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化学物質1
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冬の遅い夜明け。乳を流したような白がくすんだ藤色の空に横たわっている。
てっきりもういないものと思ったが、覚はまだ隣で熟睡していた。学は目だけ開いて分散していた思考をゆるゆると集め、しばしの間、保留案件について考えることにした。
――とはいえ、猫は学が起きたことに、きっと気づいているだろう。
先ほどまでとほぼ同じ間隔の呼吸を心がけるが、学にも、覚が熟睡とみせてやや浅い眠りであることが分かった。何がどうだから、とはいえない。その違いはただ肌で感じるというよりないもので、理屈のつけられない身体感覚だった。
・・・いや、ふむ、昨夜と同様、学はそのことをよしとしたが、考えてみればそんなことはついぞ、久しい感覚だった。
――隣人の意識を意に介さず、我が思考を貫くとは。
考えが読まれているのでは、とまでは思わないが、石ころではない、精神のある者が視界に入った状態でまともな思考を紡げたことなど、記憶にある限りではもう思い出せなかった。
そして、それを意識してしまってなお、動悸も散漫も訪れない。その気配もない。
それはきっと、学と覚との決定的な違いがもたらしている僥倖だろう。猫は――存在としてのそれでなく、現実の一個体としてのそれは、およそ学にとって何者でもない。小石に等しいとまではいわないが、如何する相手でもない。
だから――本題に戻ろう。
学はまず、昨日自分の身に起こったことを余すことなく時系列に並べ、考えうる限りの検討、対応策、善後策を練ろうとした。練るべきだと思った。そうしてそれが全部済んでしまったらはたして、そのことをさておいて、未来の話をしようと思ったのだ。
――。
やめようか。
ふふっ、と鼻から笑いが漏れた。さすがに覚も起きるだろう。おや、起きないか。それならそれでいい――。
――学は、何も考えずに、庇の向こうの空を見つめた。ただひたすらに、べたっと絵の具を塗ったような藤色。その上に載った重たい感じの横長の雲。
・・・今日から自由、か。
自由というのは、朝に空を好きなだけ見ることだったか。
そんなことがしたいと望んだことは一回もないが、それをしながら深く息を吸い込んで枯葉のにおいを肺に溜め、ゆっくりゆっくり吐いてみれば、もうこれで十分かとも思った。すべてのことが億劫で、そして今日という日は何もしなくていい。一日くらい、食わずとも動かずとも何ということはない。ああ、この充足感。その先の虚無を見て見ぬ振りのもったいぶった優越感。学はもう一度、今度は少々わざと鼻を鳴らした。隣人の機嫌をうかがう必要はなく、期待に添えずとも知ったことではない。
昨日の反芻はやめだ。
未来の算段も、やめだ。
巨塔に行くなら行けばいい。<どんなつもり>だってどうだっていいさ。
――つと、やはり、いや、まるで身体の期待に応えるかのように、腹の底がぐうと重くなり、無意識に右の奥歯を食いしばった。
だめだ。やはりだめだ。それでは落とし前になっていない。「何かが欲しい」。空など見飽きた。やはり「何かが欲しい」。
首を振って、体を起こした。耳を立てて、辺りを見回す。そういえば今日は土曜だ。何だ、どちらにしても空を見る自由はあったのか。
――そして。
数十秒、何とはなしにぼうっと考え、昨日の砂袋の男はどうしたかなと思った。顛末を知っているのは学と覚だけ。同僚はもうその亡骸を発見しているだろうが、その事象の処理方法が何番になろうが、報告先がどこであろうが、もうすべてうやむやに投げ捨てて逃げてきた自分には考える必要もないし、たとえ処理方法が明確になったところで戻るつもりもないし、戻りたくないし、戻らない。
・・・と、そのような、「昨日のこと」に関する曖昧な認識はあった。しかし今、急に突然に、もしかしてこれは「処理ミス」とか「報告漏れ」とかの社内の問題じゃなく、警察が管轄する公の世界の<殺人事件>という枠の話になるのじゃないか? と、この期に及んで初めて、唐突に、思い至った。
まずは、今の今までまったくそのような認識に至らなかったことに驚き、笑いすら出た。ビビったり、ヤバいとも思わなかった。学は自分でも常々、この思考のステージやレベルや領域(フィールド)の狭量さ、融通の利かなさ、遊びのなさ・・・というか、縦横無尽なダイナミズムのなさみたいなものには辟易としていた。しかしまさか、こんなところでそれがいかんなく発揮されるとは。社内のマニュアルと人事にひたすら振り回され、情けなくもそれに自分を合わせ、ジャラジャラのパチンコ台とか、窓を伝う雨だれのような無意味なフロー表をひたすら見つめてその動向パターンを自らにインストールし、心身ともに「ウチ(弊社)」になってしまっていた自分には、「ひとごろし」という文字すら分からなくなってしまっていたようだ。
――土曜の朝に何も考えず空を眺める自由?
・・・糞っくらえだ。
てっきりもういないものと思ったが、覚はまだ隣で熟睡していた。学は目だけ開いて分散していた思考をゆるゆると集め、しばしの間、保留案件について考えることにした。
――とはいえ、猫は学が起きたことに、きっと気づいているだろう。
先ほどまでとほぼ同じ間隔の呼吸を心がけるが、学にも、覚が熟睡とみせてやや浅い眠りであることが分かった。何がどうだから、とはいえない。その違いはただ肌で感じるというよりないもので、理屈のつけられない身体感覚だった。
・・・いや、ふむ、昨夜と同様、学はそのことをよしとしたが、考えてみればそんなことはついぞ、久しい感覚だった。
――隣人の意識を意に介さず、我が思考を貫くとは。
考えが読まれているのでは、とまでは思わないが、石ころではない、精神のある者が視界に入った状態でまともな思考を紡げたことなど、記憶にある限りではもう思い出せなかった。
そして、それを意識してしまってなお、動悸も散漫も訪れない。その気配もない。
それはきっと、学と覚との決定的な違いがもたらしている僥倖だろう。猫は――存在としてのそれでなく、現実の一個体としてのそれは、およそ学にとって何者でもない。小石に等しいとまではいわないが、如何する相手でもない。
だから――本題に戻ろう。
学はまず、昨日自分の身に起こったことを余すことなく時系列に並べ、考えうる限りの検討、対応策、善後策を練ろうとした。練るべきだと思った。そうしてそれが全部済んでしまったらはたして、そのことをさておいて、未来の話をしようと思ったのだ。
――。
やめようか。
ふふっ、と鼻から笑いが漏れた。さすがに覚も起きるだろう。おや、起きないか。それならそれでいい――。
――学は、何も考えずに、庇の向こうの空を見つめた。ただひたすらに、べたっと絵の具を塗ったような藤色。その上に載った重たい感じの横長の雲。
・・・今日から自由、か。
自由というのは、朝に空を好きなだけ見ることだったか。
そんなことがしたいと望んだことは一回もないが、それをしながら深く息を吸い込んで枯葉のにおいを肺に溜め、ゆっくりゆっくり吐いてみれば、もうこれで十分かとも思った。すべてのことが億劫で、そして今日という日は何もしなくていい。一日くらい、食わずとも動かずとも何ということはない。ああ、この充足感。その先の虚無を見て見ぬ振りのもったいぶった優越感。学はもう一度、今度は少々わざと鼻を鳴らした。隣人の機嫌をうかがう必要はなく、期待に添えずとも知ったことではない。
昨日の反芻はやめだ。
未来の算段も、やめだ。
巨塔に行くなら行けばいい。<どんなつもり>だってどうだっていいさ。
――つと、やはり、いや、まるで身体の期待に応えるかのように、腹の底がぐうと重くなり、無意識に右の奥歯を食いしばった。
だめだ。やはりだめだ。それでは落とし前になっていない。「何かが欲しい」。空など見飽きた。やはり「何かが欲しい」。
首を振って、体を起こした。耳を立てて、辺りを見回す。そういえば今日は土曜だ。何だ、どちらにしても空を見る自由はあったのか。
――そして。
数十秒、何とはなしにぼうっと考え、昨日の砂袋の男はどうしたかなと思った。顛末を知っているのは学と覚だけ。同僚はもうその亡骸を発見しているだろうが、その事象の処理方法が何番になろうが、報告先がどこであろうが、もうすべてうやむやに投げ捨てて逃げてきた自分には考える必要もないし、たとえ処理方法が明確になったところで戻るつもりもないし、戻りたくないし、戻らない。
・・・と、そのような、「昨日のこと」に関する曖昧な認識はあった。しかし今、急に突然に、もしかしてこれは「処理ミス」とか「報告漏れ」とかの社内の問題じゃなく、警察が管轄する公の世界の<殺人事件>という枠の話になるのじゃないか? と、この期に及んで初めて、唐突に、思い至った。
まずは、今の今までまったくそのような認識に至らなかったことに驚き、笑いすら出た。ビビったり、ヤバいとも思わなかった。学は自分でも常々、この思考のステージやレベルや領域(フィールド)の狭量さ、融通の利かなさ、遊びのなさ・・・というか、縦横無尽なダイナミズムのなさみたいなものには辟易としていた。しかしまさか、こんなところでそれがいかんなく発揮されるとは。社内のマニュアルと人事にひたすら振り回され、情けなくもそれに自分を合わせ、ジャラジャラのパチンコ台とか、窓を伝う雨だれのような無意味なフロー表をひたすら見つめてその動向パターンを自らにインストールし、心身ともに「ウチ(弊社)」になってしまっていた自分には、「ひとごろし」という文字すら分からなくなってしまっていたようだ。
――土曜の朝に何も考えず空を眺める自由?
・・・糞っくらえだ。
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