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陳蔡之厄黒炎山(黒炎山での災難)

039:犀安騒動(二)

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 夕餉のあとは一時辰ほど夜市をまわってみたのだが、当然ながら霊剣や希少な剣などの類が見つかるわけもなく、適度に売り物を物色して二人は客棧きゃくさんへと戻ることにした。

「飯は美味かったけど、なんにも収穫がなかったのは残念だったな」

 寝台にごろりと横になりながら煬鳳ヤンフォンが言うと、「別にいいんですよ」と凰黎ホワンリィは言う。

「元々何か見つかることを期待したわけではなかったんです。もちろん煬鳳ヤンフォンの体のことですから、霊力をどうにかする手段は見つけなければいけません。ただ――今夜は二人で一緒にあちこち歩きたかっただけなので」

 そう言った凰黎ホワンリィの顔が、笑ったような泣きそうな顔に見えて煬鳳ヤンフォンは思わず息を飲んだ。凰黎ホワンリィはいつも穏やかで笑みを絶やさず、誰にでも優しい。怒る時だって本気で怒鳴るようなことはないし、大概は静かに穏やかに怒る。反対に悲しそうな顔を見たことは殆ど無いのだが、凰黎ホワンリィが泣きそうに見えた瞬間、胸が締め付けられた。

「ど、どうしたんだ? 凰黎ホワンリィ。なんか、泣きそうだ」

 動揺しながら、煬鳳ヤンフォン凰黎ホワンリィまなじりにそっと触れる。涙を零してはいないが潤んだ瞳からは今にも雫が零れ落ちそうに思えた。

「……なんでもないんです。ただ、こうして共に過ごせることが嬉しくて」
「そんなの、当たり前だろ。これからだって、ずっと一緒だ」
「本当に?」
「本当」

 煬鳳ヤンフォンが力強く頷くと、ようやく安心したのか凰黎ホワンリィの表情から憂いが消える。ほっとした瞬間に凰黎ホワンリィの腕が煬鳳ヤンフォンを包み込む。

凰黎ホワンリィ?」
「嫌がられているのではないかと……少し不安だったので」
「なんで!? 全然そんなことないぞ!?」

 急に突拍子もないことを言われ、煬鳳ヤンフォンは驚いて声をあげた。
 だって、そのようなこと、ただの一度だって思ったことが無かったから。
 けれどそんな煬鳳ヤンフォンに対し凰黎ホワンリィは肩を竦めると、きまりが悪そうに眉尻を下げた。

「御免なさい。……貴方が恥ずかしがっているのを分かっていても、つい我慢できなくて私はちょっかいを掛けてしまうので、実は嫌われているのではないかと」
「……」

 嫌ではないが、確かにそれはある。煬鳳ヤンフォンは人前で抱き合ったりすることがとにかく照れくさくて駄目なのだ。つい恥ずかしがってしまう。
 しかし、思い起こせば清瑞山せいずいさんを出てからというもの、煬鳳ヤンフォンは自分から抱き着くこともなかったし、何かあればすぐ照れて逃げようとしていたし、少々……いやかなり他人行儀だったかもしれない。一度や二度ならいざ知らず何度も恥ずかしがって逃げていたら、やはりどんなに相手を信頼していても不安になってしまうことだってあるだろう。どうにも人目につくかもしれないと思うと恥ずかしさが先に出てしまうのだが、それでも凰黎ホワンリィのことを嫌だと思ったことは一度もなかった。

(みんなの前で抱き抱えられた時はさすがに顔から火がでそうだったけど……)

 それだって、凰黎ホワンリィの焼きもちが嬉しくなかったかといえば、そんなことはない。恥ずかしいとは思っているが、同時にとても嬉しかったのだ。

 ――どうにも素直になれない性格だ。

 そのせいで凰黎ホワンリィを不安にさせてしまった。いつも笑顔でいる裏で、凰黎ホワンリィも不安を抱えていたのだと思うと申し訳なさで煬鳳ヤンフォンも泣きたい気持ちになる。

「ごめんな。俺、凰黎ホワンリィなら言わなくても何でもお見通しだって……甘えてた」

 凰黎ホワンリィの手を引き寄せ、その胸の中に顔を埋める。ぎこちない手つきで凰黎ホワンリィの背に腕を回すとぎゅっと抱きしめた。

「言葉が足りなくて、いつもちゃんと言ってなくて、ごめん」

 彼はいま、どんな表情をしているのだろうと思い煬鳳ヤンフォンは少しだけ体を離して顔をあげる。見上げた先には驚いたような凰黎ホワンリィの顔があった。

「でも俺は凰黎ホワンリィが好きなんだ。恥ずかしくてうまく口に出せないことが多いけど、俺はお前がいない毎日なんか考えられないし、凰黎ホワンリィの作る料理だって一番大好きだ。静かな清瑞山せいずいさんで二人きりの夜を過ごすのも、一緒に歩くのも、笑いあうのだって……ああ、駄目だ。うまく言えないや」

 懸命に言葉を紡ごうとしたのだが、やっぱり言葉が出てこなくなって、煬鳳ヤンフォンは溜め息をつく。そんな煬鳳ヤンフォン凰黎ホワンリィが暖かい眼差しで見つめている。その瞳の中に先ほどの不安そうな表情はなかった。

「そんなに可愛いことを言われたら、また悪戯をしたくなってしまいますよ?」

 囁く凰黎ホワンリィの言葉に煬鳳ヤンフォンは、ふっと表情を緩める。

「それでもいいよ。どんな凰黎ホワンリィでも、俺は好きだから」

 そんな凰黎ホワンリィが愛おしくて堪らなくて、煬鳳ヤンフォンはもう一度、もっと強く凰黎ホワンリィのことを抱きしめた。

    * * *

 翌日。身支度を調え朝餉を終えたあと、煬鳳ヤンフォンたちは五行盟ごぎょうめい本部へと向かった。

 『五行盟ごぎょうめい』と扁額書かれた入り口を通り抜け、受付へと向かう。相変わらず気の弱そうな青年が受付に座っていたので、煬鳳ヤンフォンたちは盟主に会いに来た旨を彼に伝えた。
 取次ぎのために奥へと青年は消え、煬鳳ヤンフォンたちは暫しその場で彼の戻りを待つ。前に五行盟ごぎょうめい本部を訪れたときもそうだったが、ピリピリとした雰囲気が辺りに充満している。

 以前のときは鉱山が崩れたせいだったからと聞いたし、皆が焦ったような雰囲気で会った事も納得の出来事だった。しかしあれからそこそこの日数が経っているにも関わらず、本部の中は前にも増して不穏な空気が渦巻いている。

五行盟ごぎょうめいってもしかして凄く忙しいのか?」
「私が嶺主りょうしゅ様の代理でここを訪れるときは大概のどかなもので、それこそ事務的な処理くらいしかしたことがないのですが……。それにしても今日も何ごとかあったようですね……」

 困惑した表情の凰黎ホワンリィは、そこまで言うと「もしや……」と小声で続けた。

「もしや?」
「嫌な予感がします」

 一体それは何なのか。凰黎ホワンリィに尋ねようかと思ったのだが、周りを囲む者がいることに気づき、煬鳳ヤンフォンは言葉を切った。
 今はまだ人に紛れて忍んではいるが、皆それとなくこちらに視線を向けている。五人、六人……もっといる。こんな大胆なことをしてくるのだから恐らくは五行盟ごぎょうめい本部所属の人間で間違いはないだろう。気配から察するに、彼らはじりじりと距離を詰めてきているようだ。

「大丈夫」

 煬鳳ヤンフォンの背に凰黎ホワンリィの手が触れた。先ほどの発言から、恐らく凰黎ホワンリィは彼らが何故煬鳳ヤンフォンたちを取り囲んでいるのか、おおよその見当がついているのだろう。

(奴らの目的は凰黎ホワンリィであるわけがない。ということは俺で間違いないだろう)

 しかし何故かという疑問も浮かんでくる。
 強行突破することもできない訳ではない。しかし五行盟ごぎょうめいの本部で騒ぎを起こしたくはない。

「皆さん、何か御用ですか? 我々はこれから、清林峰せいりんほうの事件を報告に行くつもりなのですが」

 煬鳳ヤンフォンの前に立った凰黎ホワンリィが堂々と言い放つと、様子を窺っていた者たちは顔を見合わせる。今まで気づかれていないとでも思ったのだろうか。

「用があるなら堂々とこちらに来たらどうですか。仮にもここは睡龍すいりゅうの平和を守る、五行盟ごぎょうめいの本部なのですよ。コソコソ取り囲むなんて、情けないですよ。盟主様はこのことをご存じなのですか?」
「なんだと!」

 凰黎ホワンリィの言葉に思わず男の一人が逆上したが、周りの数人に止められる。これでは隠れる意味もないと思ったのか、男たちはひそひそと耳打ちをし合ったあとで煬鳳ヤンフォンたちの前にやってきた。皆隠してはいるが剣やら暗器やら袖の中に武器を隠し持っている。そのうちの一人――明らかに取り囲んでいた男たちの指示役と思われる男が煬鳳ヤンフォンたちの前に進み出た。

ジン公子。隣の男を引き渡して貰いたい」
「お断りします」

 交渉から決裂までの時間は一瞬だ。

「そう仰いますな。これは盟主様からの指示でもあるのです」
「我々は受付で用件を話し、正当な手続きを踏んで今ここに立っているのですよ。しかも盟主様から受けた依頼の報告をするためにです。それなのにこの不躾な対応をもし盟主様がなさるのだとしたら、正義を守る五行盟ごぎょうめいは笑いものになるでしょうね」
「……」

 煬鳳ヤンフォンを渡す気などさらさら無い凰黎ホワンリィと、盟主の命令だと言う男。互いに一歩も譲る気が無く、暫し二人は睨み合う。

 煬鳳ヤンフォン凰黎ホワンリィを止めるべきか、二人で逃げるべきなのか迷った。とはいってもことを荒立ててしまったら凰黎ホワンリィ蓬静嶺ほうせいりょうにも迷惑がかかってしまう。せめて知り合いでもいてくれたら助けを求めることができるのに――そう思うと無茶をすることはできなかった。

「何をしている」

 別の方向から鋭い声が投げかけられた。一体どこからだと思っていると、離れた場所の大きな扉が音を立てて開く。

「盟主様! それに鸞快子らんかいし様!」

 部屋から出てきたのは鸞快子らんかいしと盟主こと瞋九龍チェンジューロンだ。そういえば鸞快子らんかいし五行盟ごぎょうめいで雑務を引き受けていると言っていた。いわゆる盟主の補佐のような立ち位置なのだろうか。

「盟主様。この者たちは盟主様からの命令だと言って、我々を無理やり捕らえようとしたのですが」

 やや怒気を孕んだ凰黎ホワンリィの言葉を、瞋九龍チェンジューロンは「ははは、すまぬ、すまぬ!」と笑い飛ばす。

(いや笑い事じゃないだけど……)

 と煬鳳ヤンフォンは思ったが瞋九龍チェンジューロンの反応からすると、どうやら敵意はないようだ。頭を掻きながら瞋九龍チェンジューロンは二人に歩み寄る。

「確かに連れてくるようにとは言ったが、力ずくで連れてこいとは言っておらぬ。暴れたり危害を加えるようなことが万が一あれば、とも言ったが、暴れてもいない者を取り囲んで無理強いしたら、怒るのは当然だろう。皆、散れ。ここは構わぬ」

 瞋九龍チェンジューロンが皆を手で追い払う仕草をすると、男は渋々頷いてその場から去っていった。

「気づくのが遅れて済まなかった。少々大事が起きてしまったのでな。皆殺気だっているのだ」
「それは黒冥翳魔こくめいえいまのことですか?」
「知っておったか。……その通りだ。良ければ入ってくれ」

 一瞬、凰黎ホワンリィが口にした名が記憶のどこかでひっかかったのだが、思い出す前に瞋九龍チェンジューロンに部屋へ入るよう促されたため、それどころではなくなってしまった。しかし部屋に入る前に振り返ると彼は煬鳳ヤンフォンたちに「少々辛い思いをするかもしれんが、覚悟するように」と言う。

「どういうことだ?」

 小声で凰黎ホワンリィに話しかけたが、凰黎ホワンリィは難しい顔をしている。

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