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侵入4
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建物の中は暗く、冷えていた。
学は小さなペンライトを出そうと鞄を探ったが見つからず、しかし代わりにその手は失くしたと思っていた折りたたみ傘に触れた。
――あった。
一度鞄の整理をしたときベンチに置きっぱなしたと思い、そのような認識と記憶で間違いないと結論づけたというのに、こんなにあっさりと内ポケットに入っているとは。学はまず安堵と喜びを覚え、それから先ほどの自分の反芻内容に疑問を抱き、それから世界の秩序を言祝いだ。
――自分の手を離れたとたん、無用の長物になってしまう、諸々の物体たち。
誰かに盗られたのならそれでいい。壊れたのなら仕方ない。しかし、自分の管理がわずかばかり至らなかったばかりに意味ある物体がゴミと化すのは、学には許せなかった。
大仰な言葉を使えば、「文明への敬意」とでも言おうか。今後の自分たちにそれを復興させ、盛り立てていく力はない。先細りしていく工業力――否、そもそもの理解力が「維持」のラインを下回り続ける以上、その分野は確実に失われてゆく。今はまだ台風の後に傘の屍が転がるが、やがていつの日か破れ傘を奪い合う日が来て、その後は、雨を避けるという行為を忘れるのだろう。
何をも生み出すことはなく、貧困へ、心も体もただただ貧困へと移行してゆく世界。野蛮な弱肉強食、不衛生と病気、そして何より、ものを考える理性というものが徐々に通用しなくなり、そして考えるということ自体を忘れてゆく――。
学は暗い未来に思いを馳せたが、しかしそれは世界全土の暗雲というより、ただ自分自身の不安と恐怖であることに気がついた。手のひらで持てるような小さな暗雲が学ただひとりの頭上に浮かんでいるのなら、そんな状態はやや馬鹿馬鹿しく思えてくる。そら、その証拠に、横を歩く覚の頭上は暗雲どころか、まるでお花畑じゃないか。
「なあ、マナブさん。こういうのっていいよなあ、俺は見るたびうっとりする」
「この、置物だか飾りだかろうそくだか?」
「石鹸だろ?」
「ああ、そうか」
石鹸なら使い道がある、と真っ先に思い描いたのが職場と寮の洗面台だったが、それらの補充を考える必要はなく、在庫やコスト計算もすでに学の手から離れた事柄だ。学にとって石鹸などというのは一個いくらという数字上の概念でしかなく、また、ありとあらゆるものを除菌シートで拭いてまわる生活の中では、気休めですらない、洗面台に立つ隣人への清潔アピールでしかなかった。しかしそんなものを覚はまるで世にも素晴らしい宝石のように眺め、いとおしそうに指先でその縁をなぞっている。まったく、この世の客観性はどこにあるのだ。
「ほら、こんなにきっかり四角いし、しかも真ん中に彫り物がしてある。どんな刃物で削るんだろう。それとも型を取るのか」
「石鹸としては使いにくそうな形だな。何かの記念品や贈答品の余り物だろう。ほぼ価値はない」
「色が透けたようなのもある。どうやって違う色のを組み合わせるんだろう。何だか、食い荒らしたくなってくる」
「食うなよ、食い物じゃない」
「全部、最終的には、口に入れてこの歯で噛むというのが、すべての落ち着きどころなんじゃないのかね」
「・・・人によるだろう」
覚はそれを聞くと独り何かに納得したようで、「ああそうだ、人によるんだろう。それが答えだ」と、目を見開いたままにやけた。そのまま立ち止まっているので学が二、三歩先へ歩くと、ふいに耳元でぶん、と音がし、奥のほうで壁にどかんと何かがぶつかった。一瞬遅れて思考が戻り、学は音の方向から、覚が背後から石鹸を思い切り前へ投げつけたのだと理解した。意図が不明なので単なる迷惑行為として切り捨てようとしたとき、ジリリリリリ・・・と警報装置が部屋の空気を震わせた。
学は小さなペンライトを出そうと鞄を探ったが見つからず、しかし代わりにその手は失くしたと思っていた折りたたみ傘に触れた。
――あった。
一度鞄の整理をしたときベンチに置きっぱなしたと思い、そのような認識と記憶で間違いないと結論づけたというのに、こんなにあっさりと内ポケットに入っているとは。学はまず安堵と喜びを覚え、それから先ほどの自分の反芻内容に疑問を抱き、それから世界の秩序を言祝いだ。
――自分の手を離れたとたん、無用の長物になってしまう、諸々の物体たち。
誰かに盗られたのならそれでいい。壊れたのなら仕方ない。しかし、自分の管理がわずかばかり至らなかったばかりに意味ある物体がゴミと化すのは、学には許せなかった。
大仰な言葉を使えば、「文明への敬意」とでも言おうか。今後の自分たちにそれを復興させ、盛り立てていく力はない。先細りしていく工業力――否、そもそもの理解力が「維持」のラインを下回り続ける以上、その分野は確実に失われてゆく。今はまだ台風の後に傘の屍が転がるが、やがていつの日か破れ傘を奪い合う日が来て、その後は、雨を避けるという行為を忘れるのだろう。
何をも生み出すことはなく、貧困へ、心も体もただただ貧困へと移行してゆく世界。野蛮な弱肉強食、不衛生と病気、そして何より、ものを考える理性というものが徐々に通用しなくなり、そして考えるということ自体を忘れてゆく――。
学は暗い未来に思いを馳せたが、しかしそれは世界全土の暗雲というより、ただ自分自身の不安と恐怖であることに気がついた。手のひらで持てるような小さな暗雲が学ただひとりの頭上に浮かんでいるのなら、そんな状態はやや馬鹿馬鹿しく思えてくる。そら、その証拠に、横を歩く覚の頭上は暗雲どころか、まるでお花畑じゃないか。
「なあ、マナブさん。こういうのっていいよなあ、俺は見るたびうっとりする」
「この、置物だか飾りだかろうそくだか?」
「石鹸だろ?」
「ああ、そうか」
石鹸なら使い道がある、と真っ先に思い描いたのが職場と寮の洗面台だったが、それらの補充を考える必要はなく、在庫やコスト計算もすでに学の手から離れた事柄だ。学にとって石鹸などというのは一個いくらという数字上の概念でしかなく、また、ありとあらゆるものを除菌シートで拭いてまわる生活の中では、気休めですらない、洗面台に立つ隣人への清潔アピールでしかなかった。しかしそんなものを覚はまるで世にも素晴らしい宝石のように眺め、いとおしそうに指先でその縁をなぞっている。まったく、この世の客観性はどこにあるのだ。
「ほら、こんなにきっかり四角いし、しかも真ん中に彫り物がしてある。どんな刃物で削るんだろう。それとも型を取るのか」
「石鹸としては使いにくそうな形だな。何かの記念品や贈答品の余り物だろう。ほぼ価値はない」
「色が透けたようなのもある。どうやって違う色のを組み合わせるんだろう。何だか、食い荒らしたくなってくる」
「食うなよ、食い物じゃない」
「全部、最終的には、口に入れてこの歯で噛むというのが、すべての落ち着きどころなんじゃないのかね」
「・・・人によるだろう」
覚はそれを聞くと独り何かに納得したようで、「ああそうだ、人によるんだろう。それが答えだ」と、目を見開いたままにやけた。そのまま立ち止まっているので学が二、三歩先へ歩くと、ふいに耳元でぶん、と音がし、奥のほうで壁にどかんと何かがぶつかった。一瞬遅れて思考が戻り、学は音の方向から、覚が背後から石鹸を思い切り前へ投げつけたのだと理解した。意図が不明なので単なる迷惑行為として切り捨てようとしたとき、ジリリリリリ・・・と警報装置が部屋の空気を震わせた。
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