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犬と猫2
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もう逃げよう、もう限界だと、何度思ったのだろう。十?五十?百?それとも千? その度、誰もが思うことだ、誰もが抱える苦痛だと言い聞かせ、どれだけ経つのだろう。
何かの拍子に。
何かが弾ければ。
――もう、飛ぶ。
そう思いながら存外に長い歳月が過ぎ、そのうち全てが掠れて擦り切れ、「時が来れば行く」という覚悟もただのお題目のようになった。やり過ごせる範囲は日々大きくなったり小さくなったりで、しかしその不確定の振れ幅の中を揺れている間は、少なくとも揺れているだけで済んだ。決して心地よくはなく、利子を返しているのに元本もかさんでゆくような息苦しさだが、細く息を続けて受け流していけば、ただ生きてゆける。受け流す、受け流す、受け流す――。
やれる、やれる、まだやれる。
決定的なことは何も起こっていない。
どう思われたって構わない。本当に蹴落とされるときは、すでに蹴落とされた後だ。だから、今はまだ、与えられた仕事を最低限でクリアしていればそれでいい。見ない振り、感じていない振りでやり過ごし、明日になれば誰も覚えていまい。
――しかし、時に心の奥底で誰かがつぶやく。
「落ちる前に、蹴落とされる前に、飛んでやれ」
「枠の外へ出れば、それはみじめですらない」
「何をしようと、どこにいようと、死ぬときはひとりだ――」
それでも、もう一人の自分が言う。無理だ、お前はこの社会で生まれ、この社会の一員としてしか生きてはゆけない。それは己の体と脳味噌が最初からそのように配線されているからであり、「枠の外」など存在しないのだ。そもそも行くところはどこにもなく、「飛ぶ」先など死しかない。それでもよければさあナイフを取れ。最初からそういう世の中であったのだ。
同僚が「あっちへ」と学を肘でつつき、自分は路地の方へと走り出した。颯爽としてもいないし、強くもなく、かといってヘビのような狂気もないが、マニュアルの果てのような自身の行動理念で、理性でも感情でもない何かをエネルギーに足を動かしている。あんな風になれたら、などとは微塵も思わないのだが、かといって今の自分が正しく、またそのように正されるべきだとも思えないのだった。小石のような違和感がやがて雪だるま式に日々のしがらみを巻き込んで大きくなり、抱えきれなくなったということか。最初の小石の有無がどこで決まるのかは定かでないが、少なくともそれを抱えない者の方が多いのだろう。――否、抱えている者は、淘汰されてしまうのだ、きっと、自分たちが生み出した幻影の進化論によって。すべてにおいて<斯くあるべし>の枠を設け、枠外の者を押し潰していく社会。而して、残ったエリートは優秀か。彼らが模範で、彼らが仕合わせか。枠の中で枠を作り、更に小さな枠を作り、やがては国民全部が枠外ではないのか。そうやって、「あの人たち」は滅んでいったんじゃないのか――。
「うわああーーー!!」
男がこちらを振り返り、突然金切り声を上げた。額に血管が浮き出し、真っ赤な目で歯を食いしばっている。自らの膝を思い切り叩き、ふらふらとよろめきながら植え込みの向こうへと歩いていく。
――処置3。処置3だ。五段階の三、まだまだ余地はある。そこまでわめく案件じゃないんだ、黙ってくれないか。
学は無言で後を追い、海に面した公園へと入った。朽ちた柵、割れたベンチ・・・、元は「うんてい」か何かだった棒の上では、猫が呑気に黄昏を眺めている。
「もういい、もういい!!」
男は猫の乗った棒を握り締め、学を睨み付けた。それから「ぐう・・・」と嗚咽を漏らし、空気をみな吐き出すと、「サヨウナラ!!」と叫んだ。そして、背負っていたリュックの中身をその場にぶちまけると、土に埋もれかけているレンガを掘り起こしはじめた。しかしそれを引っこ抜くことは出来ず、次に男は砂場に目をつけた。学は、この場合処置3がどうなるのか、頭の中のマニュアルをめくった。申し出、交渉、判断、連絡、再交渉・・・。報告はどういう順番になる? 先に上司か、先に同僚か、事が終わるまで全部見届けてからか、それとも「取り急ぎ連絡」ってやつか――。
男は、学と猫とに見守られながらリュックに砂を詰めた。「錯乱」と「不安定」の判定は? 「~を装っている」可能性は?
そうして、重さに振り回されるようにそれを背負い、胸の前で留め具をパチンと留めた。んん、とかああ、とかたわ言を吐いて、朽ちた柵にしなだれかかり、やがて、「ぐわっ」という驚きの声と、それから何本かの柵とともに男は海に落ちた。
学は、「脅迫にならない速度」を保って歩き、柵に近づいた。海といっても護岸の浅瀬だ。――ん、まさか「逃亡」に切り替えて追跡か? 判定はどうなる? 処置3はいつから・・・。
「おい、死ぬぞ」
「・・・」
「潮は満ちてる。いいのか、殺すのか」
音もなく、学の横に先ほどの猫がいた。学は三回息を吐いて、「いいんだ」と答えた。
何かの拍子に。
何かが弾ければ。
――もう、飛ぶ。
そう思いながら存外に長い歳月が過ぎ、そのうち全てが掠れて擦り切れ、「時が来れば行く」という覚悟もただのお題目のようになった。やり過ごせる範囲は日々大きくなったり小さくなったりで、しかしその不確定の振れ幅の中を揺れている間は、少なくとも揺れているだけで済んだ。決して心地よくはなく、利子を返しているのに元本もかさんでゆくような息苦しさだが、細く息を続けて受け流していけば、ただ生きてゆける。受け流す、受け流す、受け流す――。
やれる、やれる、まだやれる。
決定的なことは何も起こっていない。
どう思われたって構わない。本当に蹴落とされるときは、すでに蹴落とされた後だ。だから、今はまだ、与えられた仕事を最低限でクリアしていればそれでいい。見ない振り、感じていない振りでやり過ごし、明日になれば誰も覚えていまい。
――しかし、時に心の奥底で誰かがつぶやく。
「落ちる前に、蹴落とされる前に、飛んでやれ」
「枠の外へ出れば、それはみじめですらない」
「何をしようと、どこにいようと、死ぬときはひとりだ――」
それでも、もう一人の自分が言う。無理だ、お前はこの社会で生まれ、この社会の一員としてしか生きてはゆけない。それは己の体と脳味噌が最初からそのように配線されているからであり、「枠の外」など存在しないのだ。そもそも行くところはどこにもなく、「飛ぶ」先など死しかない。それでもよければさあナイフを取れ。最初からそういう世の中であったのだ。
同僚が「あっちへ」と学を肘でつつき、自分は路地の方へと走り出した。颯爽としてもいないし、強くもなく、かといってヘビのような狂気もないが、マニュアルの果てのような自身の行動理念で、理性でも感情でもない何かをエネルギーに足を動かしている。あんな風になれたら、などとは微塵も思わないのだが、かといって今の自分が正しく、またそのように正されるべきだとも思えないのだった。小石のような違和感がやがて雪だるま式に日々のしがらみを巻き込んで大きくなり、抱えきれなくなったということか。最初の小石の有無がどこで決まるのかは定かでないが、少なくともそれを抱えない者の方が多いのだろう。――否、抱えている者は、淘汰されてしまうのだ、きっと、自分たちが生み出した幻影の進化論によって。すべてにおいて<斯くあるべし>の枠を設け、枠外の者を押し潰していく社会。而して、残ったエリートは優秀か。彼らが模範で、彼らが仕合わせか。枠の中で枠を作り、更に小さな枠を作り、やがては国民全部が枠外ではないのか。そうやって、「あの人たち」は滅んでいったんじゃないのか――。
「うわああーーー!!」
男がこちらを振り返り、突然金切り声を上げた。額に血管が浮き出し、真っ赤な目で歯を食いしばっている。自らの膝を思い切り叩き、ふらふらとよろめきながら植え込みの向こうへと歩いていく。
――処置3。処置3だ。五段階の三、まだまだ余地はある。そこまでわめく案件じゃないんだ、黙ってくれないか。
学は無言で後を追い、海に面した公園へと入った。朽ちた柵、割れたベンチ・・・、元は「うんてい」か何かだった棒の上では、猫が呑気に黄昏を眺めている。
「もういい、もういい!!」
男は猫の乗った棒を握り締め、学を睨み付けた。それから「ぐう・・・」と嗚咽を漏らし、空気をみな吐き出すと、「サヨウナラ!!」と叫んだ。そして、背負っていたリュックの中身をその場にぶちまけると、土に埋もれかけているレンガを掘り起こしはじめた。しかしそれを引っこ抜くことは出来ず、次に男は砂場に目をつけた。学は、この場合処置3がどうなるのか、頭の中のマニュアルをめくった。申し出、交渉、判断、連絡、再交渉・・・。報告はどういう順番になる? 先に上司か、先に同僚か、事が終わるまで全部見届けてからか、それとも「取り急ぎ連絡」ってやつか――。
男は、学と猫とに見守られながらリュックに砂を詰めた。「錯乱」と「不安定」の判定は? 「~を装っている」可能性は?
そうして、重さに振り回されるようにそれを背負い、胸の前で留め具をパチンと留めた。んん、とかああ、とかたわ言を吐いて、朽ちた柵にしなだれかかり、やがて、「ぐわっ」という驚きの声と、それから何本かの柵とともに男は海に落ちた。
学は、「脅迫にならない速度」を保って歩き、柵に近づいた。海といっても護岸の浅瀬だ。――ん、まさか「逃亡」に切り替えて追跡か? 判定はどうなる? 処置3はいつから・・・。
「おい、死ぬぞ」
「・・・」
「潮は満ちてる。いいのか、殺すのか」
音もなく、学の横に先ほどの猫がいた。学は三回息を吐いて、「いいんだ」と答えた。
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