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海誓山盟明和暗(不変の誓い)

114:翳桑餓人(二)

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「ったく……遊びに行くんじゃないんだぞ」

 三人と一羽(?)を見ながら呆れた声で翳黒明イーヘイミンが言った。……が、すぐに煬鳳ヤンフォンたちに向けた視線をもう反対側にいる人物に移す。

「何か言いたいことがあるようだな」

 視線の先に立っているのは彩藍方ツァイランファンだ。彼は先ほどからずっと、翳黒明イーヘイミンのことを睨んでいた。

「……お前が使っているその体は、俺の師兄である彩菫青ツァイジンチンのものだ。忘れるな。俺は絶対に忘れないからな」

 翳黒明イーヘイミンはじっと彩藍方ツァイランファンを見る。煬鳳ヤンフォン彩藍方ツァイランファン翳黒明イーヘイミン、どちらかが喧嘩をふっかけるのではないかとヒヤヒヤしながらその光景を見守った。

「……忘れてはいない。ただ、自ら体を差し出したのはあいつのほうだ」

 静かに翳黒明イーヘイミンが言う。
 彩藍方ツァイランファンは震えている。歯を食いしばっているのは、翳黒明イーヘイミンに何か言いたかったことがあって、それを堪えているからなのか。煬鳳ヤンフォンには分からない。

「俺はこの体の主のことを大して知っているわけではないが……。己の思うように行かず、何もできない自分に絶望したのだろう。俺はお前の師兄が望むように世界を亡ぼす気はさらさらないが……」

 目を伏せ、翳黒明イーヘイミンは何かを考えている。

「この世に俺の未練はたった一つしかない。この期に及んで生きようという気もない。翳冥宮えいめいきゅうの件が片付いて、全てのことを成し終えたのなら。この体と体の主は彩鉱門さいこうもんに返そう。だからもう少しだけ待って欲しい」

 魔界まかい翳黒明イーヘイミン黒曜ヘイヨウから、翳冥宮えいめいきゅうで彼や彼の一族たちの身に起こったことを聞いている煬鳳ヤンフォンとしては、彼の返答は納得できるものであったのだが、翳黒明イーヘイミンの言葉は彩藍方ツァイランファンにとっては意外なものだったらしい。目を見開いて、翳黒明イーヘイミンのことを凝視している。

「嘘じゃないだろうな……?」
「嘘ならわざわざ恒凰宮こうおうきゅうで悠長にお前たちのことを待つことなどせず、ここからすぐにでも逃げ出しているだろうさ」

 翳黒明イーヘイミンはそう言って笑ったが、それでも彩藍方ツァイランファンは納得ができないようだ。

「本当か? 信じられねぇなあ」
「おいおい、彩藍方ツァイランファンもいい加減にしろよ。返してくれるって言ってるんだから大人しく聞いときゃいいんだよ」
「お前なあ、他人事だと思って……」

 彩藍方ツァイランファン煬鳳ヤンフォンに詰め寄ったが、凰黎ホワンリィが間に入って二人を宥める。

「はいはい。言い合いはそこまでにしてください。彩藍方ツァイランファン。あなたは我々の目的に納得して恒凰宮こうおうきゅうにやってきたのですから。今回は大人しく我々に従って頂けますね?」

 そう言われては彩藍方ツァイランファンも立つ瀬がない。肩を竦めると苦笑いで溜め息をつく。

「分かったよ。あんたにはほんと頭があがらないよ。ちぇっ」

 彼とて彩菫青ツァイジンチンが己の目の前で翳黒明イーヘイミンに体を明け渡したことを良く理解している。門弟たちが黒冥翳魔こくめいえいまを迎え撃とうと慌ただしくしている中で、足を駄目にしてしまって子供のお守りしかできなかった師兄。かつての栄光が輝いていればいるほどに、その鬱屈した思いは増大するばかりで絶望に歯止めがかからなかったのだ。
 五体満足な彩藍方ツァイランファンには、彼を責めることなどできるはずもない。

(もしも彩菫青ツァイジンチンが戻ってきたら……彩藍方ツァイランファンは、それに彩鉱門さいこうもん掌門しょうもんはどうする気なんだろうな……)

 そんなことをつい、煬鳳ヤンフォンは考えてしまった。


 凰神偉ホワンシェンウェイ燐瑛珂リンインクゥに留守を任せ、煬鳳ヤンフォンたち一行は恒凰宮こうおうきゅうを出発した。彩藍方ツァイランファン翳冥宮えいめいきゅうに直接関係はない。わざわざ翳黒明イーヘイミンの故郷で彼に協力するようなことはしないだろうと煬鳳ヤンフォンは思っていたのだが、

「何言ってんだよ。さっき凰黎ホワンリィが言った通り、俺は納得してここまで来たんだ。今さら行かないなんてことあるか!」

 と半ばやけくそ気味にそう言い切った。どうやら凰黎ホワンリィの一言は彼にかなり刺さったらしい。
 あのあと凰神偉ホワンシェンウェイはかなり長い時間のあとで煬鳳ヤンフォンたちのもとに戻ってきたのだが、鸞快子らんかいし凰神偉ホワンシェンウェイと共に戻ってきたことに煬鳳ヤンフォンは驚いた。一体いつの間に席を外していたのだろうか。彩藍方ツァイランファン翳黒明イーヘイミンをなだめるのに必死で、気づきもしなかった。

(あいつ、前に来たとき『自分は五行盟ごぎょうめいだから恒凰宮こうおうきゅうに入るのは遠慮しておく』って言ってたのにな)

 とはいえ、凰神偉ホワンシェンウェイ五行盟ごぎょうめいと全く関りがないわけではなく、五行盟ごぎょうめいに時折出入りする際に鸞快子らんかいしとも多少のやり取りはあったのかもしれない。
 かつては行商や恒凰宮こうおうきゅうとを行き来する人々も多かったようで、翳冥宮えいめいきゅうに向かう道は殆どその姿を残してはいなかったが微かに道があったことの窺える名残が見え隠れする。

 いまとなってはすっかり廃墟となって百年以上。あまりに凄惨な状態であったことなどから良くない噂ばかりが流れたこと。それに翳冥宮えいめいきゅうの小宮主ぐうしゅであった翳黒明イーヘイミンが我を忘れ自分を見失い、黒冥翳魔こくめいえいまと呼ばれ睡龍すいりゅうの地を混乱に陥れてしまったことから、最終的には花を手向けに訪れるものも全くいなくなってしまったのだそうだ。

翳冥宮えいめいきゅう恒凰宮こうおうきゅうからそう遠くはない場所にある。いまから出立してもさほど時間はかかるまい。この時期、本来はもっと雪が積もっているのだが……件の異常な気温の影響もあって、例年ほどは寒くない。子供の足でも歩くのには苦労しないはずだ」
「以前訪れたときも妙に暖かいと思いましたが、そういった理由があったのですね」

 凰神偉ホワンシェンウェイの言葉に凰黎ホワンリィは応える。徨州こうしゅうに比べれば北方に位置する冽州れいしゅうは比較的涼しいと思ったのだが、それでも暖かいほうだったようだ。
 異常な気温、というのは揺爪山ようそうざんに纏わる一連の事件に絡んでのことだろう。

 煬鳳ヤンフォンたちを先導する凰神偉ホワンシェンウェイは長剣を背負っていて、それが日の光を受けてきらきらと輝いている。あとで凰黎ホワンリィに聞いたのだが、恒凰宮こうおうきゅうの剣は水晶のように透明な素材で作られているのだとか。

(そういえば……)

 凰黎ホワンリィが普段使用している神侯シェンホウは、一見すると美しい以外は普通の剣に見える。しかしよく見ると装飾のところどころ透かしになっていて、その部分には透明な何か埋め込まれているのだ。
 それまで煬鳳ヤンフォンはそれを宝石か何かだと思っていたのだが、凰神偉ホワンシェンウェイの剣を見て二人の剣の一部は同じ素材で作られているのだということに気づいた。

 恐らくは恒凰宮こうおうきゅうとの繋がりを完全に失わぬよう――蓬静嶺ほうせいりょう恒凰宮こうおうきゅうどちらかが、願いを込めてそうしたのだろう。
 あるいはどちらかではなく両方だったのかもしれない。
 煬鳳ヤンフォンはふと鸞快子らんかいしのもとに駆け寄ると小声で問いかける。

鸞快子らんかいし、さっきは凰神偉ホワンシェンウェイと……凰黎ホワンリィの兄貴と何を話してたんだ? 随分長かっただろ」
「ああ。仙界せんかいの者がやって来たときに、どうやって凰黎ホワンリィを守るかということについて話し合っていた」
「何それ!? なんで俺も入れてくれなかったんだよ!」

 凰黎ホワンリィのことに自分が呼ばれないのは納得がいかない。煬鳳ヤンフォンは口を尖らせて鸞快子らんかいしに抗議する。鸞快子らんかいしは呆れたように煬鳳ヤンフォンを一瞥したあと、溜め息をつく。

「君は自分が傷つかないようにすることだけ気を付けなさい。凰黎ホワンリィの傍にいて、何かあればまず自分の身を優先する。それだけでいい」
「良くない! 凰黎ホワンリィが危険に晒されるかもしれないってときに、俺だけ自分のことばかり考えていられるか!」
「だから駄目だと言っている」

 鸞快子らんかいしは声を押し殺すようにして、煬鳳ヤンフォンの額を小突いた。大して痛くもなかったが、不意打ちだったので咄嗟に煬鳳ヤンフォンは目を瞑って額を抑える。

凰黎ホワンリィの運命はきみと一蓮托生だと心得えなさい。自分の命を危険に晒せば、必然的にそれは凰黎ホワンリィの弱みに直結する」

 凰黎ホワンリィも言っていた。彼らが凰黎ホワンリィを連れて行こうとするときに障害になるのは煬鳳ヤンフォンだ。彼らは躊躇なく煬鳳ヤンフォンを狙うだろうと。
 分かっているつもりだったが、すぐにそれを忘れてしまった自分を煬鳳ヤンフォンは恥じた。

「……悪かった。もう言わないよ」

 不意に頭に温かいものが触れる。見上げるとそれは鸞快子らんかいしの手だった。――怒ってはいないだろうか。そう思ってこわごわ表情を確認すると、彼の口元は微かな笑みを湛えたままだった。

    * * *

「随分久しぶりにここに来ました」

 崩れかけた黒い石碑。その前で凰黎ホワンリィが感慨深げに呟く。
 優しく撫でるように触れるその仕草に、ここが凰黎ホワンリィにとっても重要な場所であるのだと察してみな足を止める。

「こんなもの前からあったか?」

 不思議そうな顔で翳黒明イーヘイミンが石碑を見つめた。

「ええ。これは翳冥宮えいめいきゅうが滅んだあと、暫くして造られた石碑だそうですから。……翳冥宮えいめいきゅうで亡くなった全ての人の鎮魂を願い、当時の恒凰宮こうおうきゅう宮主ぐうしゅが建てたのだそうです」

 凰黎ホワンリィの言葉に、煬鳳ヤンフォンは懐から香包を取り出すと、中の石を掌に載せる。

「やっぱり、神羅石しんらせきに似てる……」

 煬鳳ヤンフォンは以前、凰黎ホワンリィが『翳冥宮えいめいきゅうへ続く道に建てられた石碑の石質によく似ていた』と言っていたことを思い出したのだ。掌の神羅石しんらせきと石碑とは、多少の質は違えど確かによく似ている部分が多かった。

「これは……翳冥宮えいめいきゅうの壁か柱か、その辺の素材で作ったのか? 材質が良く似てるな」
「詳しくは分かりませんが、惨劇があったことを忘れぬようにと恐らく翳冥宮えいめいきゅうの一部を石碑に使ったのではないかと思います」

 なるほどなあ、と何とも不思議な物を見るような表情で翳黒明イーヘイミンは石碑を観察している。小黄シャオホワンの腕の中にいた黒曜ヘイヨウも小さくぶるぶると体を振ったあと、石碑をじっと見つめた。
 せっかく慰霊の意味を込めて建てた石碑も、荒れ地に放置されっぱなしだったせいで見る影もないのはいささか寂しいものだ。殆ど文字は読み取ることができず、もとの形がどのようなものであったか分からないほどに崩れてしまっている。

 いまとなってはそれが石碑なのかどうか見分けることも難しい。
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