冷血

あとみく

文字の大きさ
15 / 35

侵入4

しおりを挟む
 建物の中は暗く、冷えていた。
 学は小さなペンライトを出そうと鞄を探ったが見つからず、しかし代わりにその手は失くしたと思っていた折りたたみ傘に触れた。
 ――あった。
 一度鞄の整理をしたときベンチに置きっぱなしたと思い、そのような認識と記憶で間違いないと結論づけたというのに、こんなにあっさりと内ポケットに入っているとは。学はまず安堵と喜びを覚え、それから先ほどの自分の反芻内容に疑問を抱き、それから世界の秩序を言祝いだ。
 ――自分の手を離れたとたん、無用の長物になってしまう、諸々の物体たち。
 誰かに盗られたのならそれでいい。壊れたのなら仕方ない。しかし、自分の管理がわずかばかり至らなかったばかりに意味ある物体がゴミと化すのは、学には許せなかった。
 大仰な言葉を使えば、「文明への敬意」とでも言おうか。今後の自分たちにそれを復興させ、盛り立てていく力はない。先細りしていく工業力――否、そもそもの理解力が「維持」のラインを下回り続ける以上、その分野は確実に失われてゆく。今はまだ台風の後に傘の屍が転がるが、やがていつの日か破れ傘を奪い合う日が来て、その後は、雨を避けるという行為を忘れるのだろう。
 何をも生み出すことはなく、貧困へ、心も体もただただ貧困へと移行してゆく世界。野蛮な弱肉強食、不衛生と病気、そして何より、ものを考える理性というものが徐々に通用しなくなり、そして考えるということ自体を忘れてゆく――。
 学は暗い未来に思いを馳せたが、しかしそれは世界全土の暗雲というより、ただ自分自身の不安と恐怖であることに気がついた。手のひらで持てるような小さな暗雲が学ただひとりの頭上に浮かんでいるのなら、そんな状態はやや馬鹿馬鹿しく思えてくる。そら、その証拠に、横を歩く覚の頭上は暗雲どころか、まるでお花畑じゃないか。
「なあ、マナブさん。こういうのっていいよなあ、俺は見るたびうっとりする」
「この、置物だか飾りだかろうそくだか?」
「石鹸だろ?」
「ああ、そうか」
 石鹸なら使い道がある、と真っ先に思い描いたのが職場と寮の洗面台だったが、それらの補充を考える必要はなく、在庫やコスト計算もすでに学の手から離れた事柄だ。学にとって石鹸などというのは一個いくらという数字上の概念でしかなく、また、ありとあらゆるものを除菌シートで拭いてまわる生活の中では、気休めですらない、洗面台に立つ隣人への清潔アピールでしかなかった。しかしそんなものを覚はまるで世にも素晴らしい宝石のように眺め、いとおしそうに指先でその縁をなぞっている。まったく、この世の客観性はどこにあるのだ。
「ほら、こんなにきっかり四角いし、しかも真ん中に彫り物がしてある。どんな刃物で削るんだろう。それとも型を取るのか」
「石鹸としては使いにくそうな形だな。何かの記念品や贈答品の余り物だろう。ほぼ価値はない」
「色が透けたようなのもある。どうやって違う色のを組み合わせるんだろう。何だか、食い荒らしたくなってくる」
「食うなよ、食い物じゃない」
「全部、最終的には、口に入れてこの歯で噛むというのが、すべての落ち着きどころなんじゃないのかね」
「・・・人によるだろう」
 覚はそれを聞くと独り何かに納得したようで、「ああそうだ、人によるんだろう。それが答えだ」と、目を見開いたままにやけた。そのまま立ち止まっているので学が二、三歩先へ歩くと、ふいに耳元でぶん、と音がし、奥のほうで壁にどかんと何かがぶつかった。一瞬遅れて思考が戻り、学は音の方向から、覚が背後から石鹸を思い切り前へ投げつけたのだと理解した。意図が不明なので単なる迷惑行為として切り捨てようとしたとき、ジリリリリリ・・・と警報装置が部屋の空気を震わせた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...