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千山万水五行盟(旅の始まり)
022:五行盟主(二)
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「そんなわけあるか。からかうなよ!」
「どうだか。周りを見てごらんなさい、みんな貴方のことが気になって仕方がない様子ですよ?」
「そ、そんなわけないだろ。俺が田舎者だから笑ってるだけだって……」
たいがい都から来た者たちは、煬鳳たちを見ると笑うのだ。蓬静嶺で他の奴らと顔を合わせたときだって、そうだった。
が、しかし。
なぜか皆の視線が、特に女性が煬鳳のことをチラチラと見てくるのだ。チラリと見てはひそひそと話し、気になって視線を向ければ真っ赤になって逃げだしてしまう。
その中の数人が突然美しい扇子を押し付けてきて、それでようやく凰黎の言っていることが嘘ではない、からかうためではなく――みな煬鳳が気になっていたのだという彼の話に納得した。
そのときだ。
「ひやっ!?」
驚きのあまり変な声が漏れる。
突然強い力で引き寄せられた煬鳳は、凰黎に両頬を包まれた。
唇に温かい感触が触れ、凰黎の額と己の額とがぴったりとついている。
――うっかりしていた。
予想外だったのは凰黎が彼女らに対して焼きもちを焼いてきたことだ。あろうことか五行盟本部で、人目があるにも関わらず凰黎は煬鳳を引き寄せ、さっと抱き上げた。
――嘘だろ!?
あまりの衝撃と驚きに煬鳳は頭を抱えたが、頭だけでは周囲から顔が見えてしまうことに気づき咄嗟に顔を両手で覆う。
当然ながら、滅茶苦茶周囲がどよめいた。
――皆に滅茶苦茶見られてるんすけど!?
一気に煬鳳たちに視線が集まっており、いくら好きだとはいえ人に見られるのは恥ずかしい。見ず知らずの者たちばかりなら、なおのこと。恥ずかしさのあまり凰黎の腕から逃れようとしたのだが、驚くほど強い力で抱き抱えられどうすることもできなかった。
「ちょっと、ほ、凰黎……」
必死で凰黎に訴えるも、凰黎が煬鳳を放す気配は無い。皆の視線を一心に浴びながら、煬鳳を抱えたまま悠然と凰黎は歩いてゆく。ようやく凰黎が開放してくれたのは、中庭の木陰にある椅子の上に彼を座らせた。
「すみません、あまりにも彼女たちが貴方のことを気に掛けている様子でしたので」
悪びれず、さらりと凰黎は言う。
「だ、だからって、人前であそこまでやるなんて……」
「貴方が誰の物であるかを知らしめる、良い機会だと思いまして」
「……」
凰黎は煬鳳のこととなると殊更妥協はしない。
「ああ、もちろん私は貴方の物でもあるのですよ? そこは安心してくださいね?」
加えて臆面もなくこんなことまで言い切るのだから、煬鳳はもう何も言えなくなってしまう。先程まで言おうとしていた言葉のあれやこれの全てを口にする事ができず、結局真っ赤になったまま煬鳳は俯いて頷くしかなかった。
それにしても、少し前とこんなにも違うとは。改めて煬鳳は、自分がいかに以前とは異なっているのかを思い知らされた。
見た目も、人から受ける扱いや印象も。
それから、傍にいてくれる人がいること。
全て以前の煬鳳には無かったものばかりだ。それもこれも、やはり全ては凰黎のお陰なのだ。
……改めて凰黎の偉大さを噛み締める煬鳳だった。
「あ、そういえばさ」
「なんです?」
「さっき、なんであいつ、凰黎のことを静公子って言ったんだ?」
危うく忘れかけていたが、雷閃候は確かに凰黎のことを『静公子』と言っていた。凰黎が嶺主代理――次期嶺主であることは煬鳳も知っている。
しかしだからといって『静公子』と凰黎を呼ぶのには違和感が残った。
「ああ――。普段は凰を名乗っていますが、本来私は嶺主様の養子ということになっているのです」
「何だって!?」
確かに息子同然に可愛がっているという話は蓬静嶺の者や、周りの者は大体知っている。しかし養子というのは初耳だ。しかも養子であって『凰』は名乗ったままというのも謎が残る。
「秘密にしていたわけでもないのですが、なにぶん複雑な事情がありまして……」
いつもと変わりないように見えて、凰黎の表情には微かな躊躇いが見える。他の者は気づかないかもしれないが、煬鳳には凰黎がそのことを気にしているのだとすぐに気づくことができた。
少なくとも、凰黎は理由なく煬鳳に隠し事をするような性分でもないし、煬鳳が願えばいつだって知りたいことは話してくれる。
だから、いま凰黎がこんな表情をしているのは、何か理由があるからだろう。
「ま、別に俺はなんでもいいさ。……それより、ここは窮屈で面倒だ。さっさと目的を済ませて帰ろう」
凰黎が言い辛いことを無理に聞いても仕方がない。
少々強引だが、この話を続けているよりはいいだろう。
「それもそうですね。早く済ませてしまいましょうか」
凰黎も内心ほっとしたのか、少しだけ表情が和らいだ。
「それにしても、あっちもこっちも忙しそうだな」
椅子に座りながら周りの様子を観察していた煬鳳だったが、のんびりと木陰で休む煬鳳たちとは対照的に、忙しなく動き続ける者たちがいる。先ほどの艶やかな女性や生まれ育ちの良さそうな男たちはどうか分からないが、ときおり鎧姿の男たちが周りにも目もくれず速足で通り過ぎていく。彼らは顔合わせに来たというよりはこれから戦地に赴く武人のようでもあった。
(まるでこれから戦いが始まるみたいだ……)
賑やかな都の様子からは、およそ戦があるようには見えないが、煬鳳の思い過ごしだろうか。
「いったい今日はどうしたのでしょう。……心なしか普段より物々しい雰囲気がありますね」
しかしぽつりと零した凰黎の言葉によって、五行盟の忙しさは普段からのものではないのだと、煬鳳は知った。
「普段からこうじゃないのか?」
「まさか。式典の前はこのように慌ただしくしていることもありますが、基本的に五行盟全体で動かなければならないような大事は起こらないのですよ」
「つまり……何か起こったってことか?」
「それはまだ、分かりませんけれど……」
凰黎が言いかけたときだ。
「静公子」
凰黎を呼ぶ声に顔を向けると、正房の方角から男がやってくるのが見えた。どうやら五行盟内部の取次ぎを担当するものらしい。見るからに気の弱そうな顔をした男は、まだ幼さを残した顔立ちで煬鳳とさほど変わらぬ年齢に思えた。青年は煬鳳たちの元までやってくると姿勢を正す。
「お待たせして申し訳ございません。現在緊急事態につき少々立て込んでおりまして……。しかし静公子のご用件を聞いて盟主様が是非にと仰い、面会を許可されました」
凰黎は五行盟のひとつの門派、蓬静嶺の嶺主代理だ。それなのに『面会を許可』とはいかがなものだろうか。さんざん待たされた上に横柄な返答を聞いて煬鳳は少々むっとした。
しかし凰黎の表情は変わらず柔らかで笑顔を崩さない。
「構いません。そのような大変な最中に盟主様にお時間を作って頂いたこと、感謝申し上げます」
取次ぎ役の男に丁寧に感謝の言葉を返す凰黎を見て、呆れる気持ちと感心する気持ちとが合わさってどんな顔をして良いか分からなかった。
* * *
「いい加減にしろ!」
五行盟盟主のいる部屋に入ると、怒号が飛んできた。もちろん煬鳳に向けてではなく、部屋の中にいる者たちに向けてだ。一歩踏み出しかけた足を出すか否かで躊躇って煬鳳は元の場所に足を戻す。叫んだのは先ほど会ったばかりの霆雷門の掌門、雷閃候だ。
そしてその隣に座って苦々しい顔で揉める彼らを見ているのが、蓬静嶺の嶺主である静泰還。
凰黎と共に清瑞山で暮らすようになってからというもの、彼の元に顔を出すことも時折あるが、普段から穏やかな様子の彼がこれほど不快感をあらわにしているのを見るのは初めてだった。
「岩山なら雪岑谷の者が一番に行くべきであろう!」
「この期に及んで岩山だから、はないだろう。谷主は今もなお閉閑修行に入っておられる。かようなことでお呼び立てする必要はあるまい。先鋒隊はいつも霆雷門と決まっていたはずだ!」
「いやいや、ここはやはり五行盟の中でも代表の瞋砂門が先陣を切るべきだ」
「それよりも、状況はどうなっているのだ」
「それなのだが一番初めに報せに来た者が言うには……」
「あの辺りは危険です、行くなら……」
先ほどの取次ぎ役の話から察するに、緊急事態のはずなのだが、彼らはお前がお前がと取り留めもなく言い争っている。静泰還が怒り叫ぶのも無理はないと、内心思ってしまう。
同時に一体何が起こったのか、それも気にかかるところではあるのだが。
「大切なお話のところ申し訳ありません。我々は盟主様に許可を頂いてこちらに通されたのですが」
しかしそんな一触即発の空気も顧みずに凰黎は部屋の中にいる者たちにむけて大きな声で言った。それまで言い争っていた掌門たちの視線が一斉に凰黎に向けられる。向けられた視線は自分より年長の者たちが殆ど。普段は尊大だと自負している煬鳳でさえも、反射的にたじろいだ。
「静公子、このような見苦しい場に呼び立てたこと、誠に申し訳ない」
「とんでもございません。盟主様。このような大変な時に時間を割いて下さったこと感謝しております」
「おお、そうかそうか。そう言って貰えるとこちらも助かる」
盟主と呼ばれた男は立ち上がると煬鳳たちの元に歩み寄る。服装は鎧ではなく上等な布地で仕立てられた丸襟の袍だったが、大股で歩く豪快さは武人そのもので荒々しい。元より厳つい体格をしているが立ち上がるとより一層それが顕著に分かった。そして同時に思い出す。この盟主とは初対面であったが、噂は耳にしたことがあることを。
――火龍殺の瞋九龍。
この地方が『睡龍の地』と呼ばれる所以。
今より遡ること三百年以上。九つの山よりも大きな火龍を打ち倒した男。それが瞋九龍だ。民より恐れられた火龍は彼によって大地に伏し、眠れる肉体は睡龍の山となり谷となった。当時から掌門であった彼は、年齢的にはゆうに三百歳を超えている。それでいて全く衰えることのない強靭な肉体と強い意志。昇仙も近いのではないかと噂されるほどの功績と実力だが、それでも彼が地上から旅立つ気配はまだない。皆はそんな彼を国のために地上に残る英雄だと誉めそやす。
もはや伝説として語られるほどの有名な話だったのだが、まさかそれが五行盟盟主のことだったとは、今の今まで煬鳳も知らなかった。
ある種の感動と驚き、そして少しばかりの畏怖を覚えながらも煬鳳は瞋九龍の姿を見つめる。人というよりはもはや獣にも近い気迫を感じるのは、既に人間を超越しているからなのだろうか。
そんな煬鳳の考えを知る由もなく、瞋九龍はにこやかに凰黎に語り掛ける。
「静公子は確か、清林峰へ行くための許可と神医への紹介状が欲しいのであったな」
「はい、盟主様」
隣に立つ煬鳳も何か言うべきだろうかと迷ったが、しかしここで何か言える立場でもなく、大人しく二人のやりとりを聞くしかなかった。
先程まで言い争っていた掌門たちも、今は二人の会話に注目している。……同時に煬鳳にも視線が注がれて『誰だこいつは』という感情をそこから察してしまった。
「どうだか。周りを見てごらんなさい、みんな貴方のことが気になって仕方がない様子ですよ?」
「そ、そんなわけないだろ。俺が田舎者だから笑ってるだけだって……」
たいがい都から来た者たちは、煬鳳たちを見ると笑うのだ。蓬静嶺で他の奴らと顔を合わせたときだって、そうだった。
が、しかし。
なぜか皆の視線が、特に女性が煬鳳のことをチラチラと見てくるのだ。チラリと見てはひそひそと話し、気になって視線を向ければ真っ赤になって逃げだしてしまう。
その中の数人が突然美しい扇子を押し付けてきて、それでようやく凰黎の言っていることが嘘ではない、からかうためではなく――みな煬鳳が気になっていたのだという彼の話に納得した。
そのときだ。
「ひやっ!?」
驚きのあまり変な声が漏れる。
突然強い力で引き寄せられた煬鳳は、凰黎に両頬を包まれた。
唇に温かい感触が触れ、凰黎の額と己の額とがぴったりとついている。
――うっかりしていた。
予想外だったのは凰黎が彼女らに対して焼きもちを焼いてきたことだ。あろうことか五行盟本部で、人目があるにも関わらず凰黎は煬鳳を引き寄せ、さっと抱き上げた。
――嘘だろ!?
あまりの衝撃と驚きに煬鳳は頭を抱えたが、頭だけでは周囲から顔が見えてしまうことに気づき咄嗟に顔を両手で覆う。
当然ながら、滅茶苦茶周囲がどよめいた。
――皆に滅茶苦茶見られてるんすけど!?
一気に煬鳳たちに視線が集まっており、いくら好きだとはいえ人に見られるのは恥ずかしい。見ず知らずの者たちばかりなら、なおのこと。恥ずかしさのあまり凰黎の腕から逃れようとしたのだが、驚くほど強い力で抱き抱えられどうすることもできなかった。
「ちょっと、ほ、凰黎……」
必死で凰黎に訴えるも、凰黎が煬鳳を放す気配は無い。皆の視線を一心に浴びながら、煬鳳を抱えたまま悠然と凰黎は歩いてゆく。ようやく凰黎が開放してくれたのは、中庭の木陰にある椅子の上に彼を座らせた。
「すみません、あまりにも彼女たちが貴方のことを気に掛けている様子でしたので」
悪びれず、さらりと凰黎は言う。
「だ、だからって、人前であそこまでやるなんて……」
「貴方が誰の物であるかを知らしめる、良い機会だと思いまして」
「……」
凰黎は煬鳳のこととなると殊更妥協はしない。
「ああ、もちろん私は貴方の物でもあるのですよ? そこは安心してくださいね?」
加えて臆面もなくこんなことまで言い切るのだから、煬鳳はもう何も言えなくなってしまう。先程まで言おうとしていた言葉のあれやこれの全てを口にする事ができず、結局真っ赤になったまま煬鳳は俯いて頷くしかなかった。
それにしても、少し前とこんなにも違うとは。改めて煬鳳は、自分がいかに以前とは異なっているのかを思い知らされた。
見た目も、人から受ける扱いや印象も。
それから、傍にいてくれる人がいること。
全て以前の煬鳳には無かったものばかりだ。それもこれも、やはり全ては凰黎のお陰なのだ。
……改めて凰黎の偉大さを噛み締める煬鳳だった。
「あ、そういえばさ」
「なんです?」
「さっき、なんであいつ、凰黎のことを静公子って言ったんだ?」
危うく忘れかけていたが、雷閃候は確かに凰黎のことを『静公子』と言っていた。凰黎が嶺主代理――次期嶺主であることは煬鳳も知っている。
しかしだからといって『静公子』と凰黎を呼ぶのには違和感が残った。
「ああ――。普段は凰を名乗っていますが、本来私は嶺主様の養子ということになっているのです」
「何だって!?」
確かに息子同然に可愛がっているという話は蓬静嶺の者や、周りの者は大体知っている。しかし養子というのは初耳だ。しかも養子であって『凰』は名乗ったままというのも謎が残る。
「秘密にしていたわけでもないのですが、なにぶん複雑な事情がありまして……」
いつもと変わりないように見えて、凰黎の表情には微かな躊躇いが見える。他の者は気づかないかもしれないが、煬鳳には凰黎がそのことを気にしているのだとすぐに気づくことができた。
少なくとも、凰黎は理由なく煬鳳に隠し事をするような性分でもないし、煬鳳が願えばいつだって知りたいことは話してくれる。
だから、いま凰黎がこんな表情をしているのは、何か理由があるからだろう。
「ま、別に俺はなんでもいいさ。……それより、ここは窮屈で面倒だ。さっさと目的を済ませて帰ろう」
凰黎が言い辛いことを無理に聞いても仕方がない。
少々強引だが、この話を続けているよりはいいだろう。
「それもそうですね。早く済ませてしまいましょうか」
凰黎も内心ほっとしたのか、少しだけ表情が和らいだ。
「それにしても、あっちもこっちも忙しそうだな」
椅子に座りながら周りの様子を観察していた煬鳳だったが、のんびりと木陰で休む煬鳳たちとは対照的に、忙しなく動き続ける者たちがいる。先ほどの艶やかな女性や生まれ育ちの良さそうな男たちはどうか分からないが、ときおり鎧姿の男たちが周りにも目もくれず速足で通り過ぎていく。彼らは顔合わせに来たというよりはこれから戦地に赴く武人のようでもあった。
(まるでこれから戦いが始まるみたいだ……)
賑やかな都の様子からは、およそ戦があるようには見えないが、煬鳳の思い過ごしだろうか。
「いったい今日はどうしたのでしょう。……心なしか普段より物々しい雰囲気がありますね」
しかしぽつりと零した凰黎の言葉によって、五行盟の忙しさは普段からのものではないのだと、煬鳳は知った。
「普段からこうじゃないのか?」
「まさか。式典の前はこのように慌ただしくしていることもありますが、基本的に五行盟全体で動かなければならないような大事は起こらないのですよ」
「つまり……何か起こったってことか?」
「それはまだ、分かりませんけれど……」
凰黎が言いかけたときだ。
「静公子」
凰黎を呼ぶ声に顔を向けると、正房の方角から男がやってくるのが見えた。どうやら五行盟内部の取次ぎを担当するものらしい。見るからに気の弱そうな顔をした男は、まだ幼さを残した顔立ちで煬鳳とさほど変わらぬ年齢に思えた。青年は煬鳳たちの元までやってくると姿勢を正す。
「お待たせして申し訳ございません。現在緊急事態につき少々立て込んでおりまして……。しかし静公子のご用件を聞いて盟主様が是非にと仰い、面会を許可されました」
凰黎は五行盟のひとつの門派、蓬静嶺の嶺主代理だ。それなのに『面会を許可』とはいかがなものだろうか。さんざん待たされた上に横柄な返答を聞いて煬鳳は少々むっとした。
しかし凰黎の表情は変わらず柔らかで笑顔を崩さない。
「構いません。そのような大変な最中に盟主様にお時間を作って頂いたこと、感謝申し上げます」
取次ぎ役の男に丁寧に感謝の言葉を返す凰黎を見て、呆れる気持ちと感心する気持ちとが合わさってどんな顔をして良いか分からなかった。
* * *
「いい加減にしろ!」
五行盟盟主のいる部屋に入ると、怒号が飛んできた。もちろん煬鳳に向けてではなく、部屋の中にいる者たちに向けてだ。一歩踏み出しかけた足を出すか否かで躊躇って煬鳳は元の場所に足を戻す。叫んだのは先ほど会ったばかりの霆雷門の掌門、雷閃候だ。
そしてその隣に座って苦々しい顔で揉める彼らを見ているのが、蓬静嶺の嶺主である静泰還。
凰黎と共に清瑞山で暮らすようになってからというもの、彼の元に顔を出すことも時折あるが、普段から穏やかな様子の彼がこれほど不快感をあらわにしているのを見るのは初めてだった。
「岩山なら雪岑谷の者が一番に行くべきであろう!」
「この期に及んで岩山だから、はないだろう。谷主は今もなお閉閑修行に入っておられる。かようなことでお呼び立てする必要はあるまい。先鋒隊はいつも霆雷門と決まっていたはずだ!」
「いやいや、ここはやはり五行盟の中でも代表の瞋砂門が先陣を切るべきだ」
「それよりも、状況はどうなっているのだ」
「それなのだが一番初めに報せに来た者が言うには……」
「あの辺りは危険です、行くなら……」
先ほどの取次ぎ役の話から察するに、緊急事態のはずなのだが、彼らはお前がお前がと取り留めもなく言い争っている。静泰還が怒り叫ぶのも無理はないと、内心思ってしまう。
同時に一体何が起こったのか、それも気にかかるところではあるのだが。
「大切なお話のところ申し訳ありません。我々は盟主様に許可を頂いてこちらに通されたのですが」
しかしそんな一触即発の空気も顧みずに凰黎は部屋の中にいる者たちにむけて大きな声で言った。それまで言い争っていた掌門たちの視線が一斉に凰黎に向けられる。向けられた視線は自分より年長の者たちが殆ど。普段は尊大だと自負している煬鳳でさえも、反射的にたじろいだ。
「静公子、このような見苦しい場に呼び立てたこと、誠に申し訳ない」
「とんでもございません。盟主様。このような大変な時に時間を割いて下さったこと感謝しております」
「おお、そうかそうか。そう言って貰えるとこちらも助かる」
盟主と呼ばれた男は立ち上がると煬鳳たちの元に歩み寄る。服装は鎧ではなく上等な布地で仕立てられた丸襟の袍だったが、大股で歩く豪快さは武人そのもので荒々しい。元より厳つい体格をしているが立ち上がるとより一層それが顕著に分かった。そして同時に思い出す。この盟主とは初対面であったが、噂は耳にしたことがあることを。
――火龍殺の瞋九龍。
この地方が『睡龍の地』と呼ばれる所以。
今より遡ること三百年以上。九つの山よりも大きな火龍を打ち倒した男。それが瞋九龍だ。民より恐れられた火龍は彼によって大地に伏し、眠れる肉体は睡龍の山となり谷となった。当時から掌門であった彼は、年齢的にはゆうに三百歳を超えている。それでいて全く衰えることのない強靭な肉体と強い意志。昇仙も近いのではないかと噂されるほどの功績と実力だが、それでも彼が地上から旅立つ気配はまだない。皆はそんな彼を国のために地上に残る英雄だと誉めそやす。
もはや伝説として語られるほどの有名な話だったのだが、まさかそれが五行盟盟主のことだったとは、今の今まで煬鳳も知らなかった。
ある種の感動と驚き、そして少しばかりの畏怖を覚えながらも煬鳳は瞋九龍の姿を見つめる。人というよりはもはや獣にも近い気迫を感じるのは、既に人間を超越しているからなのだろうか。
そんな煬鳳の考えを知る由もなく、瞋九龍はにこやかに凰黎に語り掛ける。
「静公子は確か、清林峰へ行くための許可と神医への紹介状が欲しいのであったな」
「はい、盟主様」
隣に立つ煬鳳も何か言うべきだろうかと迷ったが、しかしここで何か言える立場でもなく、大人しく二人のやりとりを聞くしかなかった。
先程まで言い争っていた掌門たちも、今は二人の会話に注目している。……同時に煬鳳にも視線が注がれて『誰だこいつは』という感情をそこから察してしまった。
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