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七海澄香

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幽霊

不安な靄

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 悠弥には、玲子が生前の記憶を思い出したようだということ、そして、話したいことがあるから今夜会えないかと伝えた。

 実際のところ太助も気がかりなことがあり、悠弥と話がしたいと思ってはいた。昨夜から、ときどき玲子の姿が見えにくい。玲子の周りに黒いもやがかかっているときがあるのだ。玲子が生前のことを思い出すことと関係があるのかもしれない。

 嫌な予感がして仕方がなかった。何かよくない方へ向かっているような、予感としか言いようがないのだが。
 今も少し、玲子の周りに靄がかかっている。

「玲子さん、大丈夫ですか?」

 遥と一旦別れ、太助は仕事に戻った。助手席の玲子はぼうっとどこか遠くを見つめていた。
 記憶というのは面白いもので、ひとつの切っ掛けから次々と関連したことを思い出す。それは良いことも悪いことも関わりなく、ただただ当時を再現するかのように、無情なほどに。

 ぽつりと小さく、玲子が呟いた。
「思い出したの。誰と夜桜を見たのか」

 それが誰か、太助にも予想はできていた。
「彼の仕事が終わるのを待って、お決まりのホテルへ行く通り道だったのよ」

 今は秋の色に染まった葉を静かに落とす、桜の並木。
 公園の敷地を離れ、街中へ車を走らせる。人気がなく閑散とした昼間の繁華街を通り抜けていく。
 その景色からも、玲子は記憶を辿っているようだった。

「私が働いてたお店も、このへんだったと思う」

 太助は何も言えず、それを咎められることもなく、玲子の言葉をただただ受け止めることに徹した。玲子も、まるで独り言かのように話し続けた。

「彼、待ち合わせにはいつも私より早く来てた。待たせてしまったという罪悪感を持たせたかったのね」

 次の目的地へはまだ距離がある。一本道で信号も少なく、助手席の玲子の表情をうかがうことは出来ずにいた。

「会うのはいつも平日の夜。昼間に出かけたことなんて、数えるくらいしかなかった。もちろん、彼の家に行ったこともないし。だから……なんとなく気づいてた。私が彼の一番じゃないってこと」

 太助の視界の端に、黒い靄が見え隠れする。

 魂は本来、とても綺麗なものだ。命が宿ったものは、それぞれ光り輝いている。もちろん普段から光って見えるわけではないが、太助のような、あやかしたちにはわかるのだ。向こう側の世界を見ようとすれば、その魂の色や温度を感じる。それは各々ちがっていて、色とりどりでおもしろい。

 けれど、そうでない魂がある。恨みつらみ、嫉妬や憎悪。そういったものに囚われた魂は、黒くどろどろとした様相に変わっていく。そして、現世から隔絶された暗い場所に溜まり、出られなくなってしまう。

「やっと私を見てくれる、愛してくれる人が見つかったと思ったのに」

 生前を思い出すことによって、玲子の感情がそちら側へ向かっているのではないか。太助はそれが心配でならなかった。
 やっと信号で停車する。靄を纏った玲子は、横断歩道を渡る母娘を目で追っていた。

「お母さんに手を引いてもらったことなんて、なかったな……」

 玲子の声が胸に刺さるようで居た堪れなく、太助は思わず手を伸ばした。その左手は、玲子の右手に重なることなく空をつかんだ。

 それに気づいた玲子が、太助の方に向き直る。
 靄が薄れ、自嘲的な笑みを浮かべた玲子が見えた。

「誰か一人くらい、私のこと愛してくれても良かったのにね」

 手をつないだ母娘が横断歩道を渡り終えたところで、ちょうど信号が青に変わる。太助は再び視線を正面の道路へ戻した。

「今からだって、いいじゃないですか。諦めないでください」
「今から? だって私もう死んでるのに」
「魂に終わりはありませんから」

「どういうこと?」
「……輪廻って聞いたことありますか?」
 玲子はあぁ、と返事した。
「生まれ変わるってこと?」

 人間たちは死後の世界を様々に想像して、絵や物語に残している。玲子も、そんな話のどれかを知っているのだろう。

「そうです。玲子さんとしての命が終わっても、魂は続いていく。だから、もう遅いなんて思わなくていい」

 玲子はうーん、と小さく唸った。

「佐々木玲子としては、もう望み薄って感じね。生まれ変わってからに期待するしかないのかな」

 生まれ変わるためには、成仏しなければいけない。ましてや、黒い影に呑み込まれては、輪廻には戻れない。太助は玲子にどう話したものかと頭を悩ませた。

「そんな難しい顔しないで。わかってる、まずは未練をどうにかして、この世を離れなくちゃね」
 玲子の声音が少し明るくなったように思えた。

「だけど不思議ね。あんなに好きだったはずなのに、思い出せないの。彼の名前も、声も、顔すらも……。なんでかな」

「忘れていていいこともありますよ。わざわざ過去の痛みを思い出す必要なんて、ないじゃないですか」
「そうかな……」

「その人のことを思い出さなくても、玲子さんの魂が幸せになれるなら、それでいいんですよ」

「私の魂が……幸せに……かぁ」
 玲子はそう言ったきり、黙りこくっていた。

 太助はその後も淡々と業務をこなし、仕事を終えて自宅マンションに着いた頃にはすっかり日も暮れていた。外灯が照らす駐車場を肌寒い風が通り抜けた。

「寒くないですか? その格好……」
 玲子の服は薄い素材のワンピース。とてもこの季節に着るような服ではなかった。

「大丈夫だよ。暑いとか寒いとか、感じないし」

 ああ、そうだった。
 こうもはっきりと姿が見えていると、相手が幽霊であることを忘れてしまう。

「ごめんなさい、つい……」
「やだなぁ、いちいち謝らないで。てゆーか、太助くんが寒いんでしょ。早く部屋入ろ」

 にっこりと笑う玲子を見ると、太助は胸の奥が温かくなるようだった。

 エレベーターでスマホを確認すると、悠弥からメッセージの返信が届いていた。その内容を、画面を覗き込んできた玲子と一緒に読んで、顔を見合わせて笑った。

「なぁんだ、私たちが気を揉む必要もなかったかもね」

 悠弥からのメッセージには、こう書かれていた。

『了解です。そういうことなら、遥さんにも来てもらえるか聞いておきます』

「東雲さんも、連絡をとる口実を探していたのかもしれませんね」
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