幻獣の棲みか

iejitaisa

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第十章 準備

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「ふむ、やはり追跡はムリか」
 ドレイクは部下にねぎらいの言葉をかける。
「ただのスマホですから、電源を切られると」
「オレが壊したかも」
「うううううむ!むああああああ!」
 ウラオー博士が何か言いたげに叫んでいる。打ち首を恐れる落ち武者にしか見えない。しかし、ドレイクがきつく結んだ猿ぐつわのせいで言葉にならないようだ。可愛そうに。ドレイクはおねしょした子犬を愛でるように、博士に同情の視線を投げかける。
 博士はごつい車いすのような拷問器具に縛られたまま扉の向こうに消えていった。デス・スターのように扉は自動的に閉じ、博士の姿を隠した。
「では、私は、捜索に出ます」
 ドレイクは雇い主に別れを告げ、背を向ける。その直後、足元から殺気が駆け上ってくる。
 反撃するか本気で悩んだが、360度、周囲にいる兵士たちからも銃を向けられている。
 ドレイクは残念でならない。そんな風に銃を構えるな。オレにかわされたらどうするんだ?同士討ちで全滅だ。
「お前も何か、言い残したことはないか?」
 まただ、段ボールが引き裂かれる。耳たぶが痛い。
「言い残したことですか」
 ドレイクは明後日の方を見る。残念ながら、基地の中はどこを見ても黒い鉄板しか目に入らない。見飽きた満月よりはましだが。
「ふむ」
「幻獣たちのことで、なにか私に言い忘れていることがあるのなら、聞いてやってもいい」
 ドレイクは振り向く。雇い主が、白く濁ったまなこと、拳銃の銃口を、自分に向けている。わざわざ歩いて行って、自ら銃口に額をぶつけてやる。
「扉の話も、幻獣の話も、全て真実です」
「だが貴様は、あの女について不自然なくらい話さない」
 雇い主はこれ見よがしにほくそ笑む。
「知らないのか」
 グローブをしていない右手の、親指が撃鉄に伸びる。
「それとも」ガチリと重たい音が鳴る。
「言いたくないのか」撃鉄が起こされる。
 あとは軽く引き金を引くだけで、火薬が炸裂し、鉛の弾丸が飛び出してくるだろう。
 ドレイクはため息をつく。
 脅されたことにではない。
 そんなものでオレは死なない。その事実にだ。
「フェニアス・バックスの弱点を知っています」
 銃口の冷たさに顔をしかめながら、ドレイクは答える。
「なぜ今になって」
 雇い主は不審そうに眉をひそめる。
「私がここを離れれば、彼女を止める者がいなくなる」
 ドレイクは右上の方へ視線を逃がす。あるのは黒い鉄板の壁と防犯カメラだけだ。そう言えば、ダークナイトという映画に出ていたヒース・レジャーは名優だった。ジャック・ニコルソンもそうだ。悪役というくくりだけなら、ピーター・カッシングの方が好きだが。
「雇い主が死ねば、支払いが滞ります。それは私も困る」
「ふん、そういうことにしてやろう。忌々しい……」
 雇い主は拳銃を持ち上げ、その銃口を天井に向けた。
 ドレイクは鼻息荒く笑った。



 基地を出て、大仰な中庭を歩く。
 複数の大隊が準備している。彼らをひと月養うだけで、億を超える金が飛ぶだろう。
 土埃の中をドレイクは歩く。
 甲高いエンジン音を響かせるヘリコプターに近づく。鋼鉄のプロペラに首を飛ばされないよう――おぉ、それですらドレイクを殺すことはできないのだが――一応、腰を屈めて。
「お待ちしておりました!」
 待機していた兵士が、ベレー帽を吹き飛ばす勢いで敬礼した。
「んん、よいよ」
 ドレイクが乗ると、ヘリが飛び立つ。眼下には、ドミノのように規則正しく並べられた戦車たちがいる。みな、渓谷の方へ砲身を向けている。
「せん滅作戦でもする気かね、我が雇い主は」
「戦車五十台、装甲車百八十台だそうです」
 ヘッドホンの向こうで、パイロットが笑った。
 爆音が機体をかすめたので、外を見ると、火を噴く戦闘機のケツが見えた。
「おまけに戦闘機か……ゼロ戦か、メッサーシュミットでも持ってきたのかねぇ」
「ハハハ!年代物なのは間違いないですがねぇ」
 ヘッドホンの向こうで、パイロットは笑った。



 ヘリコプターは真っ白な城に着いた。高さ百メーターはあろうかという城壁を超えて、城下町の一番大きな広場に降り立った。
 パリのヴェルサイユ宮殿を彷彿とさせる、巨大な噴水がここにはある。今は砕け散っているが、一カ月前まで、英雄たちの像が彫られていた。ドレイクはヘリから飛び降り、メインストーリートの奥へと歩いて行く。
 白石の住宅、商店を抜けた先に、二つ目の門が現れる。外側の城壁よりは背が低いが、ドレイクでもひとっ飛びでは越えられない高さだ。門は解放されている。中に入ると、丹念に揃えられた芝生と、牛舎や馬屋が現れる。
 いたるところに兵士がいる。鉄製の帽子をかぶり、アサルトライフルを構え、人々を脅している。手錠と足枷をはめ、双方を鎖でつながれた、囚われの人々を。
「おら!歩け!」「運べ!」「止まるな!」「休むな!」
 囚人よりひどい扱いを受けている者たちは、子供も老人も混じっている。男も女も関係ない。ぼろきれのような服を体に巻き付け、すすと泥だらけの肌をむき出しにして働いている。動ける者は全て労働力に回されている。動けない者の行き先はアイングラードの谷だ。あそこの火が絶えたことは、ここに来てから一日もない。
 大きな樽を担がされた男たちが、互いを鎖でつながれ、歩いて行く女たちが、鞭で打たれる子供たちが。みな、ドレイクを非難めいた目で見る。針のむしろのような城庭を、ドレイクはランウェイを歩くモデルよろしく闊歩する。知るか、アホらし。
 何人かはドレイクの姿を見るなり、鎖をじゃんがじゃんが鳴らしながら暴れ出すが、知ったこっちゃない。
 ほら見なさい。
 兵士たちに警棒で滅多打ちにされる囚われの人々を見て、ドレイクは鼻歌をプレゼントする。
 荘厳な城の、正面玄関にドレイクはたどり着く。
 重く、巨大な鉄製の扉は完全開放されており、その両脇には大口径の銃座が二門、建造されている。
 それにしても、いつ見ても騒々しい建造物だ。
 中央に一際高い塔があり、その塔を取り囲むように、四本の塔が突き出している。それぞれの塔にはモチーフがあり、ドレイクの記憶が正しければ、青龍、白虎、朱雀、玄武があしらわれているはずだ。霧だか雲だかよくわからないものがかかっていて、ヘリからはその全容が見えなかったが、たしかそうだ。
 城の中はべらぼうに広く、大広間に続く廊下だけで徒競走ができそうだ。窓ガラスや階段の手すりに至るまで、黄金が惜しみなく使われ、その金細工を再現するだけで、地球上から至高の名工をかき集めなければならないだろう。
 五階まで軽い足取りで登ると、ドレイクは城の中央に位置する、最も豪華絢爛な部屋へ足を踏み入れた。
 赤いじゅうたんと、嗜好を凝らした天井のモザイク画、四方に設けられた巨大な扉にも、幻獣のレリーフが施されている。そして、部屋の北側の壁際には、誰かがそこに座ることを待ちわびているような、豪奢な玉座が設けられている。今はまだ空席のままだ。扉と扉の間には大きなガラス窓が設けられていて、朝日も夕陽も、昼間の太陽も、余すことなく取り入れることができるようになっている。
 王の間。
 やつらはそう呼ぶ。ドレイクに言わせれば牢獄のようなものだ。ここにも奴隷は集められていて、四か所の出入り口に、鋼鉄の扉を溶接する作業を強いられていた。自動で開閉する近代的な扉を、内側に縫い付けるのが目的だ。
「山岳……とくにクライミングの得意な連中を集めてくれ。一個小隊でいい。オレの指揮下に」
 王の間の中央で、コンピューターをいじる部下を見つけ、ドレイクは話しかけた。
「山狩りでもするので?」
 ブルーライトをカットするゴーグルを外しながら、部下は答えた。
「まぁ、そんなとこ、かな」
 ドレイクは少々イラつきながら辺りを見渡した。部屋中配線だらけの機械だらけだ。大きめの段ボールのような黒い箱が、いたるところに並べられ、積み上げられている。解析機器だの集積機器だの、よくわからないが、扉を開けるため、城の内部構造からアプローチをかけるらしい。機械音痴のドレイクにはさっぱりわからない。
「あぁ、あと、連中の中から、森に詳しいやつを連れてきてくれ」
「しかし、素直に従うとは」
 部下が思案顔で首を振るので、ドレイクは人懐っこくウインクした。
「フェニアス・バックスを殺すと脅せ。やつらは喜んで協力するさ」



「むーすうんーでー、ひーらあーいぃて、てーをぉうって、むーすうんーでー、そうそう!」
 ホタルはリーと手の平をぺちぺち合わせて遊んでいる。すぐ隣で、ルーが姉の肩をバンバン叩いて順番をせがんでいる。
 リーもルーも、喋ることはできないが、耳が聞こえていないわけではない。徐々に理解し、上達していく。
「のんきなものですな。子供は、今何が起きているのかも知らずに」
 オーガが呆れたように言うので、フェニアスは優しく諭すことにした。
「平和と言い換えればよきもののように思えてくるさ。時に大人は知りすぎる」
 そんなものですか、とオーガが聞き返した時、近くの茂みから音がした。
 フェニアスは素早く体勢を整え、エクストリーマーの柄を握る。
 すぐ隣でオーガが、少し離れたところでオズワイルドが、同じく。


「ワタル!ホタルを連れて小屋の中へ!オズワイルド!」
 そう叫ぶやいなや、爆炎と爆音を残し、フェニアスは森の中へ飛び込んでいった。
「はっ!」
 心強い返事と共に、オズワイルドがそれに続く。彼は腰元からコウモリのような翼を生やし、力強く空を掴んで飛ぶ。
 エクストリーマーの赤い軌跡を追っていると、ワタルの切羽詰まった顔が視界に飛び込んでくる。ホタルは手を引かれ、転げそうになりながらついて行く。
 ガサン!と音がして、ドゴン!と木が倒れる。森の間に空いた隙間から、小さな影が飛び出してくる。
 太陽を背に飛び込んでくるそれは、フェニアスでもオズワイルドでもない。もっと小柄な、素早い影だ。
 ワタルに思いっきり引っ張られ、ホタルは小屋の方に投げ飛ばされる。芝生がクッションになったとはいえ、頭を打ってホタルは咳きこむ。
 顔を上げると、ワタルが謎の影に跳ね飛ばされる瞬間が見えた。
「ぐはぁ……!」
 高くたかく飛び上がった影を追うように、血しぶきが上がる。ワタルのお腹から噴き出ている。さらに、肉やら腸やら、見えてはいけないものまで飛び散っている。
「ワタル!」
 ホタルは金切り声を上げて叫ぶ。ライオンのような生き物が、ワタルの上に覆いかぶさり、大きな爪を振り上げている。いや、よく見ればそれは武器だ。車のハンドルのように大きな円形の取っ手に、包丁ほどの刃物が三本も四本も並んだ武器だ。
 フェン姉妹が爆発的な加速を見せた。
 風を置き去りにして、武器が振り下ろされる直前、ライオンとワタルの間に滑り込む。彼女たちはエメラルドの光を引いて、ライオンを蹴っ飛ばす。
 ライオンは五メートルも吹っ飛び、芝生の上でぐりんぐりんと転がる。受け身をとった後、腹の底から湧きあがる咆哮を放つ。

「ぐぁああおおおん!」

 あまりの大きさに、大地が震えている。森がざわめいている。ホタルは両耳をパッと覆う。そうしなければ、鼓膜が焼き切れていただろう。
 フェン姉妹が、長いながいロープの両端を持って走り出す。ワタルがアイングラードで使っていたやつだ。
 二人はライオンの周囲をミキサーのように高速回転し、がんじがらめにする。パツンとはじける音がして、細切れにされたロープが舞い上がる。
「リーッ!ルーッ!邪魔するなぁぁあー!」
 予想外に甲高い声が轟き、ホタルは、それがライオンではなく人間なのだと気付く。怒りのままに叫ぶその顔は、ライオンの毛皮を被った、野性味あふれる男の子に違いなかった。
 その後ろ、森の向こうから炎の渦と共にフェニアスが帰ってくる。エクストリーマーが灰色に戻っている。守り人の王は、大剣を真横にして、平らな面を男の子の脳天に叩きつける。
「お前こそ――なぁにをしとるのだぁぁぁ!」
「ふギャぁ!」
 バゴぉン!という音で木々が揺れた。
 間違いなく頭蓋骨が砕け散ったと、ホタルは思った。それと、人の眼球はあんなに飛び出るものなのだと。



「いやーっ!わりいわりい!フェニアス様の客人だって知らなくてよー!」
 ライオンの毛皮を被った男の子が、バリバリとたてがみをかきむしっている。人懐っこい笑顔に、ホタルは騙されているのではないかと疑心暗鬼になる。
「全く貴様は、見境なく人を襲うのをやめぬか!もう少し遅ければ、ワタルは死んでいたぞ!」
 フェニアスが少年を叱咤する。その膝にワタルの顔を乗せ、ぱっくりと裂けたお腹のあたりを、優しい炎で撫でている。
「すみません……フェニアスさん……あぁ、でもしわわせ……」
 ワタルはというと、瀕死の重傷を負ったにもかかわらず夢見心地だ。プリーツスカートからのぞく、むっちりとした白い太ももに頬をうずめ、今にも天に上りそうな表情をしている。
「……スケベ」
 ホタルは人知れず毒づいた。
 ちなみに、帰ってきたのはライオンの少年だけではなかった。大きな亀の甲羅のようなものを担いだ、赤髪の青年も一緒だった。赤と言っても、フェニアスと違って、夕陽のようなオレンジに近い色だった。彼はベルナルグやリンドに手を上げ、挨拶している。
「俺はヴァルキリーってんだ!なぁ!あんたは?」
 少年が両足をじりじり動かして近寄ってきた。彼はオスライオン一頭を丸々さばいた毛皮を被っていて、それはそれは立派な佇まいだった。パーカーのフードのように被った頭皮にはふさふさのたてがみまでついていた。背丈はホタルやワタルとほとんど変わらなかったし、手つきはどちらかというとほっそりしていたが、先ほど見せた戦闘力は間違いなく人の域を超えていた。
「わ、わたしは……ホタル……」
 ホタルはどぎまぎしながら答える。
「ホタルってんのか!ほぇー!」
 ヴァルキリーは目をキラキラ輝かせる。彼は星空をまぶしたような水色の瞳をしていて、猫のようにしゃなりとした口元がキュートだった。そんな顔を近づけられ、ジロジロと見られるものだから、ホタルはドキドキしてまともに呼吸ができない。
「な、なぁに?」
「いんや、外界げかいの人って初めて見るからさ!」
 ヴァルキリーはふんすふんすと鼻を動かし、ホタルの首筋をかぐ。くすぐったくて身をよじったが、ムダ毛の処理が行き届いているのだと、ホタルは関係ないところで感心する。
外界げかいの女って、フェニアス様みたいに美人なんだな!」
「びっ……はへ!」
 ヴァルキリーがにかっと笑うので、ホタルは頬がかあっと熱くなるのを感じた。容姿をほめられたことなんて、十六年生きてきて一度も無い。スケベとかなんとか言う前に、頭が沸騰しそうだ。
「なんだとこらぁ!この野郎!」
「んごぉっ!」
 ワタルがけが人とは思えない速度で飛び起きて、頭頂部でフェニアスの顎を強打した。
 王様の頭がパチンコ玉のようにはじけるのを、ホタルは生まれて初めて見た。
「「「「フェニアス様!」」」」
 当然、周りにいた人間全員が慌てた。ヴァルキリーも。
「てめえ!王に何たる無礼を!」
 ライオンのような咆哮をかましながら、ヴァルキリーはワタルの胸ぐらを掴みあげる。
「やめろヴァル、お前のせいだ」
 フェニアスは口元を押さえながら、ヴァルキリーに手の平を向けていた。震えているのは、痛みに耐えているというよりも、笑いをこらえているように見えた。ホタルだけだろうか。
 しかし、オーガも、フェン姉妹も、お腹を抱えて笑っていた。遠くではベルナルグやリンドも、苦笑いを隠せないでいた。
 唯一違ったのがオズワイルドだ。
 彼は今までそうだったように、徹頭徹尾殺気立っていた。異様に長い薙刀のリーチを存分に生かして、ワタルの喉元にやいばを突きつけた。
 草地に緊張が走った。太陽が雲に隠された時のように、フェニアスが笑うのをやめた。
「しまえ、剣を」
 静かな怒りを、極限まで我慢したような物言いだった。
 オズワイルドは動じず、むしろ、眉間に入ったシワを深くした。
「いいえフェニアス様、私はこやつらが信用なりません」
 薙刀の鋭い切っ先が、ワタルの喉ぼとけに刺さる。ワタルがコクリと喉ぼとけを動かしただけで、ぷつんと血管が破れる。幼なじみの首筋に赤い筋を見て、ホタルは思わず右手で虚空を掴む。どうしようもなくとも。
「こいつは無礼を犯しました。そしてそこにいる女は、あなた様とさも対等であるかのように話す。王への敬意など微塵も感じません。外界げかいから来た人間だ。この腹に何を抱えているのか、見当もつきません。まさか掟を忘れたなどと言いますまい。我ら守り人は、入るを拒み、出るを拒む。全て幻獣を守るため、我らが命を賭して、この掟を守ると誓う」
「殊勝なことだオズワイルド。だが私はホタルとワタルを信じている。剣を納めよ」
 フェニアスの瞳の中に、ごうごうと炎が渦巻いているのが、ホタルの位置からでも見える。
 オズワイルドは渋々剣を引くが、間の悪いことに、ワタルがすぐに立ち上がり、オズワイルドに謝る。それも、最悪な言葉で。
「いやっ、えっ、わ、悪かったって、そんなつもりじゃ――俺――フェニアスさんにちゃんと謝るから――」
 オズワイルドは今度こそかっとなって、ワタルの首を絞め上げる。ホタルはまた叫びそうになる。
「フェニアス〝様〟だ!3000年もの永きに渡り、この秘境を治めてきた我らが王だ!貴様など、足下にも及ばぬ!私にその権限があるならば!まずは貴様の両手両足をそぎ落とす!それでもフェニアス様に謁見したいと与太話をのたまおうものならば!地を這い、泥をすすって!ようやく靴を拝む権利をやるところだ!」
 ホタルが叫ばなかったのは。
 ひとえに、フェニアスの怒りがあったからだ。
 めきり、とにぶい音がした。
 それは、オズワイルドの腕が折れる音に他ならなかった。
 握りしめているのはフェニアスだった。
「私はこの者たちを信じていると二度も言った!私の顔に泥を塗りたいのか!オズワイルド・バーンアウト!貴様が、足元にも及ばぬと蔑んだ者に、私は助けられたのだ!その手をどけよ!」
 燃えるような赤髪を振り回し、フェニアスは怒った。彼女の声は、ごうごうと唸るほのおそのものに他ならなかった。ルビーの瞳が、憤怒の炎で燃えさかっていた。熱波のようなものが彼女の足下から巻きあがって、ジッと言って芝生が燃え上がった。あまりの熱で蜃気楼が起き、怒れる彼女が何倍にも大きく見えた。この世にいるどんな生物よりも恐ろしかった。先ほどまで笑みをこぼしていたなどと、どこの誰が信じるだろうか。直接怒りを差し向けられたわけでもないのに、ホタルの両膝は、ガクガクと震えていた。
「……め!滅相もございません!我が王……!滅相も……」
 絵の具を溶かしたようにオズワイルドは青ざめ、ワタルの首を放した。薙刀を取り落とし、ベルトコンベヤーに載せられた荷物のように後ずさり、草地に額をこすりつけた。
「お前の考えていることはわかる」
 怒り冷めやらぬ彼女は、赤い布を見た猛牛のように鼻息荒い。
「私も、外界げかいの人間は全て敵だと思っていた」
 こめかみに浮いた血管が、怒りの大きさを物語っていた。
「私はホタルをこの手にかけようとした。同じ過ちを繰り返すでない」
 自らの手の平を見つめ、フェニアスはつぶやく。突然視線を向けられ、ホタルは反射的に身をすくめる。しかし、彼女の瞳は、美しいルビーのそれに戻っている。
「ホタルは……自らの命の灯火が消えんとするまさにその時、私の身を案じた……『逃げろ』と……」
 桜色の炎がオズワイルドの腕を癒していく様子を、ホタルは畏怖とともに見つめる。
「今お前の前にいる少女は、この王よりも高潔な魂を持った人間だと思い知るがいい」



「いってて……」
 ワタルはんべぇ、と舌を出して、喉元をさすっている。幸い、表面を少し切っただけのようだ。あとでフェニアスが治してくれるだろう。
 ホタルが駆け寄る前に、ヴァルキリーがぐりぐりと、踵でワタルににじり寄っていく。たったいま思いついた悪戯を耳打ちする親友のように。
「オズワイルドな?硬すぎんだよー」
「あ?あぁ……」
「気にすんな!あいつー……フェニアス様にご執心なんだ。十五回も振られてっから」
「じゅう!ごっ!?」
 ホタルが二人の目の前でしゃがみこんだ時、ワタルが女の子のように甲高い声を出した。
「大丈夫?ワタル」
 ホタルは左耳に髪をかけながら、反対の手でワタルの喉元に触れる。
「お?おうよ……じゅうご?」
 ワタルはよくわからない数字をつぶやいていた。
「フェニアス様は3000年も生きてっからなァー。俺なんか赤ん坊みたいなもんだし、オズワイルドだって赤ん坊みたいなもんさァ、相手になんか、されねって」
 頭の後ろでたてがみを揺らしながら、ヴァルキリーは笑う。
 ホタルは困惑気味に聞く。
「オズワイルドって……ヴァルキリーは、いくつなの?」
「俺は十五、オズワイルドは三十だ!」
「見た目はあんなに美人なのにな」
 ワタルがなんのけなしに言ってのけたので、ホタルはとたんに腹が立った。とは言え、バレるのは癪だったので、顔を背け、むっ!と地面に吐き出した。
「んあー。ん?んん」
 揺らされたゼリーのように不安定な心を、ふんすふんすという音がくすぐる。
「な、なぁに?」
 ホタルはまた頬が熱くなる。スカートを抱えて後ずさる。
 ヴァルキリーは上半身をぐいんと倒し、ホタルの首筋に鼻先をくっつける。
「ホタルって、すげーいい匂いがするなぁ!」
「へっ!?いやっ!」
 ホタルはたちまち恥ずかしくなって、アヒルの赤ちゃんのように走って、ワタルの背中に逃げ込んだ。
 ワタルがちょっと嬉しそうに肩を上下させていたが、ホタルはそれどころではない。三日前からお風呂に入っていないのに、同年代の子に体臭を隅々までかがれるなんて、恥ずかしいことこの上ない。穴があったら入りたいくらいだ。
「なんだよ、逃げなくたっていぃだろ?」
 ヴァルキリーはしゃがんだまますばしこく走り回って、ホタルの近くにやってくる。
 耳の裏にまた吐息がかかって、ホタルは声にならない悲鳴を上げる。
「ヴァル!」
 恥ずかしすぎて死ぬかと思ったその時、凛としたフェニアスの声が轟いた。
 名を呼ばれたヴァルキリーは、渋々立ち上がった。
「んあー……へいへい!」
 ライオンの毛皮をずりずり引きずりながら、ヴァルキリーは遠ざかっていった。
 その背中を見つめながら、ホタルはワタルの両肩に手をめり込ませた。幼馴染がギクリと震わせた後頭部に、ささやくように言葉を突き刺す。
「美人だと思ってたの?」
「へっ!?いや、だって、キレイ――」
 ワタルが否定しなかったので、ホタルは両手をもっとめり込ませた。



「あー!そういうことならかくまってやってもいい!」
 ヴァルキリーはけたけたと、朗らかに笑う。
「ここは安全だ!城は一カ月で落ちちまったが」
 オズワイルドのこめかみに稲妻が浮かんだのが、フェニアスには見えた。
「過信は禁物だ。まだ捜索の手が伸びていないだけということも考えられる」
「警戒は怠ってない。火をたく時は必ず三か所に分かれてダミーを。リーとルーがよく働いてくれてね」
 ベルナルグが、オズワイルドとヴァルキリーの間に割って入る。彼はいつも冷静な男だ。
「だが今後は、単独行動は控えるように」
 フェニアスは一応、ヴァルキリーに釘をさす。
「でもあいつら、森を荒らすぜ?ほっておけねえよ」ヴァルキリーてんで無関心だ。
「私たちを追っているのはオーサム・ドレイクだ」
 事態の深刻さを認識してもらわねばならない。その名を口にすることは、フェニアスにとって屈辱にも近いものだったが、やむを得ず打ち明けた。
「オーサム……?」
 ヴァルキリーはたてがみをばりばりとかいていたが、オーガはすぐに気付いた。
「まさか……入り口もやつが?」
 フェニアスは頷く。
「いずれ来ると予期していた相手だ。我々も覚悟を決めねばならぬ」
 オズワイルドには嫌悪が、ベルナルグやリンドには恐怖が、くっきりと浮かんでいた。
 フェニアスは、丸太の山の前でフェン姉妹が客人二人に飛びついて遊んでいるのを羨望の眼差しで見つめた。
 これが見納めかと思うと、胸の奥がチクリと痛まずにはいられなかった。
 それでも決断せねばならない。
「オーガ、みなを集めてくれ」
 自分は王なのだから。




 丸太の山に、数々の武器が立てかけられている。大きな斧、異様に長い薙刀、人を覆い隠せるほどの甲羅、弓矢、短剣、そしてかぎ爪。
 無用ないざこざを避けたかったフェニアスが、全員に武器を置くよう命じたのだ。自身の大剣も、同様にしている。
 リンドの隣に、同じくらいひょろりと細長い、ゲンキが加わっている。彼は甲羅の持ち主だ。あれは相当に重たいものだが、いつも、甘いマスクを崩すことなくひょうひょうと振り回している。若いのにたいしたものだと、フェニアスは感心している。
「あの……近い……」
 ホタルが火照った声で身をよじっている。
「いぃーじゃねーか!ホタル、すげーいい匂いするしなァー!」
 原因はヴァルキリーだ。何故かホタルに懐いてしまったようで、さっきからくっついてばかりいる。
「わたし……そんないい女とかじゃ……ない……」
 ホタルは膝とスカートを一緒に抱え、なんとか逃れようとお尻で移動している。当然だが、ヴァルキリーは磁石で引っ付いたようにぴったりとついて行く。
「あ?いぃー女だよ!なぁワタル!ホタル、こんなに可愛いのに――」
「あぁ!?………………あぁ………………」
 ワタルは一瞬、ヴァルキリーを刺し殺すのでは、と疑うほどに眉を吊り上げたが、ホタルが可愛いという点において意見が一致したらしい。最後は不承不承頷いていた。
 ホタルは真っ赤になって眉をハの字にしていた。否定して欲しかったのと、恥ずかしかったのと――おそらくは――嬉しかったのだろう。それぞれの割合は不明だが、色んな感情が入り混じった表情かおだった。
「全員そろったな」
 フェニアスは若者三人に断りを入れて、話し始めた。
「今はこれだけか……いや、これだけになっても、私に忠誠を誓ってくれることに、まずは感謝したい」
「とんでもない!」ゲンキが悲しそうな顔で叫ぶ。
「我が王、我らは命の輝き、その最後の一瞬まで、あなた様に捧げると誓いました」
「ありがとう、オズワイルド。さて、これからどうするかだが、まずは城の奪還について、現実的な話を進めたい」
「あの、そのことなんですけど」
 ヴァルキリーの頬を両手で押しながら、ホタルが声を上げる。
「わたしたち見たんです。あの基地の奥深くで、とんでもない兵器が作られているのを」



「ダインスレイヴ?」
 フェニアスはその名を繰り返した。
「ガンレイド家の宝刀と同じ名前だ」
 ベルナルグがリンドに素早く耳打ちした。
「熱波と……音波ねぇ……そう言われても、ピンとこんな」
 オーガは太い指で頬骨を撫でつけた。
 フェニアスたちが理解できていないことを、ホタルは敏感に感じ取ったようだった。ヴァルキリーをほとんど押し倒すようにして、身を乗り出した。
「フェニアスさん、最後に外に出たのはいつですか?」
「百年前だ。まともに出たのは」
「百年前って言ったら……!」珍しく深刻そうな顔をしてワタル。
「戦争してたころだわ……!」
 ホタルが親友と目を見張った。
「フェニアスさん、核は見ましたか?」
「……カク?」聞きなれない言葉だった。
「人類は、100年前には既に、たった一つで、街一つを破壊できる爆弾を作り上げていたんです」
「フッハッハッハッ!冗談がきついぞ!嬢ちゃん!いったい何を――」
「笑い事じゃないんです!」
 朗らかに笑うオーガに、ホタルはピシャリと言った。
「わたしの故郷は、その爆弾で三十五万人もの人が死んだ……そのうちの九万人は、たった一晩で命を落としたんですよ……!」
 ホタルはとても辛そうに、その事実を言った。まるで自分の肉親がみなこの世から消えてしまったような、そんな苦しさを感じた。彼女の言ったことが真実なのだと、フェニアスは思い知った。外界げかいの人間の科学力、その恐ろしさを。
 オーガもそれを悟ったのだろう、絶句していた。
「ふん、そんな兵器、恐るるに足らん」
 不機嫌そうに顔を傾け、オズワイルドがあおった。
「どうして!?」ホタルは電気が走ったように立ち上がる。
「どうしてそんなに自分を過信するの!?フェニアスさんがいなかっただけで、ひと月ももたなかったくせに!」
「なんだと娘ぇ!」
「やめぬか!」
 オズワイルドがホタルの方へ足を踏み出す前に、フェニアスは鋭く声を上げた。
「そのダインスレイヴが完成するのはいつなのだ」
「三日前に聞いた時には、猶予はあと二週間だ。って」
「モハティだな」
「でもこの二週間は、ダイウンスレイヴの期限じゃない。ここにいる幻獣をさらって、アメリカに連れ帰るまでの期限だ。って」
「あるいは、やつの余命か」フェニアスは思案する。
「ということは、扉をこじ開けるのはもっと前ということだな」
 ホタルはゆっくりと頷く。
「ホタルがその話を聞いたのが三日前……どれだけ楽観的に見積もっても、猶予はあと数日ということだ」
 みな、黙りこくった。
 自分たちに残された選択肢が、もうほとんどないということを、ここにいる全員が感じ取っていた。
 いつもおてんばなフェン姉妹でさえ、ピリピリと殺気立って、つま先立ちになっていた。
「フェニアス様、いかがなさいますか」
 オーガが、その巨体を屈め、ガラガラ声で言った。
 フェニアスは刹那の中熟考した。
 掟、人間の部隊、幻獣、モハティの野望、守り人としての責務、ドレイクの脅威、王としてとるべき道――様々なことが頭をよぎり、3000年の間に見た記憶が、走馬灯のように駆け巡った。
 最終的に下した決断が正しいものなのか、果たして、フェニアスにすらそれはわからぬ。
 しかし、それを微塵の迷いなく決断することが、間違いないのだと周囲の者に信じ込ませるのが、自らに課された使命なのだと理解している。それこそが、3000年もの永き年月としつきを生かされた理由なのだと。
 たとえ魂がすり減るような思いをしようとも、その歩みを止めてはならない。
「みなを外へ逃がす」
 フェニアスがそう言った時、守り人全員が、手足をもがれたように顔を歪めた。
 オーガが取り乱したように叫ぶのも、無理からぬことだった。
「……しかし!」
「もし扉がこじ開けられるような事態になれば、それはもはや、我々守り人の手には負えぬ。幻獣を守るという責務も……果たせないものと判断できる」
 フェニアスが言ったことを、オーガは理解したはずだ。彼は賢い。だからこそ、あえて口にするまい。
「幻獣たちにはなんと?」
 やはり、オーガの次の質問はそれだった。
「退避を提案する」
「退避?いったいどこに逃げろというのです?」
「向こうの準備が整う前に、先に外に出るのだ。世界中に散らばればあるいは、生き残る可能性もあるやもしれぬ」
 それが絶望的な選択肢であるということは、誰の目にも明らかだった。
 みなが目を伏せ、黙りこくっていた。
「ですが、扉の前には奴らがいます」
「オーガ、これは選択の問題ではない。やらねば我らに明日はない。ベルナルグ」
 フェニアスはベレー帽の青年を見つめた。
「かく乱を頼めるか」
「はい」
 ふさぎ込んだ表情を隠して、ベルナルグは頷いた。
「リンド、お前の足があれば離脱できるだろう」
「仰せのままに、我が王」
 リンドは胸に手を当て、うやうやしく跪いた。
「ゲンキ、お前がいればどれくらい持つか」
「三十分……無傷でなら十分。お約束できます」
 甘いマスクの青年は、神妙な顔つきでうつむいた。
「わかった。手短にすませよう。扉の中には私とオーガ、オズワイルドで入る」
「「はっ」」
 オズワイルドとほぼ同時に返事したオーガが、三度問う。
「説得はいかがいたしますか」
「私が話す」フェニアスは手短に答える。
「お前たちは扉の外から侵入者がいないか、見張っていてくれ」
 オーガも、オズワイルドも、自分が代わりになると言いたげだった。今この瞬間、叫び出してもおかしくない表情だった。それをしないのはひとえに、フェニアスへの忠誠心に他ならなかった。
「守り人がその責務を放棄するのだ。場合によっては、幻獣たちの怒りを買うやもしれん」
「盟約を破棄されると……?そうお考えですか?」
「そうなっても文句は言えんだろう」
「盟約を破棄されると、どうなるんですか?」
 フェニアスとオーガの会話に割って入ったのはホタルだった。紅と蒼、二つの瞳が、生まれたての子犬のように震えていた。
「幻獣と人間の間に結べる盟約は、人生で一度きりだ」
 努めて平静を保って、フェニアスは言った。
「盟約を結んだ人間が死ねば、幻獣の魂は在るべき場所へ還る」
「……それって!」ホタルは瞬時に理解したようだった。
「わたしも行きます!」すぐに大きな声を上げた。
「わたしが話します!」すぐにフェニアスの胸元に追いすがった。
 彼女の賢さと優しさに、フェニアスは舌を巻いた。自分など、到底及ばないほどのよき魂を持っているのだと、そう感じた。
 同時に、自分はこのを説得できないのだと、観念もした。
「だってわたしなら……どれだけ怒りを買っても、盟約してないんだもの!幻獣と……!」
 思いついた名案を、じっとりと脂汗を浮かべながらホタルは話す。その考えが、嵐を前にしたろうそくほどに頼りないのだと、彼女自身、わかっているのかもしれない。
 その様子を見て、オズワイルドが小ばかにしたように笑いだす。
「フッハッハッ!いい気になるなよ娘!盟約していないからと言って、幻獣の怒りを買わないわけではない!その怒りの矛先がどこへ向かうのか……」
「わたしはフェニアスさんに生きていて欲しいって!そう言いましたよね!?」
「フェニアス様……愚問です!この世界はおろか、扉の中へ外界げかいの人間を入れるなど!」
 二人が交互に、鬼気迫る表情で迫ってくる。フェニアスはどちらにも頷かず、二人の間の空間を、射抜くように見つめる。
 見ていた。
 存在しない未来を。
 ホタルの夢の話が、フェニアスに何か違う考えを植え付けたようだった。
 荒れ狂う海を乗り越えた先に見えた、二日ぶりの太陽のように輝いて見えた。
 いけない、それだけは。
 冷静な自分が否定する。
 王たるもの、それだけは、やってはいけない。
 しかし、これほどの――
 熱に浮かれたもう一人の自分が、理性を押しのけて浮かび上がってくる。
 希望を感じることなど、もう無いのだと思っていた。最後にこの感情を抱いたのは百年も前のことだ。忘れかけてさえいた。
 気をつけろ。
 消えかけるもう一人の自分が、警告する。
 お前の言葉一つで、人が死ぬ。
 フェニアスはまぶたを閉じる。
 そうだとも。
「私は既に、掟を一つ破っている――」
 覚悟を決めて、フェニアスは言う。
「私が連れて入る」
 その時が来たのだ。



 幼馴染がてきぱきと準備するのを、ワタルはそわそわしながら見ていた。
 草地での話し合いを終えた後、ホタルは迷いなく小屋の中へ入って、ワタルが持ってきた荷物を開封し始めた。フェニアスの話では、扉はまた、相当に遠いということだったから、長距離の行軍に必要なものをかき集めようというのだ。
 今は、自身が寝かせられていた腰高キャビの上に、トートバッグの中身を並べている。
 救急キットや残ったカロリーバー、どれを持って行くのか、吟味している。
「なあ、ホントに行くのか?」
 我慢ができなくなって、ワタルは一歩踏み出した。
 ホタルは気にする素振りも見せず、荷物の解体を続ける。
「行くわ。ここの人たちを見捨てられない。ほんのちょっとでもいい。力になりたいの」
「だからってお前が――」
「お前、お前って言わないで!辰巳たつみわたる!わたしはどんな時だって、見てみぬふりはしたくない!……?」
 高速メトロノームのように人差し指を揺らし、ホタルは詰め寄ってきた。ワタルが何も言えないでいると、ポニーテールの軌跡を残し、また荷物の解体に戻った。
 しかしホタルは、あるものを見つけてピタリと手を止めた。
 マズい――ワタルは反射的に、ホタルがまだ手を付けていない、えんじ色のリュックサックを引き寄せた。
「コンタクト?こんな時にコンタクト?」
 ホタルが振り向き、小屋の床に小さな箱を投げ捨てた。箱はバスンと跳ねて、ちょうど表面が上になって止まった。カラーコンタクトブラウンの表記が、そこにはあった。
「わたしの部屋に入ったの?」
 眉毛がくっきりと吊り上がっている。ホタルが本気で怒っているサインだ。
「いや、お前が必要なものって言うから――」
「入ったのね」
「……あぁ」
 二色の瞳に一生分見つめられ、ワタルは観念した。
「フェニアスさんの剣だって、必要なかったのに!」ホタルはもっと激高した。
「どうしていらないものばっかり持ってくるの!?ちょっと、そっちも見せて!」
 ホタルがものすごい剣幕で手を伸ばしてくる。持っていたえんじのリュックサックを取り上げられてしまう。
「あ、いや……」
 ワタルが情けなく手をさまよわせる前で、ホタルはリュックサックを真っ逆さまに持ち上げた。
「どうせゲーム機とか、おかしとか、そんなもの持ってきてるんでしょう?これ以上いらないもの持ってきてたら、わたし、ぜったいに許さない――」
 ホタルは突然、言葉を失った。
 どさどさと落ちてきたトリートメントやスキンケア、生理用品を見てそうなった。
 最後に巻き筆箱とスケッチブックがころりと出て来た時、ホタルはリュックサックを取り落とし、両手で口を覆った。
 幼馴染がそんな風に取り乱すなんて、ワタルは思ってもみなかった。
 ワタルが知っていたのは、ホタルが底抜けに優しいということだ。底抜けに優しくて、どうしようもなく自然が好きで、愛していて、そしてそれ以上に、人間のことを愛しているということだ。
 彼女は別に、誰かの敵になりたかったわけじゃない。ただ、大好きな植物が死んでいくことが、その先に、人類の滅亡が待っていることが、それを指を加えて見つめている自分が、許せなかっただけだ。
 スケッチブックをいつも持ち歩いているのを知ってる。
 ページの隙間がなくなるまで書き込んでいたのを知ってる。
 色えんぴつを、指先でつまめなくなるギリギリまで使い込んでいたのを知ってる。
 わかっている。
「お前は絶対認めないけど」
 ワタルはその場でしゃがみこんだ。
「俺は知ってた」ホタルがぶちまけた荷物を一箇所に集めた。
「お前がずっと……トイレで泣いてたのを……」
 発掘した時、コンタクトレンズの箱は大泣きした赤子のようにひしゃげていた。ワタルは手の平で軽くぱっぱと払い、箱を持って立ちあがる。
「だから……必要なものだ」
 自信なんてない。ましてや確信なんて、夢のまた夢だ。でも、彼女にどう思われようとも、どれだけ嫌われようとも、ワタルは同じ選択をするだろう。
 何百回でも、何千回でも。必ず。
「おかげでゲーム機、入らなかったけど」
 コンタクトの箱をキャビネットの上にきちんと置いて、幼馴染に向き直った。不安な中、勇気を振り絞って笑ってみると、ホタルはゆでた春菊のようにしおれた。
「……ごめんなさい――ごめんなさいわたし――」
 左手で口元を押さえたまま、右手で、ワタルの心臓のあたりを撫でた。
「わかってる」
 ワタルは、自らに伸ばされたホタルの手をとる。もう片方の手で、ホタルの頬に触れる。
 ホタルはびくっと肩を震わせたが、嫌がったり、逃げたりしない。紅い瞳と蒼い瞳で、ワタルをじい、と見上げてくる。
「本当は怖いのだって。逃げ出したいのだって――わかってる」
 ワタルは親指の腹で、ホタルの頬を撫でる。
 十六の女の子にとって、守り人たちの前でを切ることが、どれだけ勇気のいることか、自らの命をかけて挑むことが、どれだか怖いことか、そしてそれ以上に、彼女にとって、彼らに手を差し伸べられず、彼らが傷つくのを、目の前で見るしかできないことが、どれだけ恐ろしいことか。
 ワタルは全部、わかっている。
 ホタルが静かに目をつぶる。彼女が忌み嫌っていたオッドアイに、まぶたの上からそっと触れる。ホタルは怒らない。うっとりとした表情で、撫でられるのを受け入れてくれる。ワタルは思わず、ゴクリと唾を飲み込む。
「別に俺は、変だなんて――」
 バチューン!と大砲のような音がして、小屋の扉がほとんどふっ飛ぶように開いた。
 ワタルとホタルはそろって飛び上がり、火花が散ったように弾けて離れた。
「うおぉい!」壁に跳ね返った扉を押さえているのはマイラーズだ。
「準備ぃ!できたか!?」
 朗らかに吠えると、マイラーズはずけずけとやってきて、またホタルにくっつこうとする。鼻先がくっつきそうな距離でじろじろ見るものだから、ワタルは気が気ではない。
「うわ!ホタル!よく見たら、右と左で目の色が違うんだな!」
「え!?えぇ……うん……そうなの」
 半オクターブ高く声を滑らせながら、ホタルは左右の髪を何度も耳にかける。マイラーズはお構いなしに、さらに十センチも顔を近づける。
「うわーっ!綺麗だな!ルビーとサファイアみたいだ!」
「あ、あんまり見ないで……」
 恥ずかしさの限界を超えてしまったのだろう、ホタルは顔を真っ赤にして、石像でも押し倒すようにマイラーズを押しのけると、荷物整理を投げ出して逃げていった。
 スカートのヒラヒラが扉の向こうへ消えていくのを、自分の右手が無謀にも掴もうともがいた。届くわけなんてないのに、気がついたらそうしていた。
「どうした?ワタル」
 一ミリも悪びれていないマイラーズの顔が、視界の中に割って入る。
「……殴っていいか」
 ワタルは静かな怒りを拳に乗せた。
 せっかくのムードが台無しだ。幼馴染歴十と余年、初めて訪れたチャンスだったのに!
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