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第二話:見えない猫とコンポート
2-1:ホワイトチョコとルー・ブラン(1)
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僕が『ビストロ・ノクターン』に転がり込んでから数日が過ぎた。
相変わらず記憶は戻らない。
けれど僕にも一つ変化があった。それは『ビストロ・ノクターン』で働かせて貰うことになったという事だ。
……半ば無理やり拝み倒したという方が正しいかもしれない。
「きょっぴー、おはよう」
「おはようございます、ヴィクターさん」
僕がテーブルを拭いているとヴィクターさんがやってきた。毎朝一緒に掃除をした後は、ヴィクターさんにホールスタッフの心得や対応の仕方など、教えて貰っている。
もっとも、僕は要領が悪いからいつも足を引っ張ってばかりだ。
もう少し役に立てるように頑張らないとと思う。
「『さん』とかつけなくていいよ。……ボクたち同じ職場の仲間なんだし」
「え、でも……」
同じホールスタッフだから……ヴィクターさんは僕の先輩という事になる。そのヴィクターさんを呼び捨てにするのは……。
「面倒でしょ」
言葉から強い圧を感じて、僕は大人しく頷く。
「わかりました。ヴィクター……」
さん、と言いたくてもぞもぞしながら僕はそこで切った。なんとなくだけれど、たぶん記憶を失う前から僕はこういう性格だったような気がする。
今の自分の『さん』をつけないことによるもやもやで僕は納得した。
「おはようございます」
ジェドさんの声に僕は振り返るとそこには包帯でぐるぐる巻きのお化けがいた。その姿はまごうことなくミイラ男そのものだ。
「ギャーーー! ミイラ男!!」
「いや、余は元よりミイラ男ですが何か」
包帯ぐるぐるの中からジェドさんの声がする。
「ジェドさん!? なんで!?」
腰を抜かしてヴィクターに助け起こされながら、僕は震える声で訊ねた。ジェドさんはといえば、ぐるぐると包帯を外していく。
ようやくいつもの綺麗な顔が見えたことで、僕は思わず安堵の溜息をついた。
「昨晩乾燥注意報が出ていたので、念のため保湿クリームを塗って寝たんですよ。……包帯は保湿対策です」
「は、はあ……」
保湿対策って。
ヴィクターにしがみ付きながら僕は呆気にとられてしまった。
「おや、朝食はもう食べたのかい?」
厨房に入ると、アインさんが仕込みをしている所だった。
お店で出す料理のための下ごしらえのほかに、従業員用として分けてあるテーブルの上に食器が乗っている。
どうやらサラダと食パンが今日の朝食らしい。それに隅の小皿にホワイトチョコが積んである。こんな無造作に置いてあるってことは、おやつにどうぞって事なのかな?
そう思ってなんとなくひとかけら口に放り込んだのがまずかった。
「あっ、それは……!」
次の瞬間に、押し寄せる味より早く目に映ったのは、ぎょっとした顔のアインさんだった。
「んんんんんっ!? なんだ、これ!?」
甘いものだと思って放り込んだ欠片は予想に反してしょっぱかったのだ。口の中の違和感に思わず咳き込んでしまう。
「きょっぴー!?」
ヴィクターとジェドさんが咳き込む僕の背中を慌ててさすってくれた。
暫く二人に介護された後で、ようやく落ち着いた僕は口を開く。
「このチョコ……しょっぱかったです」
僕の言葉にジェドさんは大きなため息をついた。
「きょっぴー、これはチョコじゃなくてルー・ブランですよ」
「ルー・ブラン?」
初めて聞く名前に僕は首を傾げる。
「ホワイトソースの素、みたいなものです。これを溶かして、シチューやグラタンを作るんですよ」
そこまで言った後でジェドさんは時計を見た。
「まだ時間ありますね。……店長、グラタンに使えそうな具材、残ってますか?」
「それなら丁度今、まかないの材料準備しているところだから。少し使うといいだろう。他にさっき切った野菜なんかもあるよ」
見れば、アインさんの周りには茹でた野菜の鍋やら炒めた後の飴色玉ねぎなんかがスタンバイしている。
「ああ、それはおあつらえ向きですね。では少し頂きます」
ジェドさんはアインさんにお礼を言った後でガラスのボウルそれぞれに玉ねぎと茹でたじゃがいもとにんじんを取り分けた。
「あまり時間をかけてはお腹が空いてしまいますしね? お手軽に行きましょう」
少しお茶目な微笑みを見せた後でジェドさんは、さくさくとボウルの中のにんじんとじゃがいもをさらに細かく切り分ける。
そのあとで冷蔵庫から鶏の胸肉を取り出すと、綺麗に筋を取り除いて切り分けた。
次に油をひいた小さめのフライパンで、下味をつけた鶏肉にさっと熱を通してすぐ元の器に戻す。副料理長というだけあって、ジェドさんの包丁さばきも手際も迷いがなくてとてもスムーズだ。
「本当はそのまま全部材料ぶち込んでも、自分たちで食べるものだしあまり気にしないんですけどね。やっぱり焦げてしまったら勿体ないですから」
ジェドさんはそう言って笑う。
綺麗な笑い方をする人だけど、言うことは割と大胆な発言が多い気がする。
空にしたフライパンの中に牛乳を注いで温めると、じきにぐつぐつと湯気が立ち始めたのがわかった。
「あとはこれ、きょっぴーがホワイトチョコと間違えたルー・ブラン。これを鍋の中で溶かしたら、野菜と鶏肉を入れて軽く煮込むだけです」
そう言ったジェドさんのにこにこした視線が、明らかに僕の方を向いている。
ホワイトチョコと間違えた事を突っつかれると心底恥ずかしい。
思わず僕はジェドさんの視線から顔を外してしまった。
「あとはせっかくだから……」
きょろきょろと視線を巡らせた後、ジェドさんはお皿に乗せてある食パンを手に取る。
パンの表面に軽くマーガリンを塗った後で、鍋の中身を乗せていく。さらにその上にスライスしたマッシュルームらしきものとシュレッドチーズをふりかけて、最後に備え付けのオーブントースターの中にパンを入れてしまった。
「これでグラタントーストの完成です。……ドリアでも良かったんですけど、今日の朝食がパンなので活かしてみました。パイ生地で包んで焼いたりしても美味しいですよね」
ジェドさんのグラタンのバリエーションプランについて講義が終わるかという丁度その頃に、その後ろから「チン」とトーストが終了を告げる音を鳴らす。
相変わらず記憶は戻らない。
けれど僕にも一つ変化があった。それは『ビストロ・ノクターン』で働かせて貰うことになったという事だ。
……半ば無理やり拝み倒したという方が正しいかもしれない。
「きょっぴー、おはよう」
「おはようございます、ヴィクターさん」
僕がテーブルを拭いているとヴィクターさんがやってきた。毎朝一緒に掃除をした後は、ヴィクターさんにホールスタッフの心得や対応の仕方など、教えて貰っている。
もっとも、僕は要領が悪いからいつも足を引っ張ってばかりだ。
もう少し役に立てるように頑張らないとと思う。
「『さん』とかつけなくていいよ。……ボクたち同じ職場の仲間なんだし」
「え、でも……」
同じホールスタッフだから……ヴィクターさんは僕の先輩という事になる。そのヴィクターさんを呼び捨てにするのは……。
「面倒でしょ」
言葉から強い圧を感じて、僕は大人しく頷く。
「わかりました。ヴィクター……」
さん、と言いたくてもぞもぞしながら僕はそこで切った。なんとなくだけれど、たぶん記憶を失う前から僕はこういう性格だったような気がする。
今の自分の『さん』をつけないことによるもやもやで僕は納得した。
「おはようございます」
ジェドさんの声に僕は振り返るとそこには包帯でぐるぐる巻きのお化けがいた。その姿はまごうことなくミイラ男そのものだ。
「ギャーーー! ミイラ男!!」
「いや、余は元よりミイラ男ですが何か」
包帯ぐるぐるの中からジェドさんの声がする。
「ジェドさん!? なんで!?」
腰を抜かしてヴィクターに助け起こされながら、僕は震える声で訊ねた。ジェドさんはといえば、ぐるぐると包帯を外していく。
ようやくいつもの綺麗な顔が見えたことで、僕は思わず安堵の溜息をついた。
「昨晩乾燥注意報が出ていたので、念のため保湿クリームを塗って寝たんですよ。……包帯は保湿対策です」
「は、はあ……」
保湿対策って。
ヴィクターにしがみ付きながら僕は呆気にとられてしまった。
「おや、朝食はもう食べたのかい?」
厨房に入ると、アインさんが仕込みをしている所だった。
お店で出す料理のための下ごしらえのほかに、従業員用として分けてあるテーブルの上に食器が乗っている。
どうやらサラダと食パンが今日の朝食らしい。それに隅の小皿にホワイトチョコが積んである。こんな無造作に置いてあるってことは、おやつにどうぞって事なのかな?
そう思ってなんとなくひとかけら口に放り込んだのがまずかった。
「あっ、それは……!」
次の瞬間に、押し寄せる味より早く目に映ったのは、ぎょっとした顔のアインさんだった。
「んんんんんっ!? なんだ、これ!?」
甘いものだと思って放り込んだ欠片は予想に反してしょっぱかったのだ。口の中の違和感に思わず咳き込んでしまう。
「きょっぴー!?」
ヴィクターとジェドさんが咳き込む僕の背中を慌ててさすってくれた。
暫く二人に介護された後で、ようやく落ち着いた僕は口を開く。
「このチョコ……しょっぱかったです」
僕の言葉にジェドさんは大きなため息をついた。
「きょっぴー、これはチョコじゃなくてルー・ブランですよ」
「ルー・ブラン?」
初めて聞く名前に僕は首を傾げる。
「ホワイトソースの素、みたいなものです。これを溶かして、シチューやグラタンを作るんですよ」
そこまで言った後でジェドさんは時計を見た。
「まだ時間ありますね。……店長、グラタンに使えそうな具材、残ってますか?」
「それなら丁度今、まかないの材料準備しているところだから。少し使うといいだろう。他にさっき切った野菜なんかもあるよ」
見れば、アインさんの周りには茹でた野菜の鍋やら炒めた後の飴色玉ねぎなんかがスタンバイしている。
「ああ、それはおあつらえ向きですね。では少し頂きます」
ジェドさんはアインさんにお礼を言った後でガラスのボウルそれぞれに玉ねぎと茹でたじゃがいもとにんじんを取り分けた。
「あまり時間をかけてはお腹が空いてしまいますしね? お手軽に行きましょう」
少しお茶目な微笑みを見せた後でジェドさんは、さくさくとボウルの中のにんじんとじゃがいもをさらに細かく切り分ける。
そのあとで冷蔵庫から鶏の胸肉を取り出すと、綺麗に筋を取り除いて切り分けた。
次に油をひいた小さめのフライパンで、下味をつけた鶏肉にさっと熱を通してすぐ元の器に戻す。副料理長というだけあって、ジェドさんの包丁さばきも手際も迷いがなくてとてもスムーズだ。
「本当はそのまま全部材料ぶち込んでも、自分たちで食べるものだしあまり気にしないんですけどね。やっぱり焦げてしまったら勿体ないですから」
ジェドさんはそう言って笑う。
綺麗な笑い方をする人だけど、言うことは割と大胆な発言が多い気がする。
空にしたフライパンの中に牛乳を注いで温めると、じきにぐつぐつと湯気が立ち始めたのがわかった。
「あとはこれ、きょっぴーがホワイトチョコと間違えたルー・ブラン。これを鍋の中で溶かしたら、野菜と鶏肉を入れて軽く煮込むだけです」
そう言ったジェドさんのにこにこした視線が、明らかに僕の方を向いている。
ホワイトチョコと間違えた事を突っつかれると心底恥ずかしい。
思わず僕はジェドさんの視線から顔を外してしまった。
「あとはせっかくだから……」
きょろきょろと視線を巡らせた後、ジェドさんはお皿に乗せてある食パンを手に取る。
パンの表面に軽くマーガリンを塗った後で、鍋の中身を乗せていく。さらにその上にスライスしたマッシュルームらしきものとシュレッドチーズをふりかけて、最後に備え付けのオーブントースターの中にパンを入れてしまった。
「これでグラタントーストの完成です。……ドリアでも良かったんですけど、今日の朝食がパンなので活かしてみました。パイ生地で包んで焼いたりしても美味しいですよね」
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