冷血

あとみく

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生物1

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 行われたことは、葉の収集だった。
 蟻がハンドルを握って車を運転するはずもないと自分の認識を笑ったのも束の間、それなら中は空だと早々に結論づけた先ほどの自分もすぐに笑わなくてはならなかった。学は三十分ばかり建物の隅で車が動き始めるのをじっと待ち、覚はその間、あちこち動き回って蟻を観察していた。もし車の中いっぱいに詰まっていたら、外に出ようと窓を割る前に全身真っ黒になって死ぬぞと脅したが、覚の心には届かなかったらしい。
 そして結局、蟻が黒い波となって学たちを襲うことはなく、覚の報告によれば「そこそこの労働が行われ」たのち、全員が車に戻り、軽いスモーク張りの窓は閉じられた。
 学も覚も、車が動き始めたら目配せすらせず、互いに何かを考えたままその徐行スピードに同調し、おとなしく建物を出た。外の冷気と暗さと土っぽいにおい、そして静けさがほんの小一時間前の自分と今の自分とを分かつ溝となっており、学の視線は無意識に遠くを、より遠くを求めた。ふたりはSUVが高速の出入口へ消えるのを確かめると、どちらからともなく建物の壁にもたれ、めいめい物思いに耽った。
 学が考えていたのは、今更ながら、あるいはこの期に及んで、貨幣経済についてだった。おそらくあの蟻たちに自分たちのような通貨のやりとりはない。序列や役割分担はあるだろうが、タイムカードの労働時間に応じて貨幣や現物が配られるわけではないだろう。否、本当はそんなことすら学の知識の外側にあるが、ひとまずはそういう前提で話を進めることにする。
 そうして、翻って、自分たちの社会はどうか。貨幣経済は元々人間が生み出した仕組みだが、物々交換や貿易に際し、分かりやすい単位の代替物をいったん間に挟み、ツケや利息を見える形に置き換えたのがその始まりだ。つまり、まずカネありきではなく、モノありきであり、その価値をいったん石ころでも貝殻でも把握しやすい物体に移し替えて、取引先ごとにその管理を行ったのだ。やがて貝殻は金貨になり、原料がその価値を上回ると紙幣になり、そしてそれは電子マネーに置き換わって久しく、今では数字の羅列でしかない。それでも不変の数学と統計学とが経済のバランスを取り、初任給と昇給率が慎重に計算され、そこに労働の価値がぶら下がっている。保険という業界も同じ意味合いの数字で成り立っており、年齢ごとの死亡率や社会情勢によって料率が改定され、そのねずみ講のような仕組みを維持し続けている。
 そうやって、カネそのものを拝むことはなくなったわけだが、そうして目に見えないパーセンテージに沿うように、沿わされるように生きていると、ふと思うのだ。カネなぞなくとも、俺たちは同じ労働をしているのではないか、と。否、そもそも既に、傍から見れば俺たちは蟻と同様、貨幣の分配もなくひたすらその役割を実行し、働いて寝るだけの日々を送っているように見える。数字の上での利益、利益、利益至上主義に貫かれたこの社会ではあるが、その実、実際に行われていることは全体での労働、ただそれだけだ。誰もがリストラ、破産、無一文を恐れ、社会の破綻、国家の破綻を案じるが、数字のことを忘れて昨日と同じ労働に励む時、果たしてその不安は虚実どちらか。生まれるだけで金がかかり、存在するだけで税金が取られる世の中だが、もしそのカネがなかったとして、しかし全員がカネのない労働を盲目的に続ければ、それは<生きている>ということなのではないか?
 しかしたぶん、究極的にはきっと、誰かが日々労働をして暮らすという意味は、朝起きて、体を動かし、無秩序をひっぱたいて秩序に戻し、誰かの尻拭いをし続け、その果ての飯にありつく、ということでは、ないのだろう、と学は思う。この<枠外>へ来て、なぜだかそれが霧のように、学の体をかすかに取り巻いているような気がした。きっと、個々人の労働人生というものを上回り、貨幣経済という意味をも上回る、「パーセンテージ」がそこには巣食っている、否、その巣の上に、中に学たちが取り込まれている、否、組み込まれている、というのが「本当のところ」だろう。水溜りに雨の最初の一滴が落ちたとき、その波紋は同心円状に広がっていくが、次の一滴、次の一滴が降れば、その円どうしがぶつかるところで山と谷が相殺され、円は乱れる。それはただ単純な波の力学が作る幾何学模様だが、同じ意味合いの純粋な自然の力学が、物体だけでなく、社会や生き物全体にも行き渡っているような気がする。労働をしていない身になって、本当に、労働とは何だろうと思う。今のところ学に分かっているのは、それは幼少から刷り込まれている「大きくなったら○○(職業)になりたい」という標語のような夢とか、「お疲れ様」とねぎらう文化だとか、結局のところ「働いてナンボだ」というような風潮とか、あるいは「自分を高めるために、目の前のことにベストを尽くす」みたいな斜め上の労働主義とか、そうして気づくとすがりつく先は「仕事」だけになっている精神の疲弊とか、そういうものはみんなみんな、薄々感じていたように、全部仕組まれた嘘だったということだ。そう、本当のところは、働く皆々で汗をぬぐいながら、ただひたすらその「生き物全体にも行き渡っている力学」というのを、何とか優しい言葉で翻訳し続けている。「一期一会、その繋がりを、大切に」。「感謝の心、伝わる先は、お客さま」――。
 心の中で冷笑し続けた毎朝の朝礼の文句を諳んじて、学はその哀しさに少し頭の下がる思いもした。少し前に聞いた忘年会帰りの馬鹿笑いも、今は違って響く。そうまでして生きていることを、もはや尊いとすら感じた。誰のせいなんだろう。いったい誰のせいで、学たちはこんな生を生かされているのだろう。
 とん、と肩に覚の頭がもたれてきて、むにゃむにゃと何かを言った。反射的に「別に、気に掛けない」と答えたが、寝言かもしれないし、そもそも微塵も悪いとは思っていないだろうから、謝ったのでもないのだろう。ならば今の受け答えはとんちんかんになるが、その文脈の帰結を修正しようという思いは、そのじんわりした熱に溶かされて消えた。いま隣にいるのは別の種類の別の存在であり、彼が眠りに落ちるまでに考えていたであろうことの計り知れなさを考えれば、学の思う「帰結」や「修正」など、手落ちも手落ち、ザルもザルで、不備も完備も修正もクローズも永遠に訪れない幻なのだと思った。まったく、物質としても生き物としても完全なる力学に包まれている存在だのに、この手落ちこそが奇跡であり、人生の生きる意味なのだろう。
 それからその寝息がまた落ち着いて、力の抜けた腕が学の膝に載り、その手のひらが開いた。そこにはあの、蟻が切ったあとの葉が握られていて、学はそっとそれを手に取った。子どもが描く雲のような形に切り取られたその切り口は案外に鋭く、むしったというよりカッターで切ったようになっていた。さて、それほど旨いならかじってみるかと口元へやったが、これは覚の戦利品だと思ってやめた。そうして虫食いの葉を覚の手に戻して握らせ、顔を上げて見つめる先は、結局、やはりあの<出入口>だった。動機などはないし、そこに山があるから登るというのでもないが、知る安心と知らない不安とを繰り返すことで心が拡大拡張してゆくような今の自分には、その道を進むよりほかないと思った。
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