、思いもよりませんでしたね……」
「やっぱり、そういうことですよね。まあ……気に入ってくれたみたいですし」
青空の下を雨の神が雨傘をさして舞う。
湿った朝の町に眩しい光が降り注ぐ。
もうこの町は雨に悩まされることはないだろう。
日照りが続けば雨が降り、長雨には晴れ間を呼ぶ。
そんな小さな守り神が、この町に。このアパートに来てくれたのだから。
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