冷血

あとみく

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化学物質2

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 突然に起き出して憤然と、あるいは奮然と前を見て歩く学の後ろ姿を見て、俺は駆け出した。
「おい、どうしたんだよ」
「いや、ああ、まあ、ここから離れようと思って」
「何があった」
「特に何も。自分の認識以外、外界の変化はない」
「認識って?」
 そこで学は角を曲がり、俺はその早足に追いすがった。一晩過ぎて、胸の中にある箱庭のようなこの世界のジオラマがどうなったか、ゆっくり眺める暇もありゃしない。

 それからしばらく、すっかり音が昼になるまで、一心に歩き続ける学の背中を見つめ続けた。時折ゆうべの青い缶を思い出したり、あのときのにおいがふとよみがえったりした。そういえば今までもこんな風に、いろいろなやつを追ったものだ。特に何を期待したわけでもないが、追えるのならそうしてみようと思うと足が動く。何かの、蜘蛛の巣か蔦くらいの繋がりを一瞬で切り離してそれを追う。土地に未練はない。今までの自分にも未練はない。唐突なほどいい。理由がないほどいい。
 
 学は時折思い出したように半分振り向いて、あるいは振り向かずにこちらを窺ったが、俺は気にせず、見失わない距離を保ってついていった。眩しいほどびっしりついた真っ赤な実や、青すぎる空の飛行機雲や、何だか分からない花のにおいを感じた。その度まったくすべてリセットしてしまうように気が逸れ、学はそうしようと思えば俺をまけたはずだが、そうはしなかった。昨日の死んだ男の件を気にしているのかもしれないし、巨塔の話を思案しているのかもしれない。
 そろそろどうかしようかと思った頃、ぷんと、<尖った斜め上>な感じのにおいが鼻をついた。先を歩く学も当然そのエリアに先に入っているが、そんなことはどうでもいいという感じだった。しかし俺はこれを嗅ぐと舌が痺れて不愉快なので、今までより足を早めた。そして、そういうところには大抵ガラの悪い連中がいるもので、建物の陰にいくつかの気配があった。
 学は先の角を曲がったが、方向が悪かった。建物と路地と塀がせまぜましく入り組んでいるから、雑草だらけの小道よりも屋根づたいの方がいいルートだろう。徐々に雰囲気の怪しさが増してきたが、学は頑なに同じ歩幅、同じスピードで歩き続けた。そうすることが義務であり、何人たりとも文句をつけるなと言わんばかりに。
 いよいよ俺は学に追いつき、さて、何て言おうかと思った。「よう、旦那」で適当に話を合わさせ、さっさと抜け出るか。あるいはもっと早くするなら、軽く取っ組み合って、全速力で追うか追われるか。
「・・・なあ」
 しかし、先に口を開いたのは学だった。おいおい、面倒にならないといいが。
「なあ、さっきから、この臭いの元は何だろうな」
「・・・」
「この辺りはもうやつらの工場なのか?何だかそういう臭いだ」
「・・・どうして今そんなことを訊く?」
「いや、ただ、何だろうと」
「何かの化学物質ってやつだろ?」
「化学物質か・・・。まあそうなんだろうな」
 学はやや投げやりにそう流すと、ポケットから包みを出して何かを口に含み、上向き加減で飲み下した。目を見ると、ぎろりと宙を睨んでいた。何もかもが憎らしく、腹立たしく、すべて壊してやりたいと、自らの爪を食い込ませて拳を握る――。それは俺の持ち得ない感情であり、持ち得ない炎だった。何にも所属しない俺は終始孤独で、ただ<圧倒的な何か>をうすぼんやりと待っている凡夫だ。そんなことは分かっている。分かっていないのは、ただただ、どこまで分かっていないのか、ということだ。
「今のは何? それも化学物質ってやつ?」
 俺はもう、歩を緩めてすっかり学と肩を並べた。こうなれば楽しくなってくる。面倒なことなどない、どこの誰がちょっかいかけてきたって、後先考えない孤独がひと暴れするだけだ。
「これはただの亜鉛だ。・・・ああ、いろいろなものをどこかで調達しなきゃならないな」
「いろいろなもの?」
「何かに必要ないろいろなものだよ」
「何かって?」
「俺が上へ行くための何か」
「・・・ふうん。当てはあるのか? 誰かに手を借りる?」
「さあ」
「・・・亜鉛か、それよりもっといいものとか、欲しいと思わない?」
「・・・」
「工場ってのはそういうものをいろいろ作ってる。やつらは俺たちが入ってくるなんて思ってもいないし、眼中にもないからちょろいよ」
「入ったことがあるような口振りだな」
「ある。・・・まあ、何もしてない。入っただけだ。追い出されもしなかった」
「何をしに行った」
「何も」
「そういうことをして帰ってこなかったやつだっているだろう」
「知らねえよ。入れたから入った。出れたから出れた」
「反逆心か、反骨精神か?」
「くふっ、そっくりそのまま返すよ。俺にはそんなものない」
 学は、どれがどれのことか分かりかねる、というように顔をゆがませた。少々不穏な話をしていたら、いつの間にかまた景色は変わっていた。
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