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幽霊
決心
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駅の北口側は、店やオフィスの多い南口とは打って変わって、人通りが少なく、静かな雰囲気のエリアだ。
通勤通学の往来が一段落した午後7時。エスカレーターを降りた先にある広場のベンチで、太助が待っていた。
太助の隣には、おそらく玲子もいるのだろう。
先だって、太助からはメッセージの返信が届いていた。玲子の前では話しづらいから、と前置いて。
過去を思い出すにつれ、玲子が亡者のような気配を纏いはじめている、と書かれていた。過去の記憶が、悪い感情を生み出してしまっているのかもしれない、とも。
太助は悠弥に、玲子が思い出した事柄を話して聞かせた。
恋人がいたこと、その恋人に裏切られていたこと。けれど、その人の顔や名前はまだ思い出せないこと。
「実は……ぜんぶ朝霧さんと話していた時に思い出したことなんです。朝霧さんが落ち込んでいたから、玲子さんが励まそうとして自分の話をしはじめたんです」
「遥さんと?」
「仕事中に偶然会いまして……。すみません、余計なことかとは思ったんですが、どうしてもお二人にちゃんと話をしてほしくて、お呼びしたというわけです」
「ああ、そういうことだったんですね」
太助からのメッセージを受け、遥には連絡済みだった。遥がいなければ、悠弥は玲子の声を聞くこともできないし、それを口実にもう一度会って話がしたいとも思ったのだ。悠弥にとって、かえってありがたい呼び出しだった。
「もちろん、僕の方も相談はあるんですけど、その前に朝霧さんと話してもらえませんか」
このセッティングは玲子の計画だろう。太助もお人よしではあるが、こんなふうに世話を焼くようなことまではしないはずだ。
「すみません、気を遣わせてしまったみたいで……。いろいろと行き違いがあって、喧嘩したような形になってしまったんですよね……」
「そんなことだろうとは思いました。玲子さんが、互いに誤解したままでいるのは良くないって、だいぶ押しが強くて」
太助は苦笑いをしてみせた。
遥からは短く「わかりました」とだけ返信が来ていた。
今朝の遥がなぜ急にあんな態度を取ったのか、悠弥は自室に帰ってから気づいた。
昨夜、思い立って部屋の片付けをしていた途中で、美琴から呼び出された。デスクの上には、処分しようと思っていた雑貨やアクセサリー類を出しっ放しのままだった。
(まさか遥さんを家に泊めることになるとは思ってなかったしな……)
隠さなければいけないような、やましいことではなかった。とはいえ、配慮が足りなかったと言われれば、そうだとも思う。
(ちゃんと……話せるかな、俺……)
休日だった今日、デスクの上も、収納もすべて整理してきた。不用品とともに過去の思い出も片付け、心も決めてきたはずだったが、いざとなると胸がつかえるような緊張感に襲われる。
「すみません、お待たせしました」
背後から、駆け寄ってくる靴音と、遥の声が近づいてきた。
意を決して振り返る。
上品な雰囲気のブラウスに、プリーツのロングスカートがふわりと揺れる。足元は歩きやすそうなローヒールのブーツ。
ウェーブのかかった栗色の髪は、緩くひとつに結ばれていた。
遥の私服を見たのは何度目だったか。仕事では毎日会うのに、こうして勤務時間外に会うことは滅多になかった。
「じゃあ、ひとまず僕らはこの辺りで待ってますので」
「ちゃんと本音で話すのよ、二人とも!」
遥がそばに居るからなのか、玲子の声がかすかに聞こえた。
「少し歩きましょうか、遥さん」
駅前の広場を通り抜け、少し歩くと、古い城跡の石垣が見えてくる。
戦国時代に築城された城の跡で、今は公園として整備されている。
この時間になると、人影もまばらだ。
坂を登り、眼下に町を見下ろせる高台へ出る。桜の木の下のベンチに並んで腰掛けた。
少しの沈黙のあと、悠弥が話を切り出した。
「あの、今朝のこと……見ちゃったんですよね、指輪」
「ごめんなさい……つい、気になって」
「あ、いや、全然……責めるつもりじゃなくて」
互いに目を合わせるのはまだ気まずく、正面を向いたまま。
「先に言っちゃいます。あれ、確かに婚約指輪でした。1年以上前のことです。まだ都内で働いていた頃、恋人がいました」
遥は黙って、続きを待っていた。まだその表情を見ることはできない。
「大学の先輩の紹介で出会った、3つ年上の女性でした。学生の頃から付き合いはじめて3年経って、彼女は結婚を考える年頃で。俺が社会人2年目、彼女が27歳になる誕生日に合わせて、あれを買いました」
この町に引っ越してくる半年ほど前のことだった。自分にはまだ結婚は早いような気がしていたが、彼女のことを考えて思い切った。彼女の好みに合わせ、少し背伸びした指輪だった。
「去年の6月頃のことです。翌月に誕生日を控えて、店を予約したり準備していたある日、突然振られたんですよ」
「え? 振られた?」
遥が思わず声を上げた。
「はい。『結婚するから別れて』って」
困惑した表情の遥に、思わず苦笑いしながら続ける。
「彼女は結婚したがっていたけど、俺と結婚したいわけじゃなかった」
悠弥に別れ話を切り出す数ヶ月前から、彼女は婚活をしていたようだった。それを知ったのは、別れてしばらくしてからだった。
「ことの顛末を知った先輩に謝られましたけど、別に紹介した先輩が悪いわけじゃないし、なんだか俺、悲しいやら情けないやらで」
そのあとは仕事に打ち込んだ。そうするしかなかった。
「忘れようと思って、半年くらい仕事のことだけ考えてました。ブラックだったけど、他に何もなかったし、どうでもよかった」
心身ともに疲れ果てた頃、ふと思い返した。ブラックな職場でも、踏ん張ってやっていこうと思ったのは、そもそも彼女のためだったのだ。彼女と幸せになるため、彼女の希望する生活レベルを維持するには、このくらいの仕事をしていなければならない、と。
「ちょっと体壊して、立ち止まったときに気づきました。もうこんなところで頑張る必要ないんだって。それでこの町に帰ってきて、それから遥さんに出会って……、あとはご存じの通り」
ここでようやく、遥と目が合った。
「もう忘れているつもりでした。あの指輪のことも、彼女のことも。でも玲子さんの『忘れたい記憶』の話をしたときに、俺の中にも、まだあの時のことが残っているって気づいて。だから、もう一度向き合おうって、過去のもの全部引っ張り出していたんです、昨夜」
「それであんなに散らかって……」
遥が納得するように呟いた。悠弥はひとつ頷いてから続ける。
「不安にさせて、すみませんでした」
「いえ、私の方こそ勝手に勘違いして、あんな態度を……ごめんなさい……」
顔を見合わせ、互いに微笑む。
「俺、怖かったんです。また人を好きになったら、傷つくんじゃないかって。それに、俺なんかじゃ幸せにできないかもしれないって、自信もなくなってた」
一瞬、遥は何か言おうとしたようだが、口をつぐんだ。
「でも今日、全部処分してきました。あの指輪も……俺のそういう弱い気持ちも。やっと心が決まりました」
本当は、ずっと前から悠弥も自分の気持ちに気づいていた。
左側に座る遥の方に向き直る。丁寧に彼女の名前を呼び、真っ直ぐにその目を見つめた。
「あなたのことが大好きです。ずっと、俺のそばにいてくれませんか」
悠弥をじっと見つめていた遥の瞳が潤む。今更になって、全身が少し震えてくる。遥の言葉を待つ一瞬が、永遠かのように長く感じた。
「私も……悠弥さんのこと、大好きです……っ。ずっと、一緒にいたいです」
言い終えるが早いか、その目から涙がこぼれ落ちた。
「やだ、私ったら、昨夜から涙腺がゆるゆるで……」
悠弥は頬の涙を指で拭い、遥の額にそっとキスをした。
遥が耳まで赤く染めて、恥ずかしそうに微笑んだ。
込み上げてくる愛しさに、遥を抱き寄せようとした瞬間――。
『玲子さんっ! だめだ、戻って!』
太助の叫び声が聞こえてきた。
通勤通学の往来が一段落した午後7時。エスカレーターを降りた先にある広場のベンチで、太助が待っていた。
太助の隣には、おそらく玲子もいるのだろう。
先だって、太助からはメッセージの返信が届いていた。玲子の前では話しづらいから、と前置いて。
過去を思い出すにつれ、玲子が亡者のような気配を纏いはじめている、と書かれていた。過去の記憶が、悪い感情を生み出してしまっているのかもしれない、とも。
太助は悠弥に、玲子が思い出した事柄を話して聞かせた。
恋人がいたこと、その恋人に裏切られていたこと。けれど、その人の顔や名前はまだ思い出せないこと。
「実は……ぜんぶ朝霧さんと話していた時に思い出したことなんです。朝霧さんが落ち込んでいたから、玲子さんが励まそうとして自分の話をしはじめたんです」
「遥さんと?」
「仕事中に偶然会いまして……。すみません、余計なことかとは思ったんですが、どうしてもお二人にちゃんと話をしてほしくて、お呼びしたというわけです」
「ああ、そういうことだったんですね」
太助からのメッセージを受け、遥には連絡済みだった。遥がいなければ、悠弥は玲子の声を聞くこともできないし、それを口実にもう一度会って話がしたいとも思ったのだ。悠弥にとって、かえってありがたい呼び出しだった。
「もちろん、僕の方も相談はあるんですけど、その前に朝霧さんと話してもらえませんか」
このセッティングは玲子の計画だろう。太助もお人よしではあるが、こんなふうに世話を焼くようなことまではしないはずだ。
「すみません、気を遣わせてしまったみたいで……。いろいろと行き違いがあって、喧嘩したような形になってしまったんですよね……」
「そんなことだろうとは思いました。玲子さんが、互いに誤解したままでいるのは良くないって、だいぶ押しが強くて」
太助は苦笑いをしてみせた。
遥からは短く「わかりました」とだけ返信が来ていた。
今朝の遥がなぜ急にあんな態度を取ったのか、悠弥は自室に帰ってから気づいた。
昨夜、思い立って部屋の片付けをしていた途中で、美琴から呼び出された。デスクの上には、処分しようと思っていた雑貨やアクセサリー類を出しっ放しのままだった。
(まさか遥さんを家に泊めることになるとは思ってなかったしな……)
隠さなければいけないような、やましいことではなかった。とはいえ、配慮が足りなかったと言われれば、そうだとも思う。
(ちゃんと……話せるかな、俺……)
休日だった今日、デスクの上も、収納もすべて整理してきた。不用品とともに過去の思い出も片付け、心も決めてきたはずだったが、いざとなると胸がつかえるような緊張感に襲われる。
「すみません、お待たせしました」
背後から、駆け寄ってくる靴音と、遥の声が近づいてきた。
意を決して振り返る。
上品な雰囲気のブラウスに、プリーツのロングスカートがふわりと揺れる。足元は歩きやすそうなローヒールのブーツ。
ウェーブのかかった栗色の髪は、緩くひとつに結ばれていた。
遥の私服を見たのは何度目だったか。仕事では毎日会うのに、こうして勤務時間外に会うことは滅多になかった。
「じゃあ、ひとまず僕らはこの辺りで待ってますので」
「ちゃんと本音で話すのよ、二人とも!」
遥がそばに居るからなのか、玲子の声がかすかに聞こえた。
「少し歩きましょうか、遥さん」
駅前の広場を通り抜け、少し歩くと、古い城跡の石垣が見えてくる。
戦国時代に築城された城の跡で、今は公園として整備されている。
この時間になると、人影もまばらだ。
坂を登り、眼下に町を見下ろせる高台へ出る。桜の木の下のベンチに並んで腰掛けた。
少しの沈黙のあと、悠弥が話を切り出した。
「あの、今朝のこと……見ちゃったんですよね、指輪」
「ごめんなさい……つい、気になって」
「あ、いや、全然……責めるつもりじゃなくて」
互いに目を合わせるのはまだ気まずく、正面を向いたまま。
「先に言っちゃいます。あれ、確かに婚約指輪でした。1年以上前のことです。まだ都内で働いていた頃、恋人がいました」
遥は黙って、続きを待っていた。まだその表情を見ることはできない。
「大学の先輩の紹介で出会った、3つ年上の女性でした。学生の頃から付き合いはじめて3年経って、彼女は結婚を考える年頃で。俺が社会人2年目、彼女が27歳になる誕生日に合わせて、あれを買いました」
この町に引っ越してくる半年ほど前のことだった。自分にはまだ結婚は早いような気がしていたが、彼女のことを考えて思い切った。彼女の好みに合わせ、少し背伸びした指輪だった。
「去年の6月頃のことです。翌月に誕生日を控えて、店を予約したり準備していたある日、突然振られたんですよ」
「え? 振られた?」
遥が思わず声を上げた。
「はい。『結婚するから別れて』って」
困惑した表情の遥に、思わず苦笑いしながら続ける。
「彼女は結婚したがっていたけど、俺と結婚したいわけじゃなかった」
悠弥に別れ話を切り出す数ヶ月前から、彼女は婚活をしていたようだった。それを知ったのは、別れてしばらくしてからだった。
「ことの顛末を知った先輩に謝られましたけど、別に紹介した先輩が悪いわけじゃないし、なんだか俺、悲しいやら情けないやらで」
そのあとは仕事に打ち込んだ。そうするしかなかった。
「忘れようと思って、半年くらい仕事のことだけ考えてました。ブラックだったけど、他に何もなかったし、どうでもよかった」
心身ともに疲れ果てた頃、ふと思い返した。ブラックな職場でも、踏ん張ってやっていこうと思ったのは、そもそも彼女のためだったのだ。彼女と幸せになるため、彼女の希望する生活レベルを維持するには、このくらいの仕事をしていなければならない、と。
「ちょっと体壊して、立ち止まったときに気づきました。もうこんなところで頑張る必要ないんだって。それでこの町に帰ってきて、それから遥さんに出会って……、あとはご存じの通り」
ここでようやく、遥と目が合った。
「もう忘れているつもりでした。あの指輪のことも、彼女のことも。でも玲子さんの『忘れたい記憶』の話をしたときに、俺の中にも、まだあの時のことが残っているって気づいて。だから、もう一度向き合おうって、過去のもの全部引っ張り出していたんです、昨夜」
「それであんなに散らかって……」
遥が納得するように呟いた。悠弥はひとつ頷いてから続ける。
「不安にさせて、すみませんでした」
「いえ、私の方こそ勝手に勘違いして、あんな態度を……ごめんなさい……」
顔を見合わせ、互いに微笑む。
「俺、怖かったんです。また人を好きになったら、傷つくんじゃないかって。それに、俺なんかじゃ幸せにできないかもしれないって、自信もなくなってた」
一瞬、遥は何か言おうとしたようだが、口をつぐんだ。
「でも今日、全部処分してきました。あの指輪も……俺のそういう弱い気持ちも。やっと心が決まりました」
本当は、ずっと前から悠弥も自分の気持ちに気づいていた。
左側に座る遥の方に向き直る。丁寧に彼女の名前を呼び、真っ直ぐにその目を見つめた。
「あなたのことが大好きです。ずっと、俺のそばにいてくれませんか」
悠弥をじっと見つめていた遥の瞳が潤む。今更になって、全身が少し震えてくる。遥の言葉を待つ一瞬が、永遠かのように長く感じた。
「私も……悠弥さんのこと、大好きです……っ。ずっと、一緒にいたいです」
言い終えるが早いか、その目から涙がこぼれ落ちた。
「やだ、私ったら、昨夜から涙腺がゆるゆるで……」
悠弥は頬の涙を指で拭い、遥の額にそっとキスをした。
遥が耳まで赤く染めて、恥ずかしそうに微笑んだ。
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