幻獣の棲みか

iejitaisa

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第三章 被検体

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 真夜中、ホタルは自室の机でイライラしていた。
 シャープペンシルで真っ白なノートをカリカリして、長袖のニットを手の甲まで引っ張り上げて、それで鼻をぐじぐじとかいた。
「さぶ」
 暖房を我慢していたが、このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。
「ホタル、ここにいたのか」
 ぱちりと音がして、部屋に灯りがともった。
 帰ってきたのは父親だ。もじゃもじゃした緑色のセーターの上に、ドロドロの白衣を着ている。
 何度洗わせて欲しいとお願いしたことか。ホタルはもう数えるのをやめた。
 そもそもなぜ、着てもいない娘がお願いしなければならないのか。
「宿題が残ってて」
 ホタルは嘘をついて、デスクライトを消し、立ち上がった。
 本当は、今朝方盗み聞きした、被検体のことが気になって仕方なかったのだ。それに、幻獣とは?
 ホタルとて、ドラゴンやフェニックスの話を知らないわけではない。しかしそれらは全て、空想上の話に過ぎない。神話や、おとぎ話の。
 そんなことをいきなり聞いて、果たして父は答えてくれるだろうか?
「なんだか久しぶりね、パパ。なにか食べる?」
 色々考えた結果、ホタルは平静を装うことにした。
「いや、いい。自由研究は順調か」
 父親は親指の爪を噛みながら言った。
「そっちは大丈夫。ねぇ、パパ、聞いてみたいんだけど――」
 スウィン、と音がして、部屋のドアが開いた。
 大事な告白を邪魔されて、ホタルはげっぷにも似た音を吐き出した。
 戸口に立っていたのは、ホタルと同年代の、若い男の子だった。
 日本人然とした黒髪に黒い眉、黒い瞳。鼻は丸っこく、口ががさつな形をしている。あるいは、ホタルが彼のがさつな性格を知っているから、そう感じるだけなのか。
「や、ホタル――」
 少年は声変わりしたてのハスキーボイスで、それはもう快活に挨拶した。
 ホタルは白目をむいて、私はうんざりしています。と全身で表現した。
「おぉ!ワタルくん!」父親はちゅぽん、と指しゃぶりをやめた。
 生気を取り戻した落ち武者のようだと、ホタルは思った。
「どうも、おじさん」
 ワタルは父親にぺこりと会釈して、なんと、そのままずけずけと部屋に入ってきた。
 ホタルは大きなため息をつくと、腕組みしてそっぽを向いた。ポニーテールの先端がワタルのまつ毛をかすめた。
 ワタルは顔の前で両手を合わせると、父親には聞こえないよう、素早くささやいた。
「いや、チャイム鳴らさなかったのは謝るって。でも、ほら……おじさんが入ってくのが見えたし、それに俺達、もう三日も会って……あー、閉じこもって宿題ばっかりだぜ?ほら、少し散歩でもって」
「ここは立ち入り禁止区域ばかりよ、どこに行くというの?」
 ホタルはワタルを睨みつける。体ばかり大きくなる幼馴染を、嫌味を塗りたくるようにじろじろと。
「お前はしょっちゅう外に出てるじゃねえか」
 ワタルはムッとした顔で言い返してきた。
「私は許可をもらってるもの」
 ホタルも負けじと言い返した。
「ウソつけ!あの大佐に抱えられて、連れて帰られるの見たぞ!」
 手痛いところを突かれてしまった。
 口汚い言葉を用意していたホタルは、そのまま唇をむにゃむにゃさせて、またそっぽを向いた。
 ワタルは――そのまま追撃してくると思ったのに――妙に優しい顔になって、ホタルの肩に触れようとしてきた。
「なぁ、大丈夫かよ、変なところ触られたりとか」
「へぇっ!?変なところって何よ!なぁにを想像して――」
 ホタルは組んでいた腕をきゅっとすぼめ、自分の体を抱きしめるようにして捻った。
「い、いや!別に何も――」
 ワタルは目を白黒させてあぁでもない、こぅでもない、と嘯いていた。
 口の形こそがさつだが、ワタルは、目も、眉も、優しそうな、あるいは柔らかそうな印象を受ける。油断すると人の好さそうな好青年にも見える。しかし、ホタルはワタルの本性を知っている。
「スケベ」
「いやっ、別にそんな――」
 ワタルはショックを受けたようで、肩を落として落ち込んでいた。
 幼いころはただのお隣さんだったが、中学に上がったころからホタルを見る目が変わっている。ホタルにはわかる。
「何をしとるんだお前たち」
 挙句の果てに、父親に心配される始末だ。
 ホタルは何でもないの、と嘯き、ふさぎ込んだ。
「……どうしたんだよ」
 ワタルが声を落として、ひそひそとささやいた。
 ホタルは父親に聞こえないよう、今朝見たこと、聞いたことを一言一句漏らさず伝えた。
 そして、とても心配している、とも。
 ワタルは「マジ」と言って目を見開いた。
「本当だとしたら、ひどいことだわ。ここの人たちは、木を切り倒して、岩を削って、要塞を建ててる……それだけでも、わたしっ……我慢がならないのに……ここには、もっとひどいことを平然とする人がいるんだわ!」
「わかる」
 ワタルが即答したので、ホタルは疑いの目を向けた。
「……めっちゃ」
 ワタルは不自然に明るい顔でうなずいた。
 ホタルは首筋に手を当て、泥のようにたまっていた空気を吐き出した。
 不安で胸がはち切れそうだった。
「わかったよ、わかったって。……ちょっと待ってろ」
 ワタルは、今度はいつになく真面目な顔をして、部屋の奥へずんずん突き進んでいった。
「お、おじさん……!」
 ワタルはいいやつだった。スケベだけど、いいやつだ。ホタルにはわかる。



「いやー、俺、わくわくしてます。てか、ホントに行っていいんすか?」
「あぁいいとも。好奇心は全ての妙薬だ」
 兵士か運転する軍用車の中、そわそわするワタルと、助手席の父親だけが舞い上がっていた。
 ホタルは気が気ではなかった。
 軍用車のサスペンションが固すぎて、お尻が煎餅のようになってしまいそうだったから。ではない。もちろん、軍用車の乗り心地は最悪なのだが。
「ねぇ、パパ、いいの?ここ、立ち入り禁止だって――」
「あーぁ、大丈夫だ。ワシがここの研究主任だからな!」
 父親は、運転している兵士の肩をバンバン叩き、朗らかに笑った。
 ホタルは大きな窓の桟に両手を乗せて、外の景色を伺った。
 施設の中でも、特に厳重なエリアを進んでいるようだった。真っ黒な鉄板の壁が永遠に続き、時たま、発酵したバターのような黄色いライトが横切った。
 そのうち、車は大きく開けた場所に入った。
 格納庫と言うにも大きすぎる。
 ホタルの学校にある体育館を、縦横二つ並べたほどに巨大な空間だ。歩いて部屋を横切るだけで、十四、五分はかかるだろう。
 しかし、その空間の全容は見えなかった。ホタルの視界を遮るほどの巨大な構造物が、そこに鎮座していたのだ。
「なぁに?あれ……」
 ホタルは軍用車の窓に頬をこすりつけた。
 その声で、ワタルも振り向いた。
「でっけええぇー!」

 そこにあったのは巨大な装置だった。

 三階建てのビルほどあろうかというほど巨大な鉄の塊、その壁面にしだれ柳のように垂れ下がるたくさんのパイプ。隙間と言う隙間から飛び出す機関車のような煙。そして――トンネルを掘削するシールドマシンほど巨大な、円筒状の切っ先。内部から、熟れたカマキリの卵のような色を発している。どこかを狙って、大砲のように突き出している。
 装置の周りには入り組んだ足場が設けられていて、ヘルメットをかぶったたくさんの人が、バインダーと相談しながらせわしく歩き回っている。
「……ダインスレイブだ」
 父親が重苦しく言った。
「ダイン……?」
 ホタルが繰り返したことに、運転していた兵士が敏感に反応した。
「博士、それは――」
「構わんだろう、別に。私はもう外されたんだ。モハティめ」
 父親は進行方向を一心に見つめたまま、また指しゃぶりを始めた。
「試作開発中の掘削機だ。、私とは別チームが作っている。超高温の熱波と高周波の音波を掛け合わせ、どんなに硬い岩盤でも焼き切ることができる。シールドマシンよりはるかに強力で、工期の大幅短縮が期待されとる」
「でもそれって、戦略兵器に転用できるわ……!」
 ホタルは憤慨した。
 秘境の奥深くに建設された要塞で、秘密裏に、大量破壊兵器が製造されていたことに
 まるで、その開発から外されたことを、すねた子供のように悔しがる父親にだ。
「何を言っとる。そんなもの、ダイナマイトの時代から一緒だ」
 父親は、しゃぶっていた親指と共にイラだちを吐き捨てた。



「ほら、着いたぞ」
 十数分は走っただろうか、車は目的地に着いた。
 軍用車は背が高い。ホタルは、ワタルが差し出してくれた手を掴みながら、つま先立ちになって降りる。
 ここも、黒い鉄板が永遠と続く通路だった。
 今来た道を覚えようと、ホタルはきょろきょろとあたりを見渡した。
 平均時速は三十キロ、十秒走ってから右へ、その後左、もう一度左――
「こっちに来なさい」
 脳に刻みつけている最中だったのに、父親にジャマされた。ホタルは眉間にシワを寄せ、白衣の後をついて行く。



 軍用車の前に回ると、黒い鉄板が彫刻のように一部浮いていた。縁取りされたその形から、これは扉なのだとわかった。
 扉の横にはマシンガンを持った兵士が立っていて、父親が胸のIDを見せびらかしていた。
 兵士は敬礼し、扉の横についていたボタンを押した。
 扉の向こうには、人が二人並んで歩けるほどの細い廊下が続いていた。
 父親はその真ん中を贅沢に使って歩く。
「まさかワタルくんが、研究に興味があるとはなぁ」
「いやーっ、おじさんのことは昔から知ってるけど、よく考えたら、どんな仕事してるのか全然知らなくて」
 ワタルは父親と廊下の壁に挟まれながら、ずりずりと歩調を合わせている。
 父親はバケツいっぱいのプリンをもらった子供のように喜んでいる。
「そうか、そうか、じゃあとびきりいいものを見せてやろう、とびきりのを」



 緑色に光るテンキーの上を行く、父親の指の軌跡を、ホタルは固唾を飲んで見つめる。
 シュン、と吸い込まれるような音がして、鋼鉄の扉が開く。
「まずはここだ」
 父親に案内されたのは武器庫のような場所だった。
 たいして広くない部屋の壁に、銃器や、帯のような銃弾、ものものしい手榴弾がかけられている。その中に時おり、原住民が使うような弓があったり、西洋の騎士が持っていそうな剣が混じっている。
 それらの中にあって、一つだけ、たった一つだけ、忽然と在る武器があった。
 それは、部屋の真ん中にある黒い机の上に、無造作に置かれていた。
 机の上にはその他に一切ものが無く、まるで、そのためだけにしつらえられたかのようだった。
 ホタルは引き寄せられるように近づいた。
 巨大な両刃の大剣だ。刀身がホタルの片腕ほど長く、根元は肘から先ほどに幅広い。持ち手を守る鍔は鳥の羽のような意匠が施されており、持ち手には、鳥の足のように鱗がついていた。
 大剣はくすんだ灰色一色で、まるで、アニメーターがそこだけ色を塗り忘れてしまったようだった。
 ホタルは、その武器に見覚えがあった。

 燃えるような赤い髪の少女が、火にくべた石炭のようにあかい剣を持っている。

 そう、あの少女が持っていた大剣だ。色こそ違うが、間違いない。
「これはなぁに?」
 ホタルは知らないふりして聞いた。
「なんだと思う?」
「でっかい……剣?」
 ワタルがシャーロックホームズのように顎を持って、大剣に顔を近づけた。
「そう思うだろう?」
 父親は「くっくっくっ」と、下手な悪役と同じ笑い方をした。しゃぶっていた手を開くと、UFOキャッチャーのように下ろし、大剣の刃をむんずと掴んだ。
 ホタルは身構えたが、一滴の血も流れなかった。
「見たまえ、この剣は鋭くない。研ぐのを忘れたとか、そんな話ではない。丸く作られているのだ。切っ先も、刃の部分も」
「でも……なんで?これじゃ、ただの鉄の塊じゃない」
 ホタルは姑さんのように指先で刃をなぞった。つるつると、磨き抜かれた大理石のような感触だった。
「持ってる意味がない。筋トレ用?あっ、稽古用とか!」
 名探偵ワタルは当てずっぽうに推理を披露した。
「いいぞ、いいぞ、そうやって考察することが、科学の第一歩だ。結論から言うと、残念ながらハズレだ。これを持っていた者は、この大剣一つで百二十四人の兵士を皆殺しにした。屈強な兵士たちをだ」
 知りたくもない情報を聞かされ、ホタルは顔をしかめた。
 咎めるように父親を見たが、ウラオー博士は不敵に笑うだけだった。
「ふっふっふ、不思議だろう?謎だろう?それを解明するのが――」
「――科学!ですね!」
「そうとも!ワタルくん!」
 ワタルが、父親のご機嫌取りのためにそう言ったのだとホタルにはわかっていた。わかってはいたが、それでも、目まいを覚えずにはいられなかった。
 百二十四――ホタルの学校の、一学年に匹敵する数だ。それだけの命が失われたという事実だけで、肺に穴があいたような感覚に陥る。
 やいのやいのと盛り上がる男子二人を背に、ホタルはふらふらと部屋の奥へと歩いた。
 そこにはもう一枚扉があり、ホタルの接近を感知し、ひとりでに開いた。
 奥の方に入ると、大きなガラスの壁が現れた。ホタルはガラスまでさまよい歩き、両手とおでこを、ひんやりとしたそれに預けた。
 背中の方でシュン、と音がした。おそらく扉が閉まった音だろうが、それでホタルは顔をあげた。
「あっ!」





 その時の光景を、ホタルは今でも昨日のことのように思い出す。





 まるで、神話の世界から抜け出してきたような美しさだった。
 ガラスの向こう側だった。
 燃えるような赤い髪を、二つにまとめた少女がいた。
 彼女は眠っていた。
 死んだように眠っていた。
 博物館のファラオのように、斜めに立てかけられた台座の上で、死んだように眠っていた。
 夢で見た少女だ。まさに本人が目の前にいた。目鼻立ちも、口の形も、これほど完璧に近い人の顔を、ほかのどこでも見たことがない。そのまぶたが開かれればきっと、ルビーのような紅い瞳があるのだと、ホタルにはわかる。
 彼女は白い詰襟の軍服を着ていて、赤いプリーツスカートから太ももが覗いている。膝から下は、鳥の蹴爪けづめのようなヒールがついた、真っ白なブーツに覆われている。
 ガラス越しであっても、燃えるような彼女の赤毛が、すぐそこにあるかのような存在感で輝いている。ホタルは両手で口を覆う。
 彼女は――赤髪の少女は――どう見ても自分と同じくらいの年頃に見える――そんな少女が――なんと――なんと惨い――――
「そんな……」
 落ち着いて呼吸ができなかった。
 彼女は囚われ、傷ついていた。台座についた白い四つの鉄輪に、両手両足を拘束され、軍服には真っ黒なシミが――右肩に、脇腹に、左腕に、首元に――いたるところについていた。赤いプリーツスカートはところどころすり切れ、真っ白なブーツにも、かさぶたのようなものがこびりついていた。
 唯一、あらわになった太ももだけが、彼女の健康状態を示すかのように血色よくある。
「なんてひどいことを……」
 少女は身じろぎ一つしない。大きな胸が、わずかに上下しているのが見えなければ、死んでいると言われてもなんら不思議でない。
 ホタルは衝動に突き動かされた。
 それは彼女が生まれ持っていた、他人ひとより強い正義感だけでなく、目の前に置かれた人の所業を、なんとか自分の手で断ち切りたいという願いでもあった。
 一面張られたガラスには切れ目があり、扉になっているのがわかった。部屋の入り口と同じように、ホタルが近付くとひとりでに開いた。
「待ってて、今助けるから!」
 ホタルが駆け寄った瞬間、わずかな空気のゆらめきで、赤髪の少女は目を覚ました。

「うぁああ!うわああああああ!」

 世界中の人間を、誰一人信じられなくなった時。
 きっとホタルも、同じように叫んだだろう。
 身がすくんだ。
 その場から一歩も動けなかった。
 死の間際絶叫する、鳥の叫喚のようだった。少女はルビーのように紅い瞳を血走らせ、歯をむき出しにして吠えていた。
 二度と近づくなと。指一本触れるなと叫んでいた。
 その怒りに、少女の痛みが、苦しみが全部詰まっていて、ホタルは心臓を握りつぶされたように息が詰まった。
「違う!違うの!……あなたを助けたいの」
「ぅぅぅうううううあああああああ!」
「私はあなたを知ってるの!」
 どうにか彼女に届いて欲しいと、ホタルは声を張り上げた。
「あなたを夢で見たわ……大きなお城で……王様みたいに……」
 突飛な言葉だとわかっていた。それでも、ホタルにはそう言うほかなかった。
 幸いにも、赤髪の少女は威嚇をやめ、ホタルの言葉に聞き入っていた。
「助けるだと……?私を……?」
 少女の口から出てきたのは、その見た目にそぐわぬ、歴史と威厳のある声だった。
 胸の奥までじいんと届くその響きに、ホタルは驚いて、少女の顔をまじまじと見つめた。
 怒りの消えた少女の顔には、堂々たる風格が宿っていた。
 なんて気高く美しいのだろうと、ホタルは見とれた。
「ふふっ……ふはっ……!」
 磨いたりんごのような色をした少女の唇から、自虐的な笑みがこぼれ出た。それはやがて、大きな渦を巻く高笑いへと変わった。
「ふはははははははは!」
 幻覚でも、比喩でもない。少女の背中から、真っ赤な炎が噴き出した。土石流のようにガラスの部屋を侵略し、ホタルの周りをあっというまに埋め尽くした。
 肌をじりじりと焼く熱気に、ホタルは身を縮めた。
「私を助けるだと!?三千年、神官との契りを守り、幻獣を守り抜いてきたこの私を!?」
 少女の声色がおどろおどろしく化け、炎の揺らめきに合わせてたぎっていた。
 炎がうなりをあげて、床から天井まで、ガラスにヒビを入れる。扉だった部分は、飴細工のように溶ける。このまま焼け死んでしまうのではないかという恐怖に、ホタルはおそわれる。
 しかし、突然、地獄の窯に蓋したように炎が消えた。
 少女の高笑いも煙のようにゆらぎ、どこかへ消えていった。
 頬に真っ黒なススをつけたまま、ホタルは少女を見上げた。
 赤髪の少女は、諦めた遭難者のように遠くを見ていた。ホタルの頭の後ろ、もっともっと遠くを。
「……無駄だ」
 威厳をたっぷりと保ったまま、少女は寂しそうにつぶやいた。
「見よ、この手枷は、私の炎でも壊せぬ」
 少女は自分の左手を一瞥した。ホタルも見た。
 手枷は、一縷の焦げ跡すらつけず、真っ白な輝きを保っていた。
 ホタルは、落ちてきたハチミツのようににつぶれているガラスを見た。手枷がどれだけ頑丈なのか、思い知るだけだった。
「でも……だったら!どこかに鍵があるはずだわ!」
「もうよい」
 少女はホタルを遮るように言った。
「私はお前たちの相手に疲れた。さりとて、自害することもできぬ……まっこと、不便な体よのう……」
 ため息交じりの言葉の中に、高貴な話し方がにじみ出ている。
「もし私の願いを聞いてくれるなら、そこにあるガラスで胸を突いてくれ。奥まで届けば、私はこの苦しみから解放される」
 少女は、手近な作業台に視線を落とした。
 そこには試験管立てが置いてあり、熱で割れた試験管が数本、引っかかっていた。中身は蒸発してしまったのだろう、試験管の内側に、真っ黒な炭となってこびりついている。
 ホタルはわかってしまった。
 少女がもう、生きることを諦めてしまっていることに。死を切望していることに。
 なんと悲しいことなのだろう。
 ただ単に人を殺してしまうより、なお惨い。
 生きたい、生き延びたい。また明日、太陽をこの目で見たい。月に見守られながら眠りにつき、そしてまた、愛する人々に会いたい。全て人類が、地球上の生きとし生ける物全てが、普遍的に持っているその感情を、ここの人たちは奪ったのだ。
 一人の人間の心を、永遠に壊してしまったのだ。
 なんと――なんと――恐ろしいことを。

「なぜ泣く」

 少女に問われるまで、ホタルは、自分がとめどなく涙を流していることに気付かなかった。

 気付いてまた、涙を流した。

「だって、私……なんにもできなくて……ごめんなさい!私っ……ここでこんなことが行われてるなんて、知らなかった……知った今だって!なんにもしてあげられないんだわ!」
 悔しくてくやしくてたまらなかった。
 我がことのように泣きじゃくるホタルを見て、少女は氷が溶けるように目を閉じた。自らを縛り付けている台に頭をあずけた。
「そんなに恥じるな」
 穏やかな声で、少女は言った。
「自分のことを見下す必要はない。そんなことをしても、惨めさが募るだけだ」
 ホタルは涙をぬぐうのをやめ、少女の言葉に聞き入った。
「お前は私のために泣いている。それだけで十分だ」
 誇り高き者にしか紡げぬ言葉だった。
 少女は少しだけ、春の木漏れ日くらい少しだけ、満足げに笑っていた。

「あぁホタル、ここに気付いたのか」

 穏やかなひと時の終わりを告げる、父親の声。
 ホタルは身構える。少女に「逃げて」と伝えたいのに、その言葉が意味を持たないことに憤りを感じる。
「またガラスを焼いたのか。無駄なことを……」
 ヒロシマで掘り出されたようなガラスを撫で、父親はため息をついた。
「こいつはすごいんだぞ?ちょっと見てなさい」
 父親は試験管を乗せた机に近づき、そこに備え付けられた引き出しを開けた。
 奥の方に手を突っ込み、ごそごそと何かを探し始めた。
 ホタルは、少女が、父親の背中をひどくおびえたように見つめていることに気付いた。
 手枷足枷に縛られているにもかかわらず、身をよじり、必死に逃げようとしている。鳥の蹴爪けづめのような踵が、何度も台座に当たって、何度も甲高く鳴いた。
 引き出しの中から父親は、小型の血圧測定器のようなものを取り出した。ホタルが知っているものと違う。それは、腕を縛る円筒形の機械の外側に、太く長い針のようなものをびっしりと備えている。
「はあっ……あぁっ……!」
 少女の呼吸が荒くなる。恐ろしい魔物に追われているかのように、喉を枯らして。卵のように綺麗な肌に、脂汗が噴き出している。
 父親はクック、と笑い、嫌がる少女の二の腕に、針千本を備えた血圧測定器を巻き付けた。測定器の側面についた小さなボタンが、緑色に光った。
 途端にホタルは、日中盗み聞きした話を思い出した。
「ちょっと待って、パパ、何するつも――」
 父親はなんのためらいもなくボタンを押した。
 ろうそくほど太い針たちが、一斉に少女の腕に突き刺さった。
 少女のルビーのような瞳が、その虹彩が、ぎゅっと縦長に切れるのをホタルは見た。
「ぅあああああああああああ!ああああぁああぁあぁあぁぁぁぁ!」
 少女は絶叫した。肩をぶるぶると震わせ、赤い髪を振り乱し、瞳が潰れるほどまぶたを閉じ、枷に挟まれた手がちぎれそうになるほど暴れた。
「やめて!」
 ホタルは金切り声で叫んだ。
 無数の針は少女の腕の奥深くまで食い込み、ぎゅうぎゅうと締め付けていた。すり鉢に石をこすりつけたようなゴリゴリという音が、ホタルの喉の奥まで響いた。
「なんて……なんてことをするの!?」
 ホタルの糾弾に、父親は心外だという顔をして、緑のボタンを押した。今度は針が、逆向きに動き始めた。
「はぁぁあああああああああああああ!」
 赤髪の少女は、肺から全ての空気を吐き出していた。
 極太の針がじゅぼんと音を立てて抜け、父親は装置を回収した。
 少女の左腕には、真っ赤な点が等間隔に並び、じんわりとその直径を広げつつあった。
 父親は少女の傷痕に手を触れようと伸ばした。ホタルはそれを遮り、汚い白衣を握りしめた。
「ホタル……違うんだ。見てみなさい、ほら。これは彼女だけが示す反応なんだ!生物学的に絶対にありえない――」
「やめてってば!」見る気になど、到底なれなかった。
「どうしてこんなひどいことができるの!?捕虜の拷問は禁じられているはずだわ!」
「酷い?酷いことがあるもんか。彼女を捕らえるために百二十四人死んだ。さっきも言っただろう?こっちの方が酷い目にあってる」
 父親は白衣握るホタルの手を振り切り、親指の爪を噛んだ。
「どうして捕らえることが前提なの!?あの子は人間なのに!」
「このじゃない。ホタル、不死身だ。不死身で不老不死なんだ。それに彼女は飛べる!彼女以外にも、飛べる人間がいる!ここは……まさしく、研究の宝庫なんだ!」
 父親の目はらんらんと輝いていた。世紀の発見に湧く科学者の顔が、そこにはあった。
「そんなことを理由に人を傷つけるなら!私はパパのことを軽蔑するわ!」
 ホタルは、父親が握っている装置に手をかけた。
 父親は指しゃぶりをやめ、我が子を守る母ザルのように、装置を抱きかかえた。
「お願い、こんなこと今すぐやめてちょうだい!この子を開放して!」
「このではない!」
「とにかくやめて!」
「解放はできない!」
 父親は口髭を浮かしながら叫び、ホタルの手から装置をひったくった。
「どおして――」
 砕けた砂時計のように、ホタルは、体中から力が抜けるのを感じた。
 父親はホタルの方を二度見て、少女の方に近づいて行った。聞き分けのない子供に呆れる大人のようにため息をつき、虫の息になっている少女に向き直った。
「ぅぅううん!うううう!」
 父親の顔が向けられただけで、少女はうなされたように首を激しく降った。
「ここはモハティの城だ。私はただの雇われの身だ。彼の許可が無ければ、私は、彼女の解放どころか、呼吸すらできない」
「……みんなそう言うのね」
 ホタルは非難めいた視線を浴びせた。少女が気を失ってしまいやしないか、気が気ではなかった。
「大人はみんなそう。自分には責任がありませんって、そればっかり……」
 父親は装置をくるくるともてあそび、手をクモのようにうねらせ、揉みしだいた。
「ホタル……わかってくれ、母さんを取り戻すためだ」
 ホタルの方を見もせずに、まるで、自分自身に言い訳するかのように言った。
 ホタルは苦い味が口の中に広がるのを感じた。
 今までの人生、それだけは考えるまいと気を張っていた事実を、今度こそ認めざるを得なくなった。せめて、血を分けてもらった親だから、それだけは気付かずにいたいと思っていたのに。
「何を勘違いしているの……?ママは帰ってこない。女の子を痛めつけるうちは、絶対に!」
 ホタルは父親をにらみつけた。何万年経ったとしても、決して許すことのない憎しみをこめて。
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その日は快晴で、DIY日和だった。 まさかあんな形で日常が終わるだなんて、誰に想像できただろうか。 マンションの屋上から落ちてきた女子高生と、運が悪く――いや、悪すぎることに激突して、俺は死んだはずだった。 しかし、当たった次の瞬間。 気がつけば、今にも動き出しそうなドラゴンの骨の前にいた。 周囲は白骨死体だらけ。 慌てて武器になりそうなものを探すが、剣はすべて折れ曲がり、鎧は胸に大穴が空いたりひしゃげたりしている。 仏様から脱がすのは、物理的にも気持ち的にも無理だった。 ここは―― 多分、ボス部屋。 しかもこの部屋には入り口しかなく、本来ドラゴンを倒すために進んできた道を、逆進行するしかなかった。 与えられた能力は、現代日本の商品を異世界に取り寄せる 【異世界ショッピング】。 一見チートだが、完成された日用品も、人が口にできる食べ物も飲料水もない。買えるのは素材と道具、作業関連品、農作業関連の品や種、苗等だ。 魔物を倒して魔石をポイントに換えなければ、 水一滴すら買えない。 ダンジョン最奥スタートの、ハード・・・どころか鬼モードだった。 そんな中、盾だけが違った。 傷はあっても、バンドの残った盾はいくつも使えた。 両手に円盾、背中に大盾、そして両肩に装着したL字型とスパイク付きのそれは、俺をリアルザクに仕立てた。 盾で殴り 盾で守り 腹が減れば・・・盾で焼く。 フライパン代わりにし、竈の一部にし、用途は盛大に間違っているが、生きるためには、それが正解だった。 ボス部屋手前のセーフエリアを拠点に、俺はひとりダンジョンを生き延びていく。 ――そんなある日。 聞こえるはずのない女性の悲鳴が、ボス部屋から響いた。 盾のまちがった使い方から始まる異世界サバイバル、ここに開幕。 ​【AIの使用について】 本作は執筆補助ツールとして生成AIを使用しています。 主な用途は「誤字脱字のチェック」「表現の推敲」「壁打ち(アイデア出しの補助)」です。 ストーリー構成および本文の執筆は作者自身が行っております。

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 ある日、全世界の至る所にダンジョンと呼ばれる異空間が出現した。  そこには人外異形の生命体【魔物】が存在していた。  【魔物】を倒すと魔石を落とす。  魔石には膨大なエネルギーが秘められており、第五次産業革命が起こるほどの衝撃であった。  世は埋蔵金ならぬ、魔石を求めて日々各地のダンジョンを開発していった。

慈愛と復讐の間

レクフル
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 とある国に二人の赤子が生まれた。  一人は慈愛の女神の生まれ変わりとされ、一人は復讐の女神の生まれ変わりとされた。  慈愛の女神の生まれ変わりがこの世に生を得た時、必ず復讐の女神の生まれ変わりは生を得る。この二人は対となっているが、決して相容れるものではない。  これは古より語り継がれている伝承であり、慈愛の女神の加護を得た者は絶大なる力を手にするのだと言う。  だが慈愛の女神の生まれ変わりとして生を亨けた娘が、別の赤子と取り換えられてしまった。 大切に育てられる筈の慈愛の女神の生まれ変わりの娘は、母親から虐げられながらも懸命に生きようとしていた。  そんな中、森で出会った迷い人の王子と娘は、互いにそれと知らずに想い合い、数奇な運命を歩んで行くこととなる。  そして、変わりに育てられた赤子は大切に育てられていたが、その暴虐ぶりは日をまして酷くなっていく。  慈愛に満ちた娘と復讐に駆られた娘に翻弄されながら、王子はあの日出会った想い人を探し続ける。  想い合う二人の運命は絡み合うことができるのか。その存在に気づくことができるのか……

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