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枠外3
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「・・・この辺りから」
沈黙という水面から滑らかに、曲線的に躍り出た学の口が動いて、そこから音が発せられた。
「・・・え?」
「この辺りから一番遠くというと、覚はどこまで行ったことがある?」
抑揚なく発せられたその音は声であり言葉であり、問いだった。そして問いがいったい、まさしく事務的なそれなのか、それともそうでない俺の梯子であるのか、まだ判断はつかなかった。――それでも、「音」という目に見えない空中の、何かの大小や緩急なんかが俺に何かをもたらすというのが、あらためてやはり捉えどころがない現象だと思った。そんな感覚を体半分抱え、残りの半分で「だいぶ遠くまで」と答えた。
「だいぶ遠くというと、はは、たとえば富士山とか?」
「いや、そこまでは行かない」
「ふむ、でも、ここら一帯よりはもっとすごく遠くだね?」
「ああ、そうなる。・・・どうして」
「高いところへ行きたい」
「・・・なぜかね。初日の出でも拝む?」
「そうじゃない。さっき<枠外>の話をしたが、・・・ええと、したかな、とにかく、俺は今日これから<枠外>で、いや、<枠外を目指して>生きていくことにした・・・生きていく決意をすることにした・・・していく方向で決着した」
「・・・」
俺は斜めに怪訝な目を向けて先を促した。とんでもなく回りくどく、正確性を重んじるバカ正直なやつだ。間違いなく学の<思考>は「言葉」と直結している。
「そもそも、<枠外>とはこの現実の延長線上に、この平面上にあるものではない。そして<落ちる(堕ちる)>先でもない。・・・上なんだ。中空に浮いた別次元の方向なんだ。・・・いや、今のたとえに内実が伴わないのは分かっている。あくまで仮の<方向性>の問題だ」
「・・・うん、それで?」
「まあ、すなわち結びつくものではないが、概念上のたとえとしての<上>を実践するにあたって、とりあえず海抜いくつという数値を参照して取っかかりにしようというだけだ。答えがない場合、いくつかの何かを足がかりに参照事項を増やすよりない」
「俺は海抜は知らないけど、<上>ならあるよ」
俺は半ば、学の解説を途切るように口を挟んだ。すぐに繋げないと、忘れてしまう。霧散してぼんやりと次の飛び石を待つ前に!
「やつらの巨塔さ。他に何がある?」
「・・・巨塔とは大仰だな。向こうの、高層ビル群のことを言ってるのか?」
「行ったことはないけどな」
「・・・別に、俺はリスクの高さを言ってるんじゃないぞ。そういうつもりはない。ただ、単純に物理的な高さのことだ」
「・・・<そういうつもり>って、どういう?」
「・・・」
学はしばらく言葉を詰まらせ、急いで理屈をかき集めて家を組み立てていた。俺としては、ただそこに、・・・その辺りに、学にとって「疼く」ものがあるのかどうか、それを手のひらで撫でてみただけだ。
「<そういうつもり>というのは、つまり、君も分かっているとおり、何か不穏なにおいのする事柄さ。俺はそんなつもりは毛頭無いし、まったく違う事柄の話をしている。もし、万が一君が何か<そういうつもり>の筋の話をしてるなら、俺はそんなんじゃない」
「なるほどね。ところで俺は今日、朝方に月を見たんだ。青空にぽっかり浮かぶ白い月だよ、半月より少し垂れてもたついたくらいのさ。それが、どう見えたと思う?右下の、欠けてる部分が青っぽい影になって、まるで球のように見えたのさ。いつもは黄色い平面のくせに、生まれて初めてあれは丸いんだって、具体的に実感した。それについてどう思う?」
そう俺はまくし立て、問いを無理やり丸めて投げつけてやった。意味合いとしては、とりあえず少し勢いをつけて肘打ちをして、あとは二、三発殴って蹴っ飛ばす。要するに、身体がむずむずしたってことだ。すると、学は案外と早く答えをよこした。いろいろな機能が切り離し可能なのかもしれない。
「月は完全な球形だ。確かにそれをわざわざ実感する機会は少ないかもしれないが、実感してもしなくても、あるいは丸いものだと知っていてもいなくても、俺の手の届かないところの話だ。それの見解をどうこうするあれは俺にはないし、何というか、月に関する情緒や風流みたいな話だとするなら、そういうのは持ち合わせないから、どう思うかと言われれば、よくそんなものを見る余裕があるなと思った」
「・・・うん」
「風流の話をしていたのか?」
「いいや」
「じゃあ――」
学はふと気づいたように二秒ほど完全停止し、それから発言と思考を同時進行し始めた。
「いや、確かに、俺の手の届く話じゃないし、興味のあることでもないし、何にせよ範疇にないんだが、でも、それが逆に<枠外>の話なのか? いや、もちろん月に行けるとか行くとかそういう話でもないわけだが、それを取っかかりにするのであれば、天体が球形だという話で・・・。高さは申し分ない――いや、この場合高さという概念ではないか。――高さ? 高さというのは天と地があっての話か。ああ、高さという概念が既に<枠>の上だったんだな。――それで、君の質問意図は何だったのかな。立方体や幾何についての話か?」
「違うよ、俺がそれを思ったことをあんたはどう思ったかって言ってる」
「・・・だから、よくそんな余裕があるなと」
「じゃあいいよ、もう」
「あ、済まない、悪かった」
学が早口で謝るので、可笑しくなって笑った。学は弁解するように、「猫に憧れと嫉妬があった」と勝手に白状し、「気を悪くしたなら・・・」と、俺がいることに今更気づいたかのようにその場で頭を垂れた。俺はもういいやと思って、「いい寝床がある」と、立ち上がって風を切った。
沈黙という水面から滑らかに、曲線的に躍り出た学の口が動いて、そこから音が発せられた。
「・・・え?」
「この辺りから一番遠くというと、覚はどこまで行ったことがある?」
抑揚なく発せられたその音は声であり言葉であり、問いだった。そして問いがいったい、まさしく事務的なそれなのか、それともそうでない俺の梯子であるのか、まだ判断はつかなかった。――それでも、「音」という目に見えない空中の、何かの大小や緩急なんかが俺に何かをもたらすというのが、あらためてやはり捉えどころがない現象だと思った。そんな感覚を体半分抱え、残りの半分で「だいぶ遠くまで」と答えた。
「だいぶ遠くというと、はは、たとえば富士山とか?」
「いや、そこまでは行かない」
「ふむ、でも、ここら一帯よりはもっとすごく遠くだね?」
「ああ、そうなる。・・・どうして」
「高いところへ行きたい」
「・・・なぜかね。初日の出でも拝む?」
「そうじゃない。さっき<枠外>の話をしたが、・・・ええと、したかな、とにかく、俺は今日これから<枠外>で、いや、<枠外を目指して>生きていくことにした・・・生きていく決意をすることにした・・・していく方向で決着した」
「・・・」
俺は斜めに怪訝な目を向けて先を促した。とんでもなく回りくどく、正確性を重んじるバカ正直なやつだ。間違いなく学の<思考>は「言葉」と直結している。
「そもそも、<枠外>とはこの現実の延長線上に、この平面上にあるものではない。そして<落ちる(堕ちる)>先でもない。・・・上なんだ。中空に浮いた別次元の方向なんだ。・・・いや、今のたとえに内実が伴わないのは分かっている。あくまで仮の<方向性>の問題だ」
「・・・うん、それで?」
「まあ、すなわち結びつくものではないが、概念上のたとえとしての<上>を実践するにあたって、とりあえず海抜いくつという数値を参照して取っかかりにしようというだけだ。答えがない場合、いくつかの何かを足がかりに参照事項を増やすよりない」
「俺は海抜は知らないけど、<上>ならあるよ」
俺は半ば、学の解説を途切るように口を挟んだ。すぐに繋げないと、忘れてしまう。霧散してぼんやりと次の飛び石を待つ前に!
「やつらの巨塔さ。他に何がある?」
「・・・巨塔とは大仰だな。向こうの、高層ビル群のことを言ってるのか?」
「行ったことはないけどな」
「・・・別に、俺はリスクの高さを言ってるんじゃないぞ。そういうつもりはない。ただ、単純に物理的な高さのことだ」
「・・・<そういうつもり>って、どういう?」
「・・・」
学はしばらく言葉を詰まらせ、急いで理屈をかき集めて家を組み立てていた。俺としては、ただそこに、・・・その辺りに、学にとって「疼く」ものがあるのかどうか、それを手のひらで撫でてみただけだ。
「<そういうつもり>というのは、つまり、君も分かっているとおり、何か不穏なにおいのする事柄さ。俺はそんなつもりは毛頭無いし、まったく違う事柄の話をしている。もし、万が一君が何か<そういうつもり>の筋の話をしてるなら、俺はそんなんじゃない」
「なるほどね。ところで俺は今日、朝方に月を見たんだ。青空にぽっかり浮かぶ白い月だよ、半月より少し垂れてもたついたくらいのさ。それが、どう見えたと思う?右下の、欠けてる部分が青っぽい影になって、まるで球のように見えたのさ。いつもは黄色い平面のくせに、生まれて初めてあれは丸いんだって、具体的に実感した。それについてどう思う?」
そう俺はまくし立て、問いを無理やり丸めて投げつけてやった。意味合いとしては、とりあえず少し勢いをつけて肘打ちをして、あとは二、三発殴って蹴っ飛ばす。要するに、身体がむずむずしたってことだ。すると、学は案外と早く答えをよこした。いろいろな機能が切り離し可能なのかもしれない。
「月は完全な球形だ。確かにそれをわざわざ実感する機会は少ないかもしれないが、実感してもしなくても、あるいは丸いものだと知っていてもいなくても、俺の手の届かないところの話だ。それの見解をどうこうするあれは俺にはないし、何というか、月に関する情緒や風流みたいな話だとするなら、そういうのは持ち合わせないから、どう思うかと言われれば、よくそんなものを見る余裕があるなと思った」
「・・・うん」
「風流の話をしていたのか?」
「いいや」
「じゃあ――」
学はふと気づいたように二秒ほど完全停止し、それから発言と思考を同時進行し始めた。
「いや、確かに、俺の手の届く話じゃないし、興味のあることでもないし、何にせよ範疇にないんだが、でも、それが逆に<枠外>の話なのか? いや、もちろん月に行けるとか行くとかそういう話でもないわけだが、それを取っかかりにするのであれば、天体が球形だという話で・・・。高さは申し分ない――いや、この場合高さという概念ではないか。――高さ? 高さというのは天と地があっての話か。ああ、高さという概念が既に<枠>の上だったんだな。――それで、君の質問意図は何だったのかな。立方体や幾何についての話か?」
「違うよ、俺がそれを思ったことをあんたはどう思ったかって言ってる」
「・・・だから、よくそんな余裕があるなと」
「じゃあいいよ、もう」
「あ、済まない、悪かった」
学が早口で謝るので、可笑しくなって笑った。学は弁解するように、「猫に憧れと嫉妬があった」と勝手に白状し、「気を悪くしたなら・・・」と、俺がいることに今更気づいたかのようにその場で頭を垂れた。俺はもういいやと思って、「いい寝床がある」と、立ち上がって風を切った。
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